ー甲斐健の旅日記ー  

その他DB

平将門の乱(たいらのまさかどのらん):
 天慶3年(940)、平将門が数千の兵を率い坂東八か国に支配を広げていった反乱(承平天慶の乱)。自らを「新皇」と称し、「実力のあるものが天下を治めるべし」と、高らかに宣言したとされる。このことにより、万世一系の天皇家を冒涜するものとして、将門は日本三大悪人の一人といわれるようになったという(他は、道鏡、足利尊氏)。
 朝廷は、将門討伐のため、公家の藤原忠文を征夷大将軍とし、兵を募って反乱を鎮圧した。この時活躍したのが、藤原秀郷(俵東太)であり、彼もまた中央から地方へ土着した豪族だった。この時代になると、もはや中央政府に事態の解決能力はなく、武士が世の中を動かす時代となっていたという。
 なお、将門は桓武天皇の五世の孫であった。

承久の乱(じょうきゅうのらん):
 承久3年(1221)に、後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げ、逆に幕府軍に大敗、鎮圧された事件。

応仁の乱(おうにんのらん):
 応仁元年(1467)に発生し、文明9年(1477)までの約10年間にわたって継続した内乱。8代将軍足利義政の継嗣争いや有力大名家の後継争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領家の細川勝元と山名宗全らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。足かけ十一年に亘る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。

紫衣事件(しいじけん):
 朝廷が大徳寺や妙心寺の僧侶に出した紫衣勅許を江戸幕府が無効とした事件(慶長 18 年:1813年)。紫衣着用の許可は古くから朝廷が行なってきたことであり,この時期には勅許による収入が朝廷の重要な財源となっていた。これに反発した後水尾天皇が退位し、幕府と朝廷の対立が深刻化した。

蛤御門の変(はまぐりごもんのへん):
 禁門の変ともいう。元治元年7月19日(1864年8月20日)、京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職の松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件。長州藩は、朝廷守護の主張の下京都御所内への侵入を試み、蛤御門付近で会津、桑名藩兵と衝突する。この時、乾門(いぬいもん)を守護していた薩摩軍が駆け付け、長州勢は敗北する。この戦で長州は朝敵とされ、長州と薩摩の激しい対立の要因の一つともなった。

徳政一揆(とくせいいっき):
 室町時代に金融業者の高利や取り立てに苦しんだ畿内およびその周辺の農民や地侍が、徳政令(貸借・売買契約を無効にし、質入れや売却で失った御家人の所領を回復させるよう命じた鎌倉幕府の政策)の発布を要求して起した土一揆。

天明の大火(てんめいのたいか):
 京都洛中での大火災。東は河原町・木屋町、北は上御霊社・鞍馬口通り・今宮御旅所北辺、、西は智恵光院通り・大宮通り、南は東西本願寺北辺に及び、焼失した町数は1424町余、3万6797軒、6万5340世帯,寺201,神社37が被害に遭った。

管領(かんれい):
 室町幕府で、将軍を補佐し政務全般を総轄する役職(執事)。足利氏一門の細川・斯波・畠山の三氏が交代で就任し、これを三管領と称した。

関東管領(かんとうかんれい):
 南北朝時代から室町時代にかけて、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐する役職。室町幕府将軍が任命権を持っていた。

五摂家(ごせっけ):
 藤原氏のうち近衛,九条,二条,一条,鷹司の5家をいう。

瑞獣(ずいじゅう):
 古代中国でこの世の動物達の長だと考えられた特別な霊獣。

御子左家(流)(みこひだりけ⦅りゅう⦆):
 藤原北家藤原道長の6男長家を祖とする藤原氏の流。家名である御子左(みこひだり)の由来については、長家が醍醐天皇の皇子兼明親王の御子左第を拝領して、御子左民部卿と呼ばれたことによるとされる。なお、長家の曾孫俊成、俊成の子定家は歌人として名高く、和歌の家となった。定家の孫のとき二条家、京極家、冷泉家の3家に分かれた。

