ー甲斐健の旅日記ー

大隈記念館/二度も総理大臣となった「佐賀の七賢人」大隈重信の生家

 大隈重信(おおくましげのぶ)は、天保9年(1858)佐賀藩の上士の子として生まれました。7歳で藩校の弘道館に入学しましたが、伝統的な教育内容に満足できず藩校改革を訴えたために退学処分となってしまいます。その後、弘道館教授で国学者の枝吉神陽(えだよししんよう)が結成した義祭同盟に参加しました。義祭同盟は、尊王論を広め藩論を尊王倒幕に向かわせるための政治結社的な色彩が強かったといいます。明治維新後に中央政府で活躍した多くの志士たちが結集していました(江藤新平、副島種臣<そえじまたねおみ>、大木喬任<たかとう>、島義勇<よしたけ>など)。

 安政3年(1856)、佐賀藩蘭学寮に転じた大隈は、慶応元年(1856)には英学塾の教頭となりました。この時、宣教師フルベッキから英語を学び、新約聖書やアメリカ独立宣言に触れて大いに影響を受けたといいます。慶応3年(1867)には、副島種臣とともに脱藩し、将軍・徳川慶喜に大政奉還を迫るために京都に入りましたが捕縛され、一か月の謹慎処分を受けたこともありました。

 明治維新以後は、参議や大蔵卿(大蔵省長官)を務めあげ、政権の中枢で活躍しました。明治六年の政変では、朝鮮への使節派遣を唱える西郷隆盛や江藤新平とは一線を画し、これに反対する大久保利通らに同調したため、同じ佐賀出身の参議・大木喬任とともに「大久保派」と言われてきました。明治政府の高官として活躍した大隈でしたが、明治14年の政変(1881)で参議の職を辞し野に下りました。明治14年の政変とは、新憲法制定論議の中で、君主制を基にしたビスマルク憲法を支持する伊藤博文や井上馨と議院内閣制を基とするイギリス型の憲法を支持する大隈重信とが対立し、伊藤らのグループが勝利して大隈重信とその門下生が政府から追放された事件です。

 野に下った大隈は、明治15年(1882)3月に、イギリス流の議会政治と、漸進的改革を主張した立憲改進党結成しました。この政党には、尾崎行雄や犬養毅らも参加しました。その後、外務大臣を歴任した大隈は、明治31年(1898)6月、板垣退助らとともに憲政党を結成し、薩長藩閥以外では初の内閣総理大臣に指名されました。日本初の政党内閣です。この内閣は、政権内部の政党間の対立などで、わずか4か月で崩壊しました。 いったん政界を引退した大隈でしたが時を経て政界復帰し、大正3年(1914)に二度目の総理大臣に就任しましたが、その2年後、閣僚の汚職事件などで国民の信を失い総辞職をし、大隈は政界から完全に引退しました。

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 大隈記念館へは、佐賀駅バスセンターから諸富・早津江線(⑳)、諸富・橋津線(㉑)、犬井道・大詫間線(㉓)に乗車し、「大隈記念館入口」で下車します。バスの進行方向に少し歩いて細い道を左に曲がり100mほど歩くと右手にあります。

 大隈記念館は、昭和42年(1967)大隈の生家のそばで開館しました(平成27年リニューアル)。二度にわたって総理大臣を務めた大隈重信公の生きざまや功績をたたえる貴重な資料が展示されています。主な展示物を以下に挙げます。

  • 大隈重信自筆の漢詩と幼少時代に使用した硯
  • 大隈が使っていた義足(外務大臣だった明治22年<1889>10月18日、大隈は国家主義組織・玄洋社の来島恒善娥引き起こした爆弾テロに遭い、右足を失ってしまいました)
  • 盟友(日本赤十字社の租・佐野常民(つねたみ)や同郷で参議の大木喬任)からの手紙
  • 大隈が愛用したというアカデミックガウン(早稲田大学創立30周年記念式典でも身に着けていたという緋色のガウン)
  • 大隈の肉声演説(録音)

 また、敷地内には大隈重信の生家が保存されており、建物内部も外から見ることができます。大隈重信旧宅は、江戸時代後期に建てられたもので、敷地314坪、建坪55坪の武家屋敷です。二階には、母・三井子が重信のために(6歳の時)増築したという勉強部屋があります。



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