ー甲斐健の旅日記ー

三十三間堂/熱烈な観音信仰を今に伝える仏堂

 三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は、京都市東山区にある仏堂です。正式名称は、蓮華王院(れんげおういん)本堂といいます。すぐ近所にある天台宗妙法院の境外(けいがい)仏堂です。本尊は千手観音菩薩です。

 平安時代末期、現在三十三間堂がある地には、後白河上皇の離宮・法住寺殿(ほうじゅうじどの)がありました。その広大な土地の一角に、長寛2年(1164)、後白河上皇は平清盛の援助を得て蓮華王院という寺を建てました。その本堂が三十三間堂です。創建当時は、五重塔などもあり本格的な寺院だったといいますが、建長元年(1249)の火災で焼失し、文永3年(1266)に本堂(三十三間堂)のみが再建されました。当時は外装の朱塗りが鮮やかで、内装も極彩色で飾られていたといいます。

 三十三間堂には次のような伝承があります。後白河上皇は、長年頭痛に悩まされていました。ある日上皇が京都の平等寺(洛陽因幡堂)に参詣すると、夢の中に僧が現れ、「上皇の前世は、熊野の蓮華坊という僧で、前世の功徳により上皇となった。しかし、その蓮華坊のドクロが岩田川の底にあって、目穴から柳が生えている。その柳の枝が風に揺られるので、頭が痛むのだ。」というお告げがありました。上皇は早速岩田川(現富田川:とんだがわ)を調べさせると、そのドクロが見つかりました。そこで上皇は、三十三間堂の千手観音の中にドクロを納め、柳の木を建物の梁(はり)にしたところ、頭痛はきれいさっぱりと治ったということです。そこで、前世の蓮華坊という名から蓮華王院と名付けたといいます。この伝承から、「頭痛封じの寺」としても信心を集めるようになったということです。

 桃山時代になって、豊臣秀吉がすぐ近くの方広寺に東山大仏を建立した時は、三十三間堂もその境内に取り込まれ、周囲の土塀や門などが整備されました。その後、江戸期や昭和期に大規模な修理が行われ、創建当時の姿を今も私たちに見せてくれています。

 三十三間堂の名は、本堂内陣の柱の間の数が33間あることに由来します。また、33という数字は観音菩薩に縁のある数字で、『法華経』などには、観音菩薩は33種の姿に変わり人々を救うと説かれています。つまり、本堂には本尊と脇仏で1,001体の観音菩薩が安置されていますが、これは33,033体の仏がいて人々を見守ってくれるということになります。

 本堂の桁行(けたゆき:正面)の長さは約121mになります。江戸時代には、本堂西側の軒下で、「通し矢」が競われたといいます。各藩の弓自慢が参加して、縁の南端から120m北にある的に対して、軒の天井に当たらぬ様に矢を射ぬくものです。相当に強い弓で射なければ的に当てることはかなわず、参加者は藩と自分の名誉のために競ったといいます。現在も、「楊枝のお加持」大法要の日(1月中旬)に、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」が行われています。弓道をたしなむ新成人が振袖袴姿で参加するそうです。ただし、軒の高さによる制限がありませんので、かつての通し矢とはまったく違うものといえます。

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 三十三間堂へは、京都駅からですと、市バス100,206,208系統に乗って、「博物館・三十三間堂前」で下車します。七条通(バス通り)の南に三十三間堂があります。

 拝観券を購入して入口から境内に入ると、南北に長く伸びた長大な建物が目に入ります。これが三十三間堂(本堂)です。桁行(けたゆき:正面)35間(間は柱の間の数)で118.2m、梁行(はりゆき:側面)5間で15.4mあります。このうち四方1間分が庇となり、身舎(もや)は、33間X3間となります。東側正面に7間の向拝(こうはい)が施されています。現在見る本堂の建物は、文永3年(1266)の再建とされます。単層、入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。堂内は板敷きで、天井は天井板を張らず垂木(たるき)を見せる化粧屋根裏となっています。東側の障子戸を通して、やわらかい日差しが中の仏像を照らしています。昭和5年(1930)の修理の時に、部屋の一部から極彩色の文様が発見され、建立当初は、内装に鮮やかな極彩色の文様が施されていたことが判明したそうです。

 堂内中央には本尊の千手観音坐像が安置されています。そしてその両側には、左右500体づつの千手観音立像(十一面千手千眼観音菩薩)が、左右それぞれ10段x50列にびっしり並んでいます。実は、本尊の背後にも1体あり、全部で1,001体となります。また両端には風神像(向かって左)、雷神像(向かって右)が、千手観音立像の前には二十八部衆が安置されています(四天王は、本尊の周囲に安置)。

 本尊の千手観音坐像は丈六(じょうろく)の坐像で、「中尊」と呼ばれます。木造(ヒノキ)、寄木造で漆伯が施されています。建久6年(1254)、湛慶(たんけい:運慶の嫡男)82歳の作といわれます。保存状態がよく、台座、光背(こうはい)天蓋(てんがい)も作製当初のものだそうです。1,001体ある千手観音立像(木像、漆伯)は、圧巻です。当時の人々の信仰の深さを感じさせる造形です。よく見ると、一体ごとに微妙に表情が違うのがわかります。1,001体のうち、建長元年(1249)の火災で助け出された平安時代の像が124体、鎌倉時代に復興されたものが876体、室町時代に作製されたものが1体だそうです。このうち約半分が作者名がわかっているそうで、慶派、院派、円派といった当時の一流の仏師が名を連ねているそうです。

 風神・雷神像は、鎌倉時代三十三間堂が復興した頃の作で、ヒノキ材の寄木造りです。湛慶がこの像の作製に深くかかわったとされます。風神・雷神は、仏法を守り、悪をこらしめる役割を持ち、また、風や雷などの天候を司る神として信仰されています。二十八部衆は、千手観音に従って、仏教とそれを信仰する人を守る28人の神様です。鎌倉時代の作で、ヒノキ材の寄木造りです。

 三十三間堂の1,001体の千手観音建立像作製には、当時の人々の熱烈な観音信仰が背景にあったと思われます。それ以外にも、平安末期の混乱により、古い政治体制が崩れて武士が台頭するなど、貴族階級から庶民に至るまで多くの人々が感じた明日への不安が、観音信仰を極限にまで高める原動力になっていったのかもしれません。この神聖で熱いエネルギーを現代のわれわれにも伝えてくれた、鎌倉時代の仏師の皆さんに感謝、感謝です。



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