ー甲斐健の旅日記ー

永観堂/1000年以上にわたって、もみじの名所として親しまれてきた寺院

 永観堂(えいかんどう)は、京都市左京区永観堂町にある寺院です。浄土宗西山禅林寺派総本山で、山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号を無量寿院(むりょうじゅいん)、寺号を禅林寺(ぜんりんじ)といいます。永観堂は通称です。開基は、弘法大師空海の高弟真紹(しんじょう)僧都です。古くより(平安初期)もみじの名所として知られ、「秋はもみじの永観堂」といわれています。

 仁寿3年(853)、空海の高弟である真紹が、都における実践道場を志し、文人で歌人でもある藤原関雄(せきお)が閑居していた山荘を買い取り、真言密教の道場を開いたのが、永観堂の始まりとされます。その10年後の貞観5年(863)には、清和天皇(在位858~76)より定額寺(じょうがくじ)としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となりました。

 その後、火災により多くの堂宇(どうう)を失いますが、五世の深覚(じんがく)とその弟子永観(ようかん)が再興します。特に七世住持となった永観は、当初南都六宗の三論宗や法相宗の学僧でしたが、やがて熱烈な阿弥陀信者となっていきました。永観は、毎日一万遍の念仏を欠かさず、人々にも念仏を勧めていったといいます。この頃から永観堂は、真言密教と奈良で盛んだった三論宗系の浄土教との兼学の寺院となりました。阿弥陀堂にある「見返り阿弥陀(如来)」には、次のような言い伝えがあります。永保2年(1082)2月15日早朝、永観はいつものように念仏を唱えながらの行道(ぎょうどう:仏堂や仏像の周囲を巡り歩くこと)をしていました。すると、壇上から阿弥陀如来が下りてこられて、永観を先導するように行道を始められました。永観は突然のことに驚き、その場に立ち尽くしていました。すると、阿弥陀如来は永観を振り返り、「永観遅し」と声をかけられたというのです。阿弥陀如来はそのままの姿勢で、「奇瑞(きずい:めでたいことの前兆として起こる不思議な現象)の相を後世永く留めたまえ」とおっしゃり、元の姿に戻ることはなかったといいます。阿弥陀堂に安置される、「見返り阿弥陀」は、その言い伝えをもとに、左に向かって振り返る姿で彫られたものです。なお、永観堂の名は、中興の祖永観の功績を讃えて名付けられたといいます。

永観堂が、真言宗から浄土宗に改めるのは、12世の 静遍(じょうへん)の時です。静遍は、源頼朝の帰依(きえ)を受けたほどの高僧で、真言宗の学匠でした。しかし、法然上人の書いた「選択(せんちゃく)本願念仏集」に感銘を受け、浄土宗の教えに帰依するようになったといいます。その後も法然上人の弟子らが住職を引き継ぎ、以後浄土宗の寺院として変わることなく現在に至ります。

 この永観堂も、応仁の乱の戦火からは逃れられず、伽藍(がらん)をことごとく焼失してしまいました。その後、明応6年(1497)から永正年間(1504~21)にかけて、御影堂、書院、方丈、回廊が再建され、慶長12年(1607)には阿弥陀堂が再建されるなど、次々と伽藍が整えられ、19世紀初頭には、現在見る姿に復興したといいます。

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 永観堂へは、京都駅からですと市バス5系統に乗り、「南禅寺・永観堂前」で降り、バス停のある交差点を東にまっすぐ歩くと着きます。

 境内への入り口となる総門は、江戸時代末期の天保11年(1840)建立とされる高麗門です。この総門をくぐると、まさに「もみじの永観堂」の名の通り、鮮やかに色づいた紅葉が目に飛び込んできます。その美しさを満喫しながら参道を進み中門(延享元年(1744年)に建立された薬医門)をくぐると、堂塔が立ち並ぶ境内に入ります。

 まずは案内の通り、釈迦堂前の大玄関から建物の中に入ります。方丈(釈迦堂)は、永正年間(1504~11)に後柏原天皇により建立されたとされます。入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)の建物です。内部には、桃山時代から江戸時代にかけて描かれた襖絵があります。釈迦堂は、寛永4年(1627)に建立された入母屋造、桟瓦葺の建物です。前庭からは唐門を臨むことが出来ます。唐門は、文政13年(1839)に建立されました。檜皮葺(ひわだぶき)唐破風(からはふ)造です。釈迦堂内部には、本尊の釈迦如来立像(鎌倉時代後期作)が安置されています。

 御影堂は、大正元年(1912)に再建された総ケヤキ造の建物です。内陣須弥壇(しゅみだん)には、宗祖法然上人を祀っています。阿弥陀堂は、慶長12年(1607)、豊臣秀頼により、再興されました。1597年に建立された大阪四天王寺の曼荼羅堂(まんだらどう)を移築したものとされます。一重、入母屋造、本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。正面に3間の向拝(こうはい)が施されています。また正面の柱などに、極彩色の模様が描かれています。内陣には、本尊の「見返り阿弥陀(如来)」が安置されています。また天井には、「百花図」、「散り蓮華」などが極彩色に描かれています。

 御影堂の北側の道から140段の石段を登っていくと、多宝塔に着きます。ここからの京都市内の眺望は、素晴らしいものがあります。多宝塔は、昭和3年(1928)、篤志家(とくしか)の寄付で建造されました。

 永観堂は、寺院というより紅葉の名所という印象が強いせいでしょうか、歴史ある寺院を訪ねたというよりも、最高の観光地を訪ねたという感覚になります。それにしても、永観が「見返り阿弥陀」を彫らせ、それを本尊としたのは何故なのでしょうか。自分が阿弥陀如来に声をかけられるほどの名僧であることを自慢したかったからでしょうか。いやいや、阿弥陀如来は、われわれ一人一人を気にかけておられ、だれにでも話しかけられるお方であるといいたかったのでしょうか、それとも「見返り阿弥陀」で人々の関心を高め、一人でも多く寺院に足を運ばせ、念仏による救いを得られるよう願ったからなのでしょうか。そんなことを考えると、また歴史のミステリィに引き込まれそうになってしまいます。



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