向切(むこうぎり):
 茶室のレイアウトのひとつ。亭主が点前をする点前座(てまえざ)と客が座る客座(きゃくざ)において、点前座の畳の客座寄りに炉を切った茶室。客座と反対側に炉を切ったっ場合は、「隅切」という。

蟠龍図(ばんりゅうず):
 地面にうずくまってとぐろを巻き、天に昇る前の龍を描いた図。

金碧画(きんぺきが):
 金銀の箔(はく)や野毛(のげ:箔を細く切ったもの)、泥などで地をつくった上に岩絵具で濃彩を施した装飾的絵画。

蒔絵(まきえ):
 漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法。

切金文様(きりがねもんよう):
 金銀の薄箔を 3mm前後の幅で長方形や三角や四角に切り、これを膠 (にかわ) で張付けて装飾文様を作る技法。

対聯(ついれん):
 一定の規則に従い文字を3枚の赤い紙に書き、建物の入り口などの両側と上に貼ったもの。右側に張るのは「上聯」、左側に張るのは「下聯」、上に張るのは「横批」と言う。「上聯」と「下聯」は言葉の意味が対照的になる対句であり、「横批(ピンイン;héngpī)」は対句の意味をまとめたり、他の意味に転じたりする短い1句となる。中国では古来、「春節」を祝う時に貼り出されることから、「春聯」とも言う。

三蹟(さんせき):
 書道の大御所三人。小野道風(おののみちかぜ「トウフウ」)、藤原佐理(ふじわらのすけまさ「サリ」)、藤原行成(ふじわらのゆきなり「コウゼイ」)。

井田制(せいでんせい):
 中国の古代王朝である周で施行されていたといわれる土地制度。まず、1里四方の田を「井」の字の形に9等分する。そうしてできる9区画のうち、中心の1区画を公田といい、公田の周りにできる8区画を私田という。私田はそれぞれ8家族に与えられる。公田は共有地として8家族が共同耕作し、そこから得た収穫を租税としたという制度。

強訴(ごうそ):
 寺社の僧や僧兵あるいは神人たちが、仏罰・神罰や武力を振りかざして、朝廷や幕府に対し自らの要求を通そうとした行動。特に「南都北嶺」と並び称された南都興福寺と比叡山延暦寺は強訴の常連で、興福寺は春日大社の神木(春日神木)、延暦寺は日吉大社の神輿などの「神威」をかざして洛中内裏に押し掛けて要求を行ったという。

二十二社(にじゅうにしゃ):
 神社の社格の一つ。国家の重大事、天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣(ほうべい:天皇の意志により、供え物を受けること)を受けた神社。白河天皇治世の永保元年(1081年)に制度として確立したとされる。

摂 社(せっしゃ):
 本社に縁故の深い神を祀った神社。本社と末社の中間に位置し、本社の境内にある境内社と境外にある境外社がある。

算額(さんがく):
 江戸時代の日本で、額や絵馬に数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したもの。
 平面幾何に関する算額(特に円の中に多数の円や別図形の中に多数の球を入れるなど接点を持つもの)が多い。数学者のみならず、一般の数学愛好家も数多く奉納している。

官幣中社(かんぺいちゅうしゃ):
 明治維新から戦後まで続いた、新たに神社を等級化する制度(近代社格制度)における社格の一つ。近代社格制度では、社格を官社と諸社(民社)、無格社に分ける。ただし伊勢神宮は別格とする。官社は、祈年祭や新嘗祭で国から奉幣(ほうへい:天皇の命により幣帛(へいはく:神への捧げもの)を奉献すること)を受ける神社で、地方官(この場合は国弊社)ではなく神祇官が祀るのが官幣社。その順位は、
官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社

別表神社(べっぴょうじんじゃ):
 昭和21年(1946)の神社の国家管理(社格制度)の廃止に伴い、それに代わるものとして昭和23年(1948)に定められたもの。社格制度廃止後は、全ての神社は対等の立場であるとされた(伊勢神宮を除く)が、旧の官国幣社や一部の規模の大きな神社については、神職の進退等に関しての特別な扱いを認めた。これが別表神社と呼ばれる。その特別扱いとは、宮司の下に権宮司を置くことを認めるとか、宮司、権宮司などは一定の階位以上でなければならないとするもの等であった。別表神社の数は、2006年で353社にのぼる。

