ー甲斐健の旅日記ー

延暦寺/大乗仏教の先駆けとなった寺院

 延暦寺は、正式名を比叡山延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)といい、天台宗の総本山です。開山は伝教大師最澄です。延暦寺は、 京都府と滋賀県の県境にある比叡山一帯に点在する堂塔の総称です。

 延暦寺は、伝教大師最澄が、延暦7年(788)、薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)を、現在の総本堂・根本中堂の 近くに創建したのが始まりとされます。その後、桓武天皇により年号の「延暦」を使うことを許され延暦寺となりました(最澄没後の弘仁14年:824年)。最澄は、中国天台宗の天台智顗(ちぎ)が開いた天台山に留学し、法華経(天台宗の最高の経典)を学び、さらに戒律、禅、密教の印可(いんか:免許)をうけ、 日本に持ち込んだといわれます。最澄が開いた寺は、法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学ぶというもので、延暦寺は総合大学のような性格を持っていました。

 最澄が求める教えは大乗仏教(だいじょうぶっきょう)であり、だれでも悟りをひらくことが出来ると主張していました。しかし、この考え方は、 奈良の旧仏教である法相宗(ほっそうしゅう)の徳一らには受け入れられず(三乗主義)、大論争に発展します。そこで最澄は、奈良の旧仏教から独立すべく、 新たな僧を独自に養成するための戒壇(大乗戒壇)を延暦寺に造るため奔走します。これは、最澄の死の直後に認められることになり(弘仁13年:822年)、 これ以後延暦寺は、日本の中心的寺院となっていくのでした。延暦寺が総合大学的特色を持っていたことと、この大乗戒の設立が、多くの新仏教の祖(法然、親鸞、栄西、道元、日蓮ら)を延暦寺から輩出した原動力となったことは否定できないと思います。その意味では、最澄こそ日本仏教の母であったのかもしれません。

 延暦寺が受けた、歴史上最も大きな災難は、織田信長による比叡山焼き討ち事件です。元亀2年(1571)、浅井長政軍や長島一向一揆と対峙していた信長軍は、突如方向を変えて、比叡山に向けて進撃し、比叡山焼き討ちを決行しました。信長軍は、根本中堂をはじめ、すべての建物を一宇(いちう)も残さず焼き払い、僧侶4,000人を殺戮したといいます。 この原因は、前の年に信長軍が浅井・朝倉軍と戦っていたとき、比叡山が、浅井・朝倉軍を迎え入れ、信長に反旗を翻したことにより、信長の恨みを買ったからだといわれます。しかし、事はそう単純ではないようです。当時信長は、浅井長政に裏切られ、越前の朝倉氏、三好三人衆、顕如(けんにょ)率いる石山本願寺(一向一揆)らに囲まれ厳しい戦いを余儀なくされていました。また、比叡山は北陸路と東国路との交差点になっており、山上には多くの堂宇(どうう)があって、数万の兵を擁することが可能な戦略的に重要な拠点 だったといわれます。ここに敵が終結して京を狙うようなことがあれば、天下統一を狙う信長にとっては大変な脅威となります。早いうちに徹底的にたたいておこうと考えたのかもしれません。いずれにせよ、延暦寺は完膚なきまでに破壊されましたが、信長の死後、天正12年(1584)に、豊臣秀吉が再興のための造営費用を寄進したことにより、復興が始まりました(比叡山焼き討ちから13年後)。さらに徳川家康や家光に復興事業は受け継がれ、現在に至っています。

このページの先頭に戻ります

 延暦寺へは、京都駅からバスで比叡山バスセンターまで直通で行くのもいいですが、出町柳駅から叡山電車で八瀬比叡山口まで行き、そこからケーブルカー、ロープウェーと乗り継いで比叡山山頂まで登るのも、山々の景色を堪能できるので、お勧めです。しかも、京都市内の京阪電車と比叡山内でのシャトルバスの乗り放題も付いた、「比叡山1dayチケット」(2,000円:2014年5月現在)というチケットがお得だと思います。比叡山山頂から延暦寺境内へはシャトルバスが走っていますが、遊歩道を散策していくのもいいかもしれません。比叡山山頂から東塔(とうどう)までは約45分ほどです。

 延暦寺は、比叡山内の約500haの境内に点在する約150ほどの堂宇の総称です。山内は三つの地区に分けられます。東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よがわ)です。それぞれに本堂があります。  

