ー甲斐健の旅日記ー

岡寺/稀有の才能を持ち、多くの高僧を育てあげた義淵が創建した寺院

 岡寺(おかでら)は、奈良県高市郡明日香村にある真言宗豊山派(ぶざんは)の寺院です。山号は東光山、院号が真珠院、寺号は龍蓋寺(りゅうがいじ)と称します。しかし、明日香村の東にある岡山の中腹に位置していることから、岡寺と呼ばれます。本尊は如意輪観音(にょいりんかんのん)です。西国三十三所観音霊場第7番札所となります。

 寺伝によると、岡寺の創建は天智天皇(在位668~671年)の時代にさかのぼります。天智天皇の勅願を受けて、義淵(ぎえん)僧正によって創建されました。義淵は、逸話の多い人物です。昔、大和国高市郡に子供のいない夫婦がいました。何とか子を授かるようにと、毎日観音様にお祈りをしていました。するとある日、家の前に捨て子が置かれていました。その子を家の中に連れて入ると、馥郁(ふくいく:よい香り)とした香りが家じゅうに漂ったといいます。夫婦は、観音様が授けてくれた子だと思い、その子を大事に育てました。すると、その噂を聞いた天智天皇がその子を引き取り、息子の草壁皇子の宮であった嶋宮で一緒に育てました。その子が実は義淵だったということです。後に、その嶋宮が義淵に与えられ、岡寺が建立されたといわれます。他の逸話では、義淵は実は天智天皇の落し胤であったとする説もあります。さらには、百済聖明王の子孫であるという説まであります。

 現在岡寺は、新義真言宗の一派である真言宗豊山派に属していますが、義淵僧正は我が国法相宗(ほっそうしゅう)の祖であり、才能あふれる僧であったようで、文武3年(699)にはその優秀な学行(学識・修行)を評価されて稲一万束を賜り、大宝3年(703)には日本人で初めて「僧正(そうじょう:僧と尼を統括する官職)」の位を得ました。その門下には東大寺の開山で華厳宗の僧良弁(ろうべん)僧正、仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、階層を問わず多くの人々に仏法の教えを説き、聖武天皇より東大寺大仏建立の実質の責任者として招かれた行基大僧正など、多くの奈良時代の高僧がいます。

 岡寺は、江戸時代まで法相宗の寺院で興福寺の末寺でしたが、江戸時代の途中からは真言宗豊山派となり、長谷寺の末寺となり現在に至っています。

 なお、寺号である「龍蓋寺」には、次のようないわれがあります。その昔、飛鳥の地に、田畑を荒し農民を苦しめていた悪い龍がいました。その時義淵僧正が、法力をもって悪龍を池の中に封じ込め、大きな石で蓋をしました。龍は自分の罪を認め、改心して善龍となったといいます。これが「龍蓋寺」の名前の由来です。改心した龍は、今でも境内の龍蓋池に眠っていると伝えられます。蓋である大きなかなめ石を触ると雨が降るという言い伝えが残っているそうです。また、悪龍の厄難を取り除いたことから、岡寺の「厄除け信仰」が始まり、現在まで続いているといわれます。

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 岡寺へは。近鉄橿原(かしはら)線橿原神宮前駅または飛鳥駅で下車し、「赤かめバス」に乗り換えて「岡寺前」で下車します。「赤かめバス」は、一日フリー乗車券(650円:2015年4月)を買うと乗り放題ですので、飛鳥地方の散策には便利です。土・日・祝日は30分に一本走っています(平日は1時間に一本)。バス道路から山側(東側)の参道に入って、急な坂道を300mほど上ると、岡寺の仁王門の前に着きます。

 仁王門は、慶長17年(1612)に再建されました。三間一戸入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の朱塗り楼門です。正面両脇に仁王像が安置されています。また、四隅上にはそれぞれ阿形(あぎょう:口を開けた状態)獅子・吽形(うんぎょう:口を閉じた状態)獅子・龍・虎の彫り物があります。

 仁王門をくぐって石段を登っていくと本堂のある広場に出ます。その西端に大師堂があります。昭和の初めに建立された、宝形造(ほうぎょうづくり)銅板葺(どうばんぶき)の小さなお堂です。宗祖である弘法大師空海を祀っています。堂の手前左手には、大師幼少期の姿の「稚児大師像」、右手には、四国の地を巡り修行していた頃の姿の「修行大師像」があります。多くの参拝者は、子供の身体健全を祈願して「稚児大師像」をなでていき、足腰の健全を祈願しながら、「修行大師像」のおみ足をなでてお参りしています。

 大師堂から本堂に向かって進むと、まず左手に、書院に至る楼門が見えます。仁王門と同時期の慶長年間(1596~1615年)ごろの建立とされます。一間一戸、入母屋造、本瓦葺の門です。二階部分には、かつて兜跋(とばつ)毘沙門天像(平安時代作、現在は本堂に安置)が安置されていたといいます。独特な形式をもつ珍しい遺構です。この楼門の奥にある書院は、江戸時代前期以前の建立と考えられています。一重、切妻造(きりつまづくり)で、東面の庇は杮葺き(こけらぶき)、西面の庇は銅板葺です。対面座敷と台所を一棟に共存させた珍しい構成の書院だそうです。通常は非公開ですが、2010年春(平城京遷都1300年)に特別公開されたそうです。

