ー甲斐健の旅日記ー

新薬師寺/我が国最古で最大の十二神将像が人々を護る寺院

 新薬師寺(しんやくしじ)は、奈良市高畑町にある華厳宗の寺院です。本尊は薬師如来開基は光明皇后(聖武天皇という説もある)と伝えられます。山号は日輪山(ただし、古代の寺院には山号はなく、後世に付したもの)と称します。奈良時代には南都十大寺の1つに数えられた大寺院でした。

 平安時代末期成立の『東大寺要録』に、「天平19年(747)3月、光明皇后が夫である聖武天皇の病気平癒を祈って新薬師寺と七仏薬師像を造立した」と記されています。また「新薬師寺はまたの名を香薬寺(こうやくじ)といい、九間の仏殿には七仏浄土七躯が祀られていた」とあります。創建当時は広大な伽藍(がらん)を持つ大寺院だったようです。金堂には、7組の薬師三尊像と薬師如来を信仰する人々を守る十二神将が安置されていたといいます。金堂の両側には東塔と西塔が建ち、多くの堂宇が整備され七堂伽藍が整っていました。

 しかしその後、何度か災害に見舞われ、衰退していきました。宝亀11年(780)には落雷があり、西塔はじめいくつかの堂宇(どうう)が焼失してしまいました。応和2年(962)には、台風のため金堂以下の主要な堂宇が崩壊してしまいました。その後、再興されていきましたが、往時の大伽藍の復活はなりませんでした。治承4年(1180)の平重衡(清盛の五男)の南都焼き討ちでは、東大寺や興福寺は大打撃を受けました(伽藍はほぼ全焼)が、新薬師寺は焼け残ったといいます。鎌倉時代になると、解脱上人(げだつしょうにん)、や華厳宗中興の祖といわれる明恵上人(みょうえしょうにん)により再興され、東門、地蔵堂、鐘楼が建立されました。天平の建造物である現本堂を中心に、現在見る新薬師寺の伽藍が整いました。なお現在ある本堂は、もともとの本堂(金堂)ではなく、台風や火災の被害に耐え抜いた他の堂を転用したものと考えられています。

このページの先頭に戻ります

 新薬師寺へは、近鉄奈良駅から、奈良交通バス 2〔市内循環・外〕に乗って、破石町(わりいしちょう)で下車します。バス停から東の山側に10分ほど歩くと新薬師寺の南門の前にでます。

 南門は、鎌倉時代後期の建立とされ、切妻造(きりつまづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の四脚門です。この南門をくぐると正面に本堂が見えます。現本堂の建物は、奈良時代の創建当時に建立された金堂以外の建物の転用とみられています。桁行(けたゆき:正面)7間(間は柱の間の数)、梁行(はりゆき:奥行き)5間、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺の建物です。正面の中央3間を戸口とし、両側2間ずつには窓がなく白