ー甲斐健の旅日記ー

立待岬から碧血碑(へきけつひ)へ

 津軽海峡に面し、断崖絶壁で周りを海で囲まれた立待岬を訪ね、さらに山道を登って碧血碑(へきけつひ)に至るコースです。碧血碑とは、箱館戦争で戦死した旧幕府軍の兵士を供養するために建てられた碑です。市電「谷地頭」駅から徒歩で巡ると、約1時間ちょっとかかります。運動不足解消にはちょうどいいかも・・・。

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 まずは立待岬を目指します。市電2系統に乗り、終点「谷地頭」で下車します。電車の進行方向に少し歩き、道路標識のある交差点を左折して20分ほど登っていくと、立待岬の駐車場に着きます。ここまでは車でも来れそうです。道の途中には、石川啄木一族の墓があります。啄木の義弟・宮崎郁雨(いくう)と函館市立図書館初代館長の岡田健藏が、生前の啄木の意を受けて建立したとされます。啄木の代表的作品である「東海の 小島の磯の 白砂に 我泣きぬれて 蟹とたはむる」の舞台となった大森浜が一望できる高台に建てられています。

 立待岬は、海に突き出た海抜約30mの断崖絶壁です。津軽海峡を一望でき、大森浜から湯の川温泉へと通じる海岸線とその奥の函館の街並みが一望できます。江戸期には、異国船の往来を監視する台場であり、明治期には、函館要塞を防御する重要な拠点となったといいます。北方警備の要衝だった場所です。「立待」という命名は、岩の上で魚を待ち伏せして、ヤスで獲る場所という意味からつけられたとも言われます。この岬一帯の岩は、斜長石などからなり、五稜郭築城の際に石垣の一部に使用されたそうです。

 立待岬から、来た道を少し戻って左に分かれる山道(案内板あり)を登っていきます。20分ほど歩いたところに碧血碑(高さ6mの石碑:石は伊豆産)が建っています。この碑は、箱館戦争で旧幕府軍として戦った戦死者(約800名)を供養するために建てられました。「碧血」とは、中国の思想家・荘子の『外物編』に書かれている「忠義に殉じて死んだ者の流した血は、地中で3年たつと碧玉(青い宝石)になる」という故事から名づけけられたといいます。

 戊辰戦争(ぼしんせんそう)最後の戦いとなった箱館戦争終戦後、新政府は旧幕府軍の戦死者の埋葬を許さず、遺体は野ざらしになっていました。この状態を見るに見かねた地元の侠客・柳川熊吉は、子分らを集めて遺体を回収し、実行寺の住職・松尾日隆(にちりゅう)らの協力を得て、仮埋葬しました。新政府軍の薩摩藩士・田島圭蔵は、この熊吉の行動にいたく感激し、熊吉への打ち首を取りやめさせたといいます。無罪放免となった熊吉は、明治4年(1871)函館山の土地を買い、箱館戦争戦死者を実行寺よりこの地に改葬しました。そして、明治7年(1874)、明治政府から旧幕府軍(賊軍)の兵らの祭祀が許可されると、翌年5月の7回忌に、箱館戦争の生き残りだった榎本武揚(たけあき)や大鳥圭介らと熊吉によって、この壁血碑が建てられました。柳川熊吉は、大正2年(1913)に89歳で亡くなるまで、碧血碑を護りながら余生を過ごしていたといいます。碧血碑の傍らには、熊吉88歳の時に有志らによって建てられた、「柳川熊吉翁之寿碑」があります。



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