ー甲斐健の旅日記ー

田原坂/西南戦争最大の激戦が展開された古戦場

 田原坂(たばるざか)は、熊本市植木町豊岡一帯の地名です。この地は、明治10年(1877)に起きた西南戦争最大の激戦地でした。明治新政府の近代化政策によって禄を失い(秩禄処分)、武士としての誇りも職も失い(廃刀令、徴兵令)、不満がマグマのようにたまっていた士族たちの反乱が九州や山口で次々と勃発しました。──明治7年佐賀の乱、明治9年新風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱──これらはいずれも鎮圧されましたが、明けて明治10年2月15日、新政府高官(川路大警視)による西郷暗殺の計画が暴露されるに至って──真偽のほどは定かではない──ついに薩摩士族が決起しました。西郷も、彼らの必死の思いを押しとどめることができず、かといって見捨てることもかなわず、ともに決起したのでした。

 薩摩軍はまず熊本鎮台を攻め、熊本城を攻略すべく北上しました。しかし、城はなかなか落ちません。その間に新政府軍は体制を整え、熊本鎮台救援のため熊本に向けて南下していきました。そしてついに、熊本城の北方に位置する田原坂で両者が激突することになったのです。戦いは、3月14日から同20日まで繰り広げられましたが、物量、情報伝達、物資輸送力に勝る新政府軍が勝利し、西郷率いる薩摩軍は撤退を余儀なくされました。この戦いに敗れた薩摩軍は南九州を敗走し、最後には鹿児島に戻りましたが、城山における新政府軍の総攻撃で負傷した西郷が自刃し、西南戦争の幕は閉じられました。この戦いは、日本における最後の内戦でした。そしてこれにより、600年以上続いた武士の時代が完全に終わりを告げ、日本は近代国家確立への歩みを進めることになったのです。

 現在の田原坂には「田原坂西南戦争資料館」があります。西南戦争の経緯や時代背景、戦いの様子およびその後の近代日本の歩みを理解するためのジオラマや展示を見ることができます。また付近一帯は公園となっており、桜やツツジの名所ともなっています。

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 田原坂公園(資料館)へは、公共の交通機関を利用する場合、鹿児島本線植木駅からタクシーで行く(所要約10分)か、鹿児島本線田原坂駅から歩いて行く(所要約35分)しかありません。私は田原坂駅から歩いていきました。田原坂駅は無人駅ですが、熊本方面行プラットホームの裏に、県道へ上る細い道があります。これを上り、県道を横断して3~400mほど進むと左手にリサイクルセンターの大きな白い建物が見えます。その先を左折し、1.5㎞程歩くと、左手に田原坂西南戦争資料館があります。駅からリサイクルセンターまでは、上り坂がきつい場所があります。

 田原坂西南戦争資料館は、昭和58年(1983)に、西南戦争の激戦の様子や当時の時代背景を伝える歴史学習施設として建てられました。その後、展示スペースが手狭になったこともあり、平成27年(2015)、展示スペースを約2倍にした現在の資料館にリニューアルされました。まるで戦場の中にいるような臨場感あふれるジオラマや、砲弾の着弾音やその振動、銃弾の飛沫音を再現した迫力ある戦闘シーンの映像など、見ごたえがあります。また、戦場での生活の様子をうかがい知る資料や著名人の肉筆の手紙などが数多く展示されています。さらには、戦闘で実際に使われた小銃や日本刀などの軍事関連資料も展示されています。また、西南戦争を契機に生まれた、日本赤十字社の前身である博愛社に関する資料も展示されています。

 資料館のそばに、白壁に無数の弾痕が残っている土蔵があります。「弾痕の家」と呼ばれています。この地に住んでいた松下彦次郎家の土蔵だそうです。田原坂の戦いで、新政府軍と薩摩軍双方から銃撃を受け、見るも無残な姿になってしまいました。もっとも、当時の土蔵はすでに取り壊されており、現在ある建物は、昭和63年(1988)に当時の写真を参考にして再現されたものです。

 資料館から田原坂公園に入ると、まず「西南の役戦没者慰霊之碑」があります。西南戦争で戦死した新政府軍6,923名、薩軍7,168名、殉難者29名の慰霊のために建立されたものです。旧植木町(現・熊本市北区)では、西南戦争で亡くなった人々の調査を行い、戦没者名簿の編纂を行ってきました。しかし、いまだ不明の方々が数多くいるということで、継続して調査を行っているそうです。

 公園内には、樹齢200~250年と言われる大楠があります。横綱が土俵入りで両手をせり上げた姿に似ているといわれます。140年前の西南戦争の激戦の様子を、この大楠はどのような思いで見つめていたのでしょうか。大楠の前に、美少年騎馬像があります。民謡「田原坂」の歌詞(『雨は降る降る じんばはぬれる こすにこされぬ 田原坂  右手に血刀 左手に手綱 馬上ゆたかな 美少年』)に出てくる美少年は、田原坂の戦いで散ったすべての若者たちの象徴なのでしょうか。

 大楠の近くには、田原坂崇烈碑が建っています。碑文には、当時の社会情勢、西南戦争の戦いの推移、田原坂の激戦の様子が、新政府軍の立場で書かれています。もし、田原坂の戦いで新政府軍が破れ薩軍の北上を許したならば、日本各地で新政府に不満を持つ士族たちが蜂起し、新政権が倒れる危険性すらあったと述べています。田原坂の攻防は、それほどまでに重要なものであったということです。

 かつての激戦地田原坂公園も今は、3月下旬から4月初旬には桜、4~5月には公園内6,000本のツツジが花をつけ、花見客で大いににぎわっているそうです。やっぱり平和が一番ですね。



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