ー甲斐健の旅日記ー

石田三成屋敷跡/豊臣政権継続のために戦った信念の人・三成の出生地

 滋賀県長浜市の東端・石田町に、石田三成の出生地とされる「石田三成屋敷跡」があります。現在この地には石田会館が建てられ、地元の人々の集会場(公民館)となっていますが、建物内には「石田三成資料室」が併設されています。三成ゆかりの鎧や古文書、石田屋敷復元ジオラマなどが展示され、無料で公開されています。また、敷地内には、三成の銅像や顕彰碑、往時の堀の跡の一部とされる「治部池」などがあります。さらに石田会館のすぐ近くにある八幡神社の中に石田神社があり、石田一族供養塔が建っています。

 慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで、西軍を実質的に率いて東軍総大将の徳川家康と戦い、武運つたなく敗れ去った石田三成は、永禄3年(1560)父・石田正継の第二子として生まれました。石田家は、15世紀初めからこの地に住み着き、荘園の代官をしていたといわれます。そして、三成が生まれたころには、近江国坂田郡石田村(現・滋賀県長浜市石田町)を治める領主だったと考えられており、その屋敷もたいそう立派なものだったといわれます。

 三成の父・正継は、学芸に優れた教養人でした。三成が秀吉に認められ堺町奉行に抜擢されたときには(天正14年〈1586〉)、代官としてこれを補佐し、文禄4年(1595)に三成が佐和山城主となった後には、執務多忙でなかなか地元に帰れなかった三成に代わって国を治め、その行政手腕をいかんなく発揮したといいます。

 この父に厳しく育てられた三成は、幼くして隣村の大原観音寺(現・滋賀県米原市朝日)に小姓として修業に出されました。ある日、長浜城主となっていた羽柴秀吉が、タカ狩りの帰りに大原観音寺に立ち寄り、一服の茶を所望しました。とその時、一人の小姓が大きめの茶盌に七、八分目ほど入れた、ぬるめの抹茶を持ってきました。のどが渇いていた秀吉は、その茶を一気に飲み干しました。そして、その小姓の立ち居振る舞いに興味を覚えた秀吉は、もう一杯の茶を所望しました。すると今度は、茶盌の半分に満たない量で、前よりも熱く点てられた茶を持ってきました。これを飲み干した秀吉がさらにもう一杯の茶を所望すると、その小姓は、小ぶりの茶盌にさらに熱く点てた茶を持ってきました。さすがの秀吉も、客の要望に応えて機転を利かせるこの小姓の才知に驚き、寺の住職に懇願してこの子を家来としてもらい受けたといいます(「三献の茶」の逸話)。この小姓こそ石田三成(幼名・佐吉15歳)その人でした。この秀吉との出会いから、石田三成の出世物語が始まったのです。

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 石田三成屋敷跡へのアクセスですが、JR北陸本線長浜駅から湖国バス近江長岡線に乗ってバス停・石田で下車します。所要時間は22分です。ただし本数が少ないので、あらかじめ時刻表を確認するか、タクシーを利用する(片道2,480円:2020年11月現在)、あるいは駅前のレンタサイクルを利用する手もあります。県道沿いにあるバス停から南の路地に入り、小さな十字路を右に曲がって少し歩くと、左手に石田三成屋敷跡があります。

 現在、屋敷跡には石田会館が建っており、石田三成ゆかりの品々が集められた展示室があります。2020年11月においては、コロナ禍の為休館となっていました。早く収束して再開してもらうことを望みます。この会館が建っているところが、石田家の屋敷の南端で、120mほど離れたバス停付近までが敷地であったと考えられています。会館に向かって右手奥に、「治部池」と呼ばれる小さな池があります。これは、屋敷の周りを囲んでいた堀の遺構だといわれます。池の隣には石田三成公の銅像と、「石田治部少輔誕生地」と彫られた顕彰碑が建っています。この顕彰碑は、昭和16年(1941)に当時の滋賀県知事らの働きかけで建立されました。

 石田三成屋敷跡の近所(歩いて5分)に八幡神社があり、その境内奥に石田一族の供養塔がある石田神社があります。昭和16年(1941)、この神社の境内にあった塚から、故意に破壊されたとみられる五輪塔などの墓石が出土されました。これらの墓石は、八幡神社を守り神としていた石田家代々の墓石であったと考えられています。関ケ原の戦いで石田三成率いる西軍が敗れた直後、徳川方によって石田屋敷をはじめ石田家の墓所も徹底的に破壊されました。その破壊された墓石を村人たちが拾い集め、八幡神社の境内に埋めて塚を作ったのではないかと考えられています。現在、神社の境内には石田一族のための供養塔が建っています。また、三成辞世の歌碑があります。

  筑摩江や 芦間に灯す かがり火と
     ともに消えゆく わが身なりけり

さらには三成自筆の歌碑も立っています。

  残紅葉 散り残る紅葉は ことにいとおしき
     秋の名残は こればかりぞ

 静まり帰った境内にたたずんでいると、「俺は、この国の進むべき道をかけて巨大な敵・家康と堂々と渡り合い戦い抜いた。武運つたなく敗れはしたが、自分の信念を貫き通したことに満足している。」という、三成の心の叫びが聞こえてくるようです。



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