扶桑略記(ふそうりゃっき):
 神武天皇から堀河天皇の寛治8 (1094) 年までの編年史。 30巻。延暦寺の学僧皇円 (?~1169) の編。 12世紀末の成立。現存するのは、巻2~6(神功皇后~聖武天皇) 、巻 20~30 (陽成天皇~堀河天皇) の 16巻分であるが、抜書きとして神武天皇から平城天皇までの部分があるため、散逸巻の一部分をうかがうことができる。

今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう):
 平安時代後期の日本最大の説話集。作者未詳。 31巻。 1040話。天永~保安 (1110~24) 頃成立か。天竺 (インド) ,震旦 (中国),本朝仏法,本朝世俗の4部に分けられ,説話の内容によって整然と分類配列される。

箕(み):
 穀物の選別や運搬に使う農具。竹皮、ふじ皮、桜皮などを編んで平らな容器状にし、周囲に竹や細木を結んでU字状の縁をつけたもの。小量の穀物を入れ、両手で軽くあおると比重の大きい穀類が残り、砕米、籾殻、塵埃などの夾雑物はU字状の縁のない部分からふるい分けられる。

五三の桐紋(ごさんのきりもん):
 3本の直立する花序(枝の花の配列状態)と3枚の葉から構成されているものが基本的図案。花序につく花の数が左から3-5-3のものを五三桐(ごさんぎり)という。
五三の桐

俗論派・正義派(ぞくろんは・せいぎは):
 幕末期に長州藩にあった派閥。俗論派(保守派)は、あくまでも幕府に恭順の意を示し、幕藩体制の維持を主張したが、正義派(かいかくは)は、藩政改革を推し進め、軍備の充実を図り、場合によっては幕府と一戦交えても、新しい政治体制を構築することを目指すと主張した。この、正義派・俗論派の呼び名は高杉晋作が命名したといわる。俗論派の代表は、坪井九衛門、長井雅樂(うた)、椋梨藤太(むくなしとうた)ら。正義派には、吉田松陰、村田清風、周布政之助、桂小五郎、久坂玄端、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、村田蔵六などの名が挙げられる。



禁門の変(きんもんのへん):
 文久3年(1863)、八月十八日の政変で京都から追放された長州藩の久坂玄端は、長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を携えて、諸隊を率いて京へ向かった(元冶元年;1864年)。しかし、薩摩藩も京に入り、幕府も、諸藩に京都出兵の命を下したため、京の町は一触即発の状態となった。そしてついに、御所の蛤御門で戦闘が始まった。しかし、多勢に無勢で長州藩は敗退し、久坂は自害して果てた。御所に「弓引いた」として、長州は「朝敵」となってしまった。

花月楼形式(かげつろう けいしき):
 江戸中期ごろ、茶道を広めるためにできた茶室の形式。8畳の比較的広い茶室で、中央に1間の床の間があり、その床の右側に琵琶棚(琵琶を置くために作られた棚)という棚が設けられる。床に向かって左側が点前畳で、右側の琵琶棚の前が客畳となる。

北前船(きたまえぶね):
 江戸時代から明治時代に活躍した廻船。船主が自ら商品の売買をして各港を巡っていた廻船。

重要伝統的建造物保存地区(じゅうよう でんとうてき けんぞうぶつ ほぞんちく):
 城下町・宿場町・港町・農村など、伝統的建造物として保存が必要と市区町村が定めたもの(伝建地区)の中で、特に重要な文化財と文化庁が指定した地区。建物以外にも、門・土塀・石垣・庭園なども保存の対象となる。平成27年(2015)7月8日現在で、全国に110地区が指定されている。