 東堂は延暦寺発祥の地であり、本堂の根本中堂を中心とした区域です。山頂から歩いておりてくると、まず境内の南西の阿弥陀堂と東塔のある区域に出ます。 阿弥陀堂は、昭和12年に建立されました。方五間宝形造(ほうぎょうづくり)銅板葺(どうばんぶき)の屋根で、丹(に)塗り鮮やかなお堂です。檀信徒 (だんしんと:お墓のある人または信者)の先祖を供養するためのお堂です。本尊は丈六阿弥陀如来像です。

 東塔は、昭和55年に再興されました。日本を護るために、最澄は全国に六つの宝塔を建てましたが、その中心的役割をしています。本尊の、大日如来をはじめとする 五智如来(ごちにょらい)が安置され、塔の上層部には、仏舎利(ぶっしゃり)と法華経が安置されています。  

 ここから石段を降りて、すぐ左手には戒壇院があります。一重、宝形造、栩葺(とちぶき)の建物で、裳階(もこし)が施されています。また、正面の屋根の軒には、 唐破風(からはふ)がついています。僧侶が大乗戒を受けるための重要な建物です。最澄の死の直後、大乗戒壇院建立の勅許を受けた第一世義信座主が天長5年(828)に建立しましたが、その後焼亡再興を繰り返し、現在の建物は、延宝6年(1678)に再建されたものです。内部は石敷で、石の戒壇が築かれ、釈迦如来文殊菩薩弥勒菩薩(みろくぼさつ)が祀られています。 戒壇院から坂道を少し降りたところの左手に大講堂があります。大講堂は、僧侶が学問研鑽のため論議する道場です。現在の建物は、東照宮の本地堂(ほんじどう)として 寛永11年(1634)に山麓の坂本に建立された仏堂を、昭和38年に移築したものです。一重入母屋造(いりもやづくり)、銅板葺の建物です。内部には、本尊の大日如来像、脇侍として十一面観音像、 弥勒菩薩像が祀られています。また最澄の他、比叡山で修学して一宗一派を開いた僧(日蓮、道元、栄西、法然、親鸞、一遍など)の木像や画像が安置されています。

 大講堂からさらに下ったところに、根本中堂があります。根本中堂は、延暦寺全体の総本堂と位置付けられる建物です。延暦7年(788)に最澄が一乗止観院を建立してから何度か焼亡、再興を繰り返してきましたが、現在の建物は、寛永19年(1642)徳川三代将軍家光の命により再建されたものです。中堂は、一重入母屋造、瓦棒銅板葺 (かわらぼうどうばんぶき)の建物です。その周りを回廊が囲んでいます。回廊は、栩葺(とちぶき)の屋根になっています。中堂は内陣と外陣とに分かれ、外陣は板張りですが 内陣は外陣よりも3mも低い石敷きの土間になっています。内陣は、僧侶が読経や修行をする場で、「修行の谷間」あるいは「奈落」と呼ばれるそうです。この土間に石段を築きその上の宮殿(くうでん)に最澄自ら彫ったとされる、延暦寺本尊の薬師如来立像がが祀られ、その前の釣灯篭には、最澄の時代から続く「不滅の法灯」が灯っています。(信長焼き討ちの時は、山形の立石寺に分灯されていたものが灯り続けたそうです)。なお、外陣と宮殿は、ほぼ同じ高さになっています。私が訪ねたときは、内陣で僧侶が護摩(ごま)修行をしているのを見ることが出来ました。

 根本中堂の前の長くて急な石段を登ると、文殊楼(もんじゅろう)が見えてきます。文殊楼は延暦寺の山門にあたり、徒歩で山を登ってくると、まずこの門を通ることになります。現在の建物は、寛文8年(1668)の火災直後に再興されたものとされます。二重入母屋造、銅板葺です。上層に文殊菩薩像が安置されています。

 文殊楼の南の石段を下りると広場があり、その片隅に「世界宗教者 平和の祈り記念碑」があります。昭和62年、比叡山開創1,200年を記念して、当時の天台座主(てんだいざす)が呼びかけ、世界の宗教指導者が比叡山に集い、「比叡山宗教サミット」が開催されたそうです。その後も毎年8月、 比叡山で「世界宗教者平和の祈りの集い」が行なわれているそうです。戦国時代までは、天台宗寺門派の三井寺や、法華宗相手に、武力をもって勢力争いをしていた延暦寺が、今や世界平和実現のために中心的役割を果たしていることに、隔世の感を感じます。

 東塔から西塔へは、シャトルバスで5分、歩いて20分ほどです。西塔は本堂にあたる釈迦堂を中心とした区域です。第二世天台座主寂光大師円澄(じゃくこうだいし えんちょう)によって開かれました。

 シャトルバスのバス停から東に少し歩くと、同じようなお堂が二つ並んでいるのが見えます。それらのお堂は、渡り廊下でつながれています。渡り廊下を天秤棒に見立てて、弁慶がそこに肩を入れて担ったとの言い伝えから、にない堂とも呼ばれています。向かって左は、常行堂(じょうぎょうどう)で、本尊の阿弥陀如来像を祀り、90日間にわたって口に阿弥陀仏の名を唱えながらそのまわりを歩きつづけて、つねに仏を念じ、心に極楽浄土や仏の三十二相などを浮かべるという常行三昧(じょうぎょうざんまい)の道場です。向かって右は法華堂といい、本尊の普賢菩薩(ふげんぼさつ)を祀り、21日間にわたって仏像の周囲を歩く行と座禅を中心に修行し,精神を集中させて仏の智慧を得るという 法華三昧(ほっけざんまい)の道場です。常行堂、法華堂共に、文禄4年(1595)に建立されたもので、方五間、一重、宝形造(ほうぎょうづくり)、栩葺(とちぶき)の建物で、正面に一間の向拝(こうはい)をつけています。  

 担い堂の渡り廊下の下をくぐって少し行くと、本堂の釈迦堂(転法輪堂)が見えてきます。釈迦堂は、貞和3年(1347)に建立された園城寺(三井寺)の金堂(こんどう)を、 後方五間が内陣で土間となっています。内陣の土間の上に築かれた石段の上の厨子(ずし)の中に、本尊の釈迦如来立像が安置されています。この内陣の形式は、 天台宗大寺院の本堂の特徴といわれます。なお、転法輪とは、法輪(仏教の教義を示すもの、八方向に教えを広めるという意味で、車輪形の法具として具現化した物)を伝えるという意味だそうです。

 一旦バス停近くまで戻り、南に行くと浄土院があります。浄土院は、伝教大師最澄の御廟所(ごびょうしょ)です。現在の建物は、江戸時代初期に建立されたとされます。などから禅宗建築の様式がうかがえます。この浄土院には12年籠山修行(ろうざんしゅぎょう)の僧がおり、伝教大師が今も生きているかのように食事を捧げ、 庭は落ち葉1枚残さぬように掃除されています。

 横川には、西塔からシャトルバスで10分ほどです。本堂にあたる横川中堂を中心とする区域です。第三世天台座主慈覚大師円仁によって開かれました。

 シャトルバスバス停から東に少し歩くと、右手に朱塗りの横川中堂が見えてきます。慶長年間(1596~1614)に再興された建物が、昭和18年の落雷で焼失し、現在の建物は昭和46年に鉄筋コンクリートの建物として再建されました。本尊の聖観音像(しょうかんのんぞう)は焼失を免れ、内部に安置されています。この建物は 舞台造りといわれ、全体的に見て船が浮かんでいる姿に見えるのが特徴です。また屋根は、円仁が乗った遣唐船に似せて、舟形になっています。本尊の聖観音像は、お参りすると、除災招福のご利益がいただけるそうです。

 横川中堂からさらに先に進み、T字路を右に曲がると恵心堂、左に行くと元三大師堂(がんざんだいしどう)があります。恵心堂は、阿弥陀如来を祀り、念仏三昧の道場です。また、恵心僧都源信(えしんそうず げんしん:942~1017年)の旧跡です。源信はこの恵心堂において仏教解説書として名高い「往生要集(おうじょうようしゅう)」を著わしました(寛和元年:985年)。この中で彼は、死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、浄土教の基礎を創りました。 これが、やがて起こる法然の浄土宗や親鸞の浄土真宗に少なからず影響を与えたといわれます。現在の恵心堂の建物は、比叡山の麓の坂本にあった別当大師堂を移築再建したものだそうです。

 元三大師堂(がんざんだいしどう)は、第18代天台座主として、延暦寺の中興の祖ともいわれる慈恵大師良源(元三大師)の住居跡に建てられた、厄除け、息災祈願の道場です。康保4年(967)、村上天皇の勅命によって、春夏秋冬の四季に法華経を論議したことから四季講堂とも呼ばれるようになりました。一重入母屋造、瓦棒銅板葺の建物です。現代のおみくじの形は、元三慈恵大師良源が考え出したと言われており、この元三大師堂はおみくじ発祥の地となります。

 東堂、西塔、横川の三地区を歩いてみて、あらためて比叡山一帯に広がる延暦寺の寺地の宏大さを実感しました。この地区を完膚なきまでに焼き尽くした信長の執念も、また、すごいものであったと思われます。しかし、そこから復興の努力を惜しまず、現在の姿にまで戻した人々の熱い思いも感じられる比叡山の山行でした。



このページの先頭に戻ります

このページの先頭に戻ります


追加情報


このページの先頭に戻ります

popup image