ー甲斐健の旅日記ー

トラピスチヌ修道院/厳かな雰囲気の中にも、やわらかな風を感じる境内

 トラピスチヌ修道院は、函館市郊外にあるトラピスト会系の女子修道院で、通称「天使園」とも呼ばれます。トラピスト会は、カトリックの修道会で、戒律がとても厳しいことで知られます。

 函館とラピスチヌ修道院は、明治31年(1898)にフランスから派遣された8名の修道女によって創立されました。その後、大正14年(1925)と昭和16年(1941)の2度にわたって火災に遭いましたが、その都度焼失した建物が再建され現在に至っています。

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 トラピスチヌ修道院へは、函館駅からですと、函館空港行きのシャトルバスに乗って「トラピスチヌ前」で下車するのが便利です。函館駅からの所要時間は37分です

 赤いレンガ造りのアーチ状の入り口を潜り抜けて、トラピスチヌ修道院の敷地内に入ります。まず私たちを迎えてくれるのは、聖ミカエル像です。天文18年(1549)、フランシスコ・ザビエルがキリスト教伝道のために鹿児島に上陸し、島津公から宣教の許可を得たのが9月29日でした。この日は、聖ミカエルの祝日にあたっていたため、宣教師たちは聖ミカエルを日本の保護者と定めて、宣教活動を行っていったといいます。さらに歩くと、両手を広げた純白の聖母マリアが、私たちを優しく迎え入れてくれます。「慈しみの聖母マリア」と呼ばれます。

 聖母マリアの像の右手には、天使園という資料館兼売店があります。修道院の歴史や修道女らの日常生活を知ることのできる展示があります。また売店には、手作りのマダレナ(ケーキ)やクッキーおよび手工芸品などが販売されています。聖母マリアの左手には、12角形の建物があります。「旅人の聖堂」と呼ばれ、巡礼者がお祈りしたり、瞑想のひと時を過ごすための聖堂です。大聖年(西暦2000年)を記念して建立されました。

 旅人の聖堂からさらに進んでいくと、洞窟のある岩場に聖母マリアと少女が向かい合っているシーンを再現した場所があります。14歳の田舎娘ベルナデッタ・スビルーが聖母マリアのお告げによって掘り当てた泉の水が、多くの人々の病を治癒したという言い伝えに基づくもので、「ルルドの聖母」として知られます。洞窟(ルルドの洞窟)の前に立っているのが聖母マリアで、ひざまずいて聖母マリアを見上げているのがベルナデッタです。この泉の水の奇跡から聖母マリアへの信心が広まっていったといいます。

 「トルドの洞窟」から石段を登っていくと、赤煉瓦の大きな建物の前に出ます。正面左手の建物は司祭館です。大正2年(1912)に建てられました。修道女の信仰生活を指導するため派遣される司祭の館です。司祭館の右側にあって円柱状の建物が聖堂です。修道女の生活の中心となる場所で、毎日、ミサと7度の共同体の祈りが捧げられています。また、屋根の上の塔は鐘楼で、ミサや共同体の祈りのはじめと、仕事の終わりの時刻に、大小2つの鐘が鳴らされるそうです。

 司祭館の左手前に聖テレジア像があります。聖テレジアは、1873年フランスに生まれ、15歳でリジューのカルメル会に入会した修道女です。テレジアの修道生活は、他の修道女と比べても特別に目立つものではなかったといいます。しかし、イエスへの絶対の信仰心を持ち続け、日常の義務をつつましくはたしていました。やがて、その若さにもかかわらず、テレジアの言葉や行動は他の修道女の模範となり、彼女らを優しく導いていったといいます。しかしテレジアは、24歳の若さでこの世を去ります。彼女の死後、その自叙伝『ある霊魂の物語』は、何十か国語にも翻訳され、多くの神学者が彼女の研究を現在も続けているそうです。また、女性が選ぶ洗礼名では、今でも「テレジア」が抜群の人気度だそうです。

 聖堂の壁に、旗と剣を持ったジャンヌ・ダルクの像があります。彼女は、14~15世紀に起こった百年戦争(英仏の戦い)で、フランス軍とともに戦い奇跡の勝利を演出しましたが、その後、不正な宗教裁判で処刑されました。死後、無実が判明されて名誉が回復され、聖女となりました。神と人々のために命をささげたジャンヌ・ダルクは、現在も修道女のシンボルとして敬われています。

 司祭館と聖堂を分ける赤レンガの壁に、「入会者の門」があります。修道会に入会して、神と人々への奉仕に一生を捧げたいと望む入会者が、最初にくぐる門です。この奥に、修道院の正面玄関があります。

 美しく整備された境内を歩いていると、厳かな雰囲気の中にも、心が安らぐようなやわらかい風を感じます。外界のことはしばし忘れて、余計なことは考えずに散策するのもよいかもしれません。



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