長州藩家臣団の序列(ちょうしゅうはん かしんだん の じょれつ):
一門(毛利藩主の一族、代々の家老職)➪永代家老(一門に準ずる階級、代々の家老職)➪寄組(一代の家老職)➪ 大組(藩士の中核層)➪ 船手組(海上交通や船舶業務を担当、大組と同格)➪遠近付(大組に準ずる階級)➪寺社組(医師・絵師・茶道・能狂言師など)➪無給通(大組に準ずるが知行地を持たない階級)➪ 徒歩(藩主行列の先導や警備を担当)➪三十人通(無給通の下に位置する階級)➪士雇(士分に準ずる階級)➪ 足軽(藩主の護衛、城の警備を担当)➪中間(藩府諸役所の雑用を担当)➪六尺(駕籠かきなどを担当)

閑谷学校(しずたにがっこう):
 戦国武将池田輝政の孫で、岡山藩主となった池田光政が創立した庶民に開かれた学校。人里離れた場所にあったため全寮制だった。このため、寮生活の費用を賄える程度の生活に余裕のある家の子弟でなければ入学できなかった。また、閑谷学校の創設に伴い、各所にあった手習い所が廃止されたため、逆に貧しい者の学習の機会が失われたという側面もあったという。

ゲルバー橋(げるばー きょう):
 中央の橋げたを、両側から突き出た梁で支える構造の橋。
ゲルバー橋

応永の乱(おうえいのらん):
 応永6年(1399)、将軍足利義満と対立していた守護大名・大内義弘が幕府に対して起こした反乱。将軍の上洛命令に従わない義弘に対して、幕府軍は3万余騎の兵を繰り出し、大内氏が治めていた堺を包囲した。義弘は籠城して奮戦したが、幕府軍の総攻撃により城は落ち、義弘も討ち死にした。大内氏は北九州から近畿にかけて6カ国の守護を兼ねていたが、周防・長門以外の4ヵ国を没収された。しかし、周防・長門は義弘の弟・盛見(もりはる)が守り抜き、大内氏は没落の危機を免れた。

戊辰戦争(ぼしんせんそう):
 慶応4年から明治2年(1868~69)にかけて、薩長を中心とした新政府軍と旧幕府軍および奥羽越列藩同盟(陸奥、出羽、越後の諸藩による同盟)が戦った内戦。この戦いに新政府軍が勝利したことにより、明治政府が日本を統治する政府として国際的にも認められることとなった。

稜堡式城郭(りょうほしき じょうかく):
 城壁や要塞において、外に向かって突き出した角のような形に造られた堡塁 (ほるい:敵の攻撃を防ぐために、石・土砂・コンクリートなどで構築された陣地 )を持つ城郭。大砲による攻撃の死角をなくすために考案されたもので、堡塁全体は星形の形状となる。16世紀のヨーロッパで考案され発達した。日本に現存するのは、函館市にある五稜郭と長野県佐久市にある龍岡城。

堡塁(ほるい):
 敵の攻撃を防ぐために、石・土砂・コンクリートなどで構築された陣地。

諸術調所(しょじゅつ しらべしょ):
 安政3(1856)年、箱館奉行所の教育機関として幕府が設置した北海道初の学問所。教授は五稜郭の設計や日本最初のストーブの設計をした武田斐三郎(あやさぶろう)で、蘭学、測量、航海、造船、砲術、築城、化学を教えた。元治元(1864)年に、武田が蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の教授として転出しため、諸術調所は廃止となってしまった。この学問所の出身者には、前島密(郵便の創設者)、井上勝(日本鉄道の創設者)、吉原重俊(日本銀行総裁)などがいる。また、同志社大学を創設した新島襄も入校するため箱館にやってきたが、武田と会えず(江戸に行っていた)断念している。

蕃書調所(ばんしょ しらべしょ):
 1856年(安政3年)に発足した江戸幕府直轄の洋学研究教育機関。開成所の前身で東京大学の源流諸機関の一つ。

土塁(どるい):
 敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた土製の堤防状の壁。

コロニアルスタイル:
 17~18世紀にイギリス・スペイン・オランダなどの植民地に発達した建築・工芸の様式。本国の様式を模倣し、植民地向けの実用性を加味したもの。

郷士(ごうし):
 江戸時代、武士階級と農民の間に位置した階層。平時には農業、戦時には軍事活動に参加した。武士と同様、藩・幕府に士分として登録され、苗字帯刀を許されていた。

