ー甲斐健の旅日記ー      豊臣秀吉      豊臣秀吉

豊臣秀吉ゆかりの地を訪ねる
~秀吉が唐入りを決断したわけとは~

 豊臣秀吉といえば、下層民の子(足軽の家あるいは農家の生まれともいわれる)として生まれながら、織田信長に仕えて大出世を遂げ、信長亡き後は、戦国の世を終わらせ天下統一を成し遂げた大英雄の一人とされます。ところが、秀吉が晩年に行った外交政策(唐入り;朝鮮出兵)は、江戸期から現代にいたるまで、「誇大妄想狂」などと揶揄(やゆ)され多くの識者の非難の的となっています。一体秀吉は、何のために唐入りを決断したのでしょうか。そしてその決断は、本当に「夢物語」だったのでしょうか。考えてみたいと思います。

コラム1 秀吉が唐入りを決断したわけとは
長浜城 長浜城
 長浜城(ながはまじょう)は、豊臣秀吉が城主として初めて築城した城です。天正2年(1574)、近畿・北陸・東海を結ぶ交通の要衝地として、今浜(当時の呼び名:現・長浜)に築城を開始し、翌年秋に完成しました。このとき秀吉は、信長の名前を一字拝領し、今浜を長浜と改名したといいます。こののち、天正9年(1581)までの足掛け7年、長浜城は秀吉のスピード出世を支える居城となったのです。
大阪城 大阪城
 大阪城は、豊臣秀吉が摂津国東成郡生玉壮大坂(現・大阪市中央区大阪城)に築いた日本一の城郭です。天正13年(1585)、まず天守が完成しました。この大阪城は、天下統一の拠点であるとともに、秀吉の権威の象徴でもあったため、天守の完成を最優先させたといいます。その後も城の工事は断続的に行われ、すべて完成したのは、築城開始から15年後の慶長3年(1598)でした。
名護屋城址 名護屋城址
 名護屋(なごや)城は、佐賀県の北西部、唐津市鎮西(ちんぜい)町にあった城です。天下統一を果たした豊臣秀吉が、明征服(唐入り)の野望を実現するために、前線基地として築いた城です。築城は突貫工事ですすめられ、わずか8か月後の文禄元年(1592)に完成しました。秀吉は、この地に全国160か国の戦国大名を終結させ、30万人の兵士を動員したといいます。城の周囲3kmの範囲には、各大名の陣屋が120か所ほど築かれていました。
豊国神社 豊国神社
 豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都府東山区にある神社で、豊臣秀吉を祭神としてまつる神社です。慶長3年(1598)8月18日に亡くなった秀吉の遺骸は、阿弥陀ヶ峰山頂(現:京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峯町)に葬られました。そして、その中腹に秀吉を祀る廟所(びょうしょ)が造られました。これが豊国神社の始まりです。しかし、慶長20年(1615)、大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、徳川家康の意向によって神社の社領が幕府によって没収されてしまいました。明治になって明治天皇の命により復興され、明治13年(1880)に、現在の地に社殿が再建されました。唐門、拝殿、本殿が現存し、大正14年に建てられた宝物館には、秀吉ゆかりの貴重な史料が所蔵されています。
耳塚 耳塚
 耳塚(または鼻塚)は、京都市東山区にある史跡です。豊臣秀吉が朝鮮出兵(慶長の役)を命じた時、戦功の証として朝鮮及び明の戦死者の鼻や耳を削ぎ取って持ち帰ったものを葬った塚です。戦争で敵を討った時、高級将校なら首を、足軽など身分が低いものは代わりに鼻や耳を削いで持ち帰ったというのが当時の風習でした。しかし、朝鮮半島は遠いので、すべて鼻または耳で代用したといいます。盛り土をした上に立つ五輪の石塔の下には、約2万人分の鼻や耳が埋められているそうです。
方広寺 方広寺
 方広寺(ほうこうじ)は、京都市東山区にある天台宗の寺院です。豊臣秀吉が発願(ほつがん)して造った大仏を安置するために創建された寺です。現在、大仏および大仏殿は残っておらず、大仏殿中心部分の遺構および本堂・大黒天堂・鐘楼が残っているのみです。秀吉の子・秀頼が方広寺を再建したとき、梵鐘に刻まれた銘文の中の文字「国家安康」「君臣豊楽」の解釈をめぐって、徳川と豊臣が対立した事件(方広寺鐘銘事件)は、大阪冬・夏の陣勃発の引き金になったといわれます。
唐津城 唐津城
 唐津城(からつじょう:佐賀県唐津市)は、豊臣秀吉の家臣だった寺沢志摩守広高が、慶長7年(1602)から慶長13年(1608)にかけて築城した城です。築城に際しては、秀吉が大陸侵攻(唐入り)の前進基地として築城した名護屋城(佐賀県唐津市)の解体資材が使われました。城を要として東西に広がる松原が、あたかも翼を広げた鶴のようだとして、「舞鶴城」とも呼ばれています。
七ツ釜 七ツ釜
 七ツ釜(ななつかま)は、佐賀県唐津市北西部、東松浦半島の断崖絶壁にできた洞窟群のことです。何万年の時を経て、玄界灘の荒波に侵食されてできた海食洞(かいしょくどう)です。かまどを七つ(実際は八つある?)並べたように見えることから、七ツ釜と呼ばれています。圧倒的なスケールの自然の彫刻物──海に浮かぶ芸術品─と形容されてぃます。