 楼門の東隣に建つのが、開山堂です。寛政9年(1797)ごろに建立されたものを、明治4年に廃仏毀釈の動きから逃れるように、奈良県桜井市の多武峰妙楽寺(とうのみね みょうらくじ:現、談山(たんざん)神社:祭神は中臣鎌足)から移築されました。方三間、入母屋造、銅板葺の建物です。堂内には、開山堂の本尊阿弥陀三尊像が安置されています。阿弥陀如来坐像の向かって右には観音菩薩、左には勢至菩薩が脇侍として鎮座しています。観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」を表す化身で、勢至菩薩は「知恵」を表す化身といわれています。

 開山堂の東隣に建つのが本堂です。文化2年(1805)の上棟で、完成はその30年後だとされます。桁行(けたゆき:正面)5間(間は柱の間の数)、梁行(はりゆき:奥行き)3間、入母屋造、本瓦葺、妻入の建物です。正面に向唐破風(むこうからはふ)が施されています。堂内には、岡寺本尊の如意輪観音坐像(奈良時代作)が安置されています。現存する如意輪観音像の中では最古のものとされます。像高4.6mで、塑像(土でできた仏像)としては最大の仏像です。日本三大仏の一つとされます。他の二体は、東大寺の盧舎那仏(るしゃなぶつ:銅像)、長谷寺の十一面観音菩薩像(木像)です。密教系の如意輪観音像は、片膝を立てた六臂(ろっぴ:六本の手)の像が多いのですが、岡寺の如意輪観音は、二臂(にひ:二本の手)で、右手は施無畏(せむい)、左手は与願(よがん)の印を結んで、結跏趺坐(けっかふざ)しています。寺伝によると、弘法大師が日本・中国・インド三国の土を以って造り、それまで本尊とされてきた金銅の如意輪観音菩薩 半跏思惟像を胎内に納めて本尊としたと伝えられています。弘法大師は法相学を義淵僧正の弟子たちから学び、義淵僧正の高徳をしのび、この如意輪観音像を造ったといいます。現在に至るまで、「厄除けの観音様」として信仰を集めています。

 本堂の南西に、鐘楼堂があります。本堂と同時期の文化年間(1804~17年)に建てられたとみられています。梵鐘は、刻まれた銘から文化5年(1808)の作とみられます。鐘の中央付近に開いている穴(7個)は、戦争中の「国家総動員法」にもとづく「金属類回収令」により供出した際に材質を調べるために開けられたものだそうです。岡寺の梵鐘は幸運にも溶解を免れ(スズの含有率が加工に適さなかったという)、現在もその鐘の音を明日香の里に響かせています。参拝者が自由にこの鐘を撞くことが出来ます。岡寺の梵鐘は、厄除けの鐘であると共に、平和を祈る鐘でもあります。

 本堂の南東には、「龍蓋寺」の名前の由来となった龍蓋池があります。悪さをした龍を、義淵僧正が法力をもって閉じ込めたというかなめ石が、縄で囲まれた場所に置かれています。思ったより小さな石でした。これで龍を閉じ込めることが出来るとは・・・。義淵僧正の法力の強さは想像を絶するものだったのでしょう。

 龍蓋池と本堂の間の急勾配の道が、奥の院に通じる道です。途中には、昭和元年(1926)に造られたという十三重石塔があり、その上には開祖義淵僧正の御廟とされる宝篋印塔があります。南北朝時代のものといわれますが、保存状態がよく相輪(そうりん:塔の頂上部分)までしっかり残っています。奥の院に至る参道の中ほどに「瑠璃井(るりい)」という井戸があります。弘法大師ゆかりの厄除けの湧水と伝えられますが、今は飲むことが出来ません。さらに、仏足石や石仏が置かれた道を進むと、奥の院石窟堂があります。奥には、弥勒菩薩座像が安置されています。

 奥の院から細い道を西に歩いていくと、境内の南西の位置に三重宝塔があります。旧境内(現治田神社境内)にあった三重宝塔は、天明4年(1427)の台風により倒壊してしまいました。その後再建はされず、旧建築資材は、仁王門や楼門の再建の部材に転用されていったといいます。しかし、昭和59年(1984)の弘法大師1150年御遠忌(おんき)をきっかけにして再興の動きが出て、昭和61年(1986)に再建されました。さらに平成13年(2001)には、扉絵や壁画が完成しました。毎年、10月第三日曜日の開山忌には、扉絵や壁画が公開されるそうです。

 開祖である義淵僧正に、たくさんの伝説が残っているのは、それだけ稀有の才能を持ち多くの人々に尊崇されていた証かもしれません。法相宗の祖として、後世の弘法大師にまで思想的な影響を与えたとされます。岡寺(龍蓋寺)は、そんな義淵が精魂込めて創建した寺院です。



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