御徒士目付(おかちめつけ):
 交代で江戸城内の宿直を行った他、大名の江戸城登城の際の監察、幕府役人や江戸市中における内偵などの隠密活動にも従事した。

部民制(べみんせい):
 5世紀から6世紀前半の古代日本の社会制度。首長や豪族が土地と民を私有することを認める代わりに、豪族たちが職能集団を率いて王家に奉仕する制度。天皇家の権威は一応保たれていたが、豪族たちの発言力もかなり強く、その立場は世襲であったために、深刻な格差社会が生まれていったといわれる。

律令制(りつりょうせい):
 主として奈良から平安時代に施行された制度。公地公民制(土地と民はすべて国家所有として、私有を認めない制度)を基礎とする中央集権的官僚体制。律令法は刑法の律,刑法以外の諸規定を網羅した令,補足法としての格 (きゃく) ,施行細則である式から成っている。唐の制度にならったもの。

条坊制(じょうぼうせい):
 中国・朝鮮半島・日本の宮城都市に見られる都市プランで、南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路(坊)と東西の大路(条)を碁盤の目状に組み合わせた左右対称で方形の都市プラン。

荒魂(あらたま):
 神の霊魂が持つ2つの側面の一つ(もう一つは和魂)。神の荒々しい側面で、天変地異を起こし、疫病をはやらせ、人々を争いに駆り立てる働き。神の祟りは、荒魂の表れ。これに対し和魂(にきたま)は、陽ざしや雨の恵みなど、神の優しく平和的な側面。神の加護は和魂の表れ。儀式や祭礼を行ったり、供え物を捧げることは、神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えることが目的だったといわれる。

天下布武(てんかふぶ):
 戦国武将・織田信長がすすめた政策。中国の史書から引用した「七徳の武(武を用いて、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊にする、の七つの徳を実現すること)」をもって、天下を統一すること。信長は、岐阜城に移ったころから、天下布武と刻印した朱印を頻繁に用いるようになったという。

本迹勝劣(ほんじゃくしょうれつ):
 法華経を構成する二十八品(28章)を前半の「迹門(しゃくもん)」、後半の「本門」に二分し、本門に法華経の極意があるとする考え方。

天文法華の乱(てんもんほっけのらん):
 天正5年(1536)、比叡山僧兵と六角近江衆を中心とする軍勢が洛中に乱入し、京都法華宗二十一本山を焼き討ちした事件。山門の勢力15万、近江衆3万に対して法華宗側は2万から3万といわれる。下京は悉く焼失し、上京は三分の一が焼けたという。そして、法華宗二十一本山すべて焼失し、法華宗側の戦死者は、一万とも三、四千ともいわれる。女子供にも数百の犠牲者が出た。兵火の被害は応仁の乱をはるかに上回り、罹災そのものの規模は、天明の大火に匹敵したといわれる。この戦を仕掛けたのは山門つまり比叡山延暦寺だが、その動機は法華宗が京の商工業者たちの信仰を集めたこと、つまりわれわれの縄張りを乗っ取られたと叡山側が危機感を感じたことによるという。

信長公記(しんちょうこうき):
 織田信長の一代記(幼少のころから本能寺の変まで)。信長の家臣だった太田牛一が、信長の死後編纂したもの。文書中の事跡の正確さゆえ、信頼性の高い史料と評価されている。

当代記:
 江戸時代初期に編纂された史書。徳川家康の業績を中心にして、戦国時代から江戸初期の出来事を記述しており、当時の世相を知る上では貴重な史料とされる。太田牛一が書いた『信長公記』などの記録史料を再編したもの。編纂者は、姫路藩主・松平忠明(母は家康の娘・亀姫)といわれる。

兼見卿記(かねみきょうき):
 戦国時代から江戸時代初期にかけての神道家・吉田兼見が書き記した日記。兼見は、足利義昭、織田信長、明智光秀などとも交友関係を持っていたため、この日記には京の政治情勢が詳しく記述されている。本能寺の変が起こった天正10年(1582)の分だけは、正本と別本の二種類が残っており、光秀との関わりのあるくだりが書き直されている点が注目されている。

