ー甲斐健の旅日記ー

長浜城/天下人・豊臣秀吉が城主として最初に築城した城

 長浜城(ながはまじょう)は、豊臣秀吉が城主として初めて築城した城です。琵琶湖の北岸、現在の滋賀県長浜市にありました。

 天正元年(1573)9月、織田信長は、長年攻めあぐねていた北近江(現在の滋賀県長浜市、米原市など)の浅井氏を滅ぼすことに成功しました。この浅井攻めに大きな功績があった木下藤吉郎は、信長から北近江の領地を任され、羽柴秀吉と名乗って小谷(おだに)城に入りました。特に、小谷城主・浅井長政に嫁いでいたお市の方(信長の妹)と三人の娘を落城寸前に救い出したという話は有名です。小谷城主となった秀吉は、その翌年、近畿・北陸・東海を結ぶ交通の要衝地として、今浜(当時の呼び名:現・長浜)に新たな城を築きました。新城は、天正3年(1575)秋に完成します。このとき秀吉は、信長の名前を一字拝領し、今浜を長浜と改名しました。こののち、天正9年(1581)までの足掛け7年、長浜城は秀吉のスピード出世を支える居城となったのです。

 信長亡き後、織田家の後継問題や領地再配分を話し合った清州会議(天正10年〈1582〉)の結果、長浜城は柴田勝家のものとなり(実際は勝家の甥の勝豊が城主となる)、秀吉は山崎城(現・京都府乙訓〈おとくに〉郡大山崎町)に移りました。その後、秀吉と勝家の対立は決定的となり、天正11年(1583)の賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家が戦死したのちは、秀吉の直臣だった山内一豊(のちの土佐藩主)が長浜城主となりました。江戸期になって慶長11年(1606)以降、内藤信成(のぶなり:徳川家康の異母弟)・信正親子が長浜藩主となりますが、大阪夏の陣(慶長20年〈1615〉)で豊臣氏が滅亡すると、長浜城は廃城となりました。このとき、長浜城は跡形もなく取り壊されましたが、石垣や建築資材は彦根城の築城などに利用されました。現在も存在する大通寺(だいつうじ:長浜市)台所門、知善院(ちぜんいん:長浜市)表門、彦根城天秤櫓(てんびんやぐら)は、長浜城の遺構と言われています。

 現在ある長浜城天守は、昭和58年(1983)に模擬復元されたものです。当時のお城の絵図面などは残っていないため不明な点が多かったのですが、愛知の犬山城や京都の伏見城を参考に復元したものだそうです。天守の内部は、長浜城歴史博物館となっています。

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 長浜城(歴史博物館)の最寄り駅は、JR北陸本線長浜駅です。駅の西側にある豊公園の北側にあります。駅から徒歩7分ぐらいです。

 長浜城天守の2Fと3Fは展示室、最上階は展望室となっています。最上階では、琵琶湖東岸を臨む景観を楽しむことができます。特に興味を引いた展示内容について、下記に記します。

  • 長浜城築城の様子(ジオラマ)
    長浜城築城の様子がジオラマで表現されています。建築用木材は、琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶじま)で伐採したものを筏に組んで、湖上を運んだといわれています。
  • 浅井長政書状
    永禄4年(1561)頃、重臣の堀次郎左衛門秀村からご祝儀を受けたことに対する、浅井長政の礼状。その後、堀氏は長政を裏切り信長につくことになります。このことが、長政が信長に対して劣勢に立たされた一因となったといいます。
  • 浅井長政像(江戸時代作)
  • 石田三成生捕覚書
    関が原から逃れてきた石田三成が、古橋村(現・長浜市木之本町古橋)で、田中吉政(元・豊臣秀次の家老、関ケ原の戦いでは東軍に属した)に捕縛された際の伝承を書き記したもの。嘉永7年(1854)、田中吉政の子孫・田中勘助の書。
  • 石田三成像
    明治40年(1907)、京都大徳寺三玄院に葬られていた三成の遺骨(頭蓋骨)を基に制作された三成像。遺骨からの復願に関しては、東京科学警察研究所が協力しました。昭和55年(1980)の作品です。
  • 賤ケ岳(しずがたけ)合戦図屏風(江戸時代作)
    豊臣秀吉軍と柴田勝家軍が、賤ケ岳(現・長浜市)で激突した際の大岩山砦攻防戦の様子を描いています。上部には、勝家軍の奇襲を聞いて駆けつける秀吉軍、右端には勝家軍の本陣が描かれています。
  • 加藤清正像(江戸時代後期作)
  • 豊臣秀吉像(江戸時代後期作)

 長浜城歴史博物館の展示物は、いずれも興味を引くものばかりで一見の価値があります。ただし、写真撮影禁止なのが残念です(ジオラマだけは許してもらえました)。



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