ー甲斐健の旅日記ー

常寂光寺:歌人藤原定家ゆかりの地に造られた日蓮宗寺院

 常寂光寺(じょうじゃっこうじ)は京都市嵯峨野にある日蓮宗の寺院です。山号は小倉山と称します。小倉山の中腹斜面に建ち、嵯峨野を一望でき、秋は紅葉に包まれる情景が常寂光土(じょうじゃっこうど:宇宙の究極的真理としての仏陀が住む浄土)のようだとして、寺号が付けられたといいます。開山は究竟院日禛(くっきょういん にっしん)上人です。

 日禛は、永禄4年(1561)権大納言広橋国光の子として京都に生まれました。兄弟に、日野家を相続した日野輝資(てるすけ:後に家康、秀忠父子に仕え、禁中並公家諸法度の編纂に加わった)がいます。幼いころに日蓮宗の大本山である本圀寺(ほんこくじ)に入り、わずか18歳で第16世住持となったといいます。宗学(教義について研究する学問)や歌道に造詣が深く、加藤清正、小早川秀秋、瑞竜院日秀(秀吉の実姉)をはじめ多くの帰依(きえ)者がいたといいます。

 しかし、ここで大問題が起きました。文禄4年、(1595)、豊臣秀吉が建立した東山方広寺大仏殿の千僧供養への出仕、不出仕をめぐって本圀寺が二派に分裂してしまったのです。日禛は、開祖日蓮の教えを忠実に守り、「不受不施」の教義を貫き、出仕には応じませんでした。やがて日禛は、本圀寺を出て小倉山の地に隠棲し、当時この地を所有していた京都の豪商角倉了以(すみのくら りょうい)の従兄である英可(えいか)から寺地の寄進を受けて、常寂光寺を開創しました。これが、この寺の始まりです。この時は、小早川秀秋ら大名の寄進もあったといいます。日禛がこの地を選んだのは、古くから歌枕の名称として名高く、藤原俊成、定家、西行法師らのゆかりの地であったからといわれています。

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 常寂光寺へは、京都駅からですと市バス28系統に乗り「嵯峨小学校前」で降ります。バス停のある交差点を北(釈迦堂方向)に進み、最初のT字路を左に曲がります。まっすぐ進んだつきあたりのT字路を左に曲がり、すぐの十字路を右に曲がって進むと、山門に着きます。

 山門は、江戸時代後期に再建されたとされ、太い角材を格子状に組んで造られた門です。山門をくぐって参道を進むと、仁王門が現れます。仁王門は、貞和年間(1345~49)に建立された本圀寺(ほんこくじ)客殿の南門を、元和2年(1616)に移築した建物です。常寂光寺の中では最も古い建築物とされます。屋根は茅葺(かやぶき)です。守護神(寺院内に仏敵が入り込むのを防ぐ)である仁王像は、寺伝では運慶作とつたえられ、身の丈は七尺あります。

 仁王門から入ってすぐのところに妙見堂があります。第26世日選上人の代に建立され、堂の前に建つ鳥居は、その後第28世日暁上人の代に寄進されたものとされます。このお堂に祀られている妙見菩薩は、北極星または北斗七星を象徴した菩薩といわれ、国土を擁護し、また人の死を除き、生を定め、福を恵む尊星であるとされます。

 本堂は、慶長年間(1596~1615)の第2世日韶上人(日野輝資の子)の代に、伏見城の客殿を移築したものとされます。これには、小早川秀秋の尽力があったといいます。もともとは本瓦葺(ほんがわらぶき)でしたが、昭和7年の大修理によって、現在は平瓦葺になっています。内部には、本尊の十界大曼荼羅(じっかいだいまんだら)釈迦如来像が安置されています。鐘楼は、寛永18年(1642)に第四世光照院日選上人が建立しました。また梵鐘は、第二次世界大戦中の金属供出命令によって失われましたが、昭和48年、京都工芸繊維大学教授青木一郎氏の音響設計により、古律黄鐘調(こりつおうしきちょう)の新しい梵鐘が完成しました。毎日、正午と夕方5時に撞かれているそうです。

 境内高台に建てられている多宝塔は、元和6年(1620)に京都町衆(京商人)の辻藤兵衛尉(じょう:翁の意)直信の寄進により建立されたといいます。方三間宝形造(ほうぎょうづくり)檜皮葺(ひわだぶき)で、高さは12mあります。内部には、釈迦如来と多宝如来が安置されています。二仏並尊です。多宝塔前面には、霊元天皇(在位1663~87年)の勅額(「並尊閣」)がかけられています。開山堂は、平成16年に、明石本立寺(ほんりゅうじ:日蓮宗の寺)野口僧正とその夫人によって建立されました。日禛上人坐像を安置しています。

 常寂光寺では、仁王門の北側に定家の山荘があったとしています。この場所には室町時代から、定家の御神像を祀る祠がありましたが、寺を創建するときに、定家卿の祠より上に寺の庫裏(くり)を建てるのは恐れ多いということで、山上に遷したといいます。当時は小さな祠でしたが、明治23年、定家卿没後650年を記念して、現在の建物に改築されました。そして、富岡鉄斎(文人画家、儒学者)が命名した謌僊祠(かせんし)という名で呼ばれるようになりました。謌僊祠の扁額は、鉄斎の筆といわれます。この南隣に位置する時雨亭跡は、戦前までは庵室が建っていましたが、台風のために破壊され、その後再建されずに現在に至っています。

 日蓮宗の「不受不施」の教えは、特に権力者にとっては頭の痛いものであったといいます。この教えの良し悪しは別にしても、権力におもねることなく信念を貫き通す姿勢があったからこそ、日禛上人は大本山の本圀寺をでて常寂光寺を創建したのでしょう。しかも有力大名や豪商たちの多大な協力を得たことは、日禛上人がいかに尊崇されていたかの証でもあります。この上人の思いは、時を超えて今でも、境内に漂っているような気がします。


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