言継卿記(ときつぐきょうき):
 戦国時代の公家、山科言継が書き記した日記。戦国期の政治情勢を知るための貴重な史料とされる。なお、言継は医療にも精通しており、実際に携わった医療行為についても詳細に記録っされており、現存する日本最古の診療録(カルテ)とされる。

惟任退治記(これとうたいじき):
 本能寺の変から4か月後、羽柴秀吉がお伽衆(おとぎしゅう:側近、参謀)の大村由己(ゆうこ)に書かせた記録書(全20ページ)。本能寺の変から山崎の戦いを経て、信長の葬儀に至るまでを記述している。明智光秀が、主君・信長のいじめ(パワーハラスメント)に対して恨みを抱き、謀反に至ったことを強く主張している。

川角太閤記(かわすみたいこうき):
 江戸時代初期に書かれた、豊臣秀吉の逸話をまとめた書籍。本能寺の変から関ヶ原の戦いまでを記述している。作者は、田中吉政(豊臣秀次の家老を務め、後に大名となった)の家臣、川角三郎右衛門。秀吉と同時代の武士たちからの聞き取りや覚書を参考にしてまとめ上げたものといわれる。

甫庵太閤記(ほあんたいこうき):
 儒学者小瀬甫庵(こせ ほあん)によって寛永3年(1626)に書かれた。『太閤記』の中ではもっとも有名。秀吉伝記の底本ともいわれる。しかし、太田牛一が書いた『信長公記』が実証的著述で、記録史料としての信憑性が高いのに比べて、『甫庵太閤記』には儒教的価値観がにじみ出ており、随所に創作箇所を盛り込んだ物語(文学作品)としての色彩が濃いといわれる。例えば、長篠の戦で信長が採用したとされる「鉄砲の三段撃ち」など、この本によって知られる逸話の多くが創作だったとみられている。一方で、物語としては大変面白く、刊行本として大衆の間に広く流行したため、歴史的事実が誤って伝えられていったことは否定できない。

明智軍記(あけちぐんき):
 江戸時代中期に書かれた、明智光秀を主人公とする軍記物。著者は不明。光秀の美濃脱出後の放浪生活から山崎の戦までを描く。間違いが多く、また他の史料と整合しない独自の記述が多く、史料的価値は低いとされる。

白紙の四手しない
 光秀の馬印は「白紙の四手しない」といい、「森家先代実録」や「信長記」に残る記述によっても確認できる。この馬印の起源は神道にあり、神前に供える酒壷にさす鳥羽を意味しているという。なぜ光秀がこの馬印を用いたのかは不明。
白紙の四手しない」

外城制度(とじょうせいど):
 薩摩藩がとった地方支配の制度。領内を区分けし、そこに武士を住まわせ、軍事的な拠点を複数作ると共に、農民や漁民を効率的に支配させた。藩主の居城(内城)に対して、これらの軍事的拠点が外城(とじょう)と呼ばれた。外城内に住む領民は有事の際、領主や地頭の指揮下で戦に参戦した。それぞれの外城の領民は自分たちの拠点(外城)を守るとともに、内城を守る役割を担っていた。最盛期には外城の数は92ヶ所にも及んだという。鶴丸城は、それらの外城を束ねる存在だったわけだ。  

郡目付(こおりめつけ):
 武家社会の役職。江戸時代には、1郡に1人の郡奉行をおかれ、その下に目付、代官、手代などの役職があった。主に、年貢の収納、訴訟、農民の統制などの業務に従事していた。

佐賀の均田制度(きんでんせいど):
佐賀藩主・鍋島直正が天保十二年(一八四一)に大地主層の猛反対を押し切ってすすめた制度。大商人・大地主などの不在地主がもっていた田畑をとりあげ、小作農家が一世帯で自作しうるだけの広さの農地を分け与えた。翌年十二月には、加地子(小作米)猶予令を出して、十年間小作料を完全免除とし、それを十年目に再延長し文久元年(一八六一)まで続けた。この均田制度によって小作人は本百姓となることができた。

昌平黌(しょうへいこう):
江戸幕府の学校。昌平坂学問所または聖堂ともいう。当初は、幕府の文教政策を担当した林家の私塾であったが,元禄3 年(1690) 林家3代目鳳岡 (ほうこう) がこれを神田湯島に移し、孔子廟や学寮を建て、その地を孔子生誕の地にちなみ昌平坂と名づけ聖堂と称した。寛政9 年(1797)、 朱子学を正学とする幕府の学問所として昌平黌と名づけた。入学できるのは、幕臣・藩士らの子弟のみだった。これとは別に、諸生寮を設置して陪臣や浪人も入学させたので、幕末には諸国の人材が集った。明治維新後は昌平学校、大学校となり、明治4 年(1871) 廃校となった。

徴士(ちょうし):
王政復古の大号令のもと、慶応4 (1868) 年1月、総裁・議定・与の三職分科の制が制定された際にできた役職。議事官。翌2月には、参与や各局判事となった。明治2年6月に廃止。

中弁(ちゅうべん):
中弁は、明治初期の政府の役職。大弁・少弁とともに弁官を構成し、太政官(内閣に相当)に所属した。職務内容は、今日の内閣官房に法制局を併せたようなもので、太政官最高首脳(左・右大臣、大納言、参議)あての書類は弁官の事前審査を経由しなければならなかった。太政官が発する布告や指令類の起案も弁官の任務だった。

正院(せいいん):
明治4年(1871)の廃藩置県後に設立された。太政官職制の最高機関。 太政官を正院、左院、右院の三つに分け、正院は左右両院の上に立つ。太政大臣、納言(のちの左右大臣)、参議、枢密正権大少史、正権大少史等で構成される。1873年に改正され、その権限はさらに強まり、天皇輔弼の責任が明確にされた。1877年廃止。

側用人(そばようにん):
徳川幕府の創始者・家康は、後世に凡庸な将軍が現れても徳川の治世が誤りなく永続するようにと、老中の合議で政策を決定し、将軍はこれについて承認するだけというシステムをつくりあげた。しかしこれでは、将軍の意向はなかなか政策に反映されにくい。そこで五代将軍・綱吉は、将軍と老中の間に側用人という役職を置くシステムをつくった。これにより、老中が合議で決めた政策が将軍の意にそぐわなければ、側用人の段階で修正要求が出され、また、将軍が命じた政策に対して老中の反対があっても、側用人が将軍の意をもって、反対意見を握りつぶすことも可能になった。老中の合議制は形骸化し、将軍(あるいは側用人)の意向が政策に反映されやすくなったとともに、側用人の権力も絶大なものとなっていった。老中などの要職は、名門の譜代大名から選ばれるのが通常だったが、側用人は実力本位で選出される。そのため、極めて優秀な人物が多かった。代表的な人物としては、柳沢吉保(五代将軍綱吉)、間部詮房(六代将軍家宣)、田沼意次(十代将軍家治)があげられる。

側用取次(そばようとりつぎ):
御側御用取次の略。職務は将軍の居所である中奥の総裁、将軍と老中以下の諸役人との取次役、将軍の政策・人事両面の相談役、将軍の情報源である目安箱の取り扱いや御庭番の管理などである。通常の側衆が決定事項などの事務処理をするのに対し、側用取次は未決事項の立案・審議に参画し、時には将軍に相談無しに老中への指示を出す場合もあった。8代将軍吉宗以降定められた役職で、通常は複数名(3名程度)いた。

徳川実紀(とくがわじっき):
19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録。徳川幕府の創始者家康から始まり、10代将軍家治までの出来事を日付順にまとめたもの。附録には、将軍にまつわる逸話が収められている。

検見法(けみほう):
近世の日本における年貢徴収法のひとつ。農村に派遣された代官がサンプルを刈り取って評価した田畑の収穫高に応じて貢租量を決める徴税法。問題点としては、代官や配下の役人による賄賂や接待の強要、また現地農民との癒着により課税額が増減されることがあった。また、代官の検見が終了するまで耕地の農作業は一切禁止され、稲の刈取りもできなくなるため、二毛作を行っている農家にとっては、裏作を行う時期を逸してしまうこともあったという。これにに対して、毎年一定の比率で年貢を徴収する方法を定免法(じょうめんほう)という。

有毛検見法(ありけ けみほう):
享保の改革の際に、勘定奉行神尾春央(かんお はるひで)によって案出された年貢徴収法で、年貢額を実収穫量に応じて決めることで、従来よりも増徴(年貢の増額)を期待できるもの。検地で定められた田畑の面積、地味によって分けられた上・中・下・下々といった耕地の位付け、それらによって算出された高など、従来の課税基準を考慮せず、役人が田畑を一筆ずつ検見し実情に応じた課税をする方式で、検見に費やされる時間が大幅に増加すること、検地が行われた時期よりも農業技術が進歩して生産力が上がっているため収穫高の上昇分だけ課税額が増えること、隠田が摘発されること、など農民にとっては大幅な増税・負担増となる徴税法であった。

上米(あげまい):
8代将軍徳川吉宗が、享保の改革の中で打ち出した制度。参勤交代での江戸の在府期間を1年から半年に短縮する代わりに、各大名から1万石に付き100石の米を幕府に毎年献米させた。享保7年(1722)から享保15年(1730)まで実施された。

運上金・冥加金(うんじょうきん・みょうがきん):
江戸時代における営業税。運上金は、商業・工業・運送業・漁業などに従事する者に、一定の税率を定めて納めさせたもの。冥加金は、営業を許可された商工業者から、特に税率を定めず、収益の一部を献金などの形式で上納させたもの。ちなみに、神仏によって与えられた加護を冥加といい、その礼銭を冥加銭といった。

穢多・非人(えた・ひにん):
士・農工商の身分の下に、穢多・非人という賤民(せんみん)身分があった。穢多は斃牛馬(へいぎゅうば:死んだ牛馬)処理、その結果手に入る皮などの加工、太鼓や武具など様々な革製品の製造販売に従事していた。非人は主として乞食をしていた。一方、江戸周辺では、斃牛馬処理権をもつ穢多のもとで、実際の仕事は主として非人がやらされていた所もあった。多くの地方では、穢多は、賦役として、警察・刑場関係の下役人足に従事させられ、百姓一揆(いっき)などに際しては、弾圧の手先に使われることもあった。非人の中には、「足洗い」といって平民に戻れるものもあったが、穢多にはそれは認められなかった。穢多・非人などの賤民は一般庶民との交際を禁じられるなど、厳しい差別を受けた。このような身分制度は、明治維新の改革(四民平等)で廃止され、法的には旧賤民も「平民」に編入されたが、人々の差別意識は簡単には解消されず、旧賤民に対しては「新平民」という呼称で差別する風潮があり、社会問題化した。明治末期になると、「新平民」に代わって「特殊部落」の呼称が主流となり、部落差別問題は根の深い社会問題としてなかなか解消されず、現代に至っている。

長吏(ちょうり):
長吏とは、被差別民の江戸での呼称(関西ではカワタ)。江戸時代には穢多(えた)または非人・非人頭を指していた。江戸の長吏たちは、弾左衛門屋敷の周辺に集住し、直接弾左衛門の支配を受けていた。長吏たちの主な仕事は、斃牛馬(へいぎゅうば:死んだ牛馬)の処理、その結果手に入る皮などの加工、太鼓や武具など様々な革製品の製造販売、町や村の警備や警察、祭礼などでの「清め」役、各種芸能など勧進ものの支配、山林や狩猟場、そして水番などの番仕事、草履作りとその販売、灯心・筬(おさ)など各種の専売権の管理・行使など。これらの仕事はいずれも中世以来長吏たちの仕事とされ、江戸時代、他の人たちがこれをおこなうことは基本的になかった。

逼塞(ひっそく):
江戸時代に武士または僧侶に科せられた刑罰。門を閉ざし、昼間の出入りを禁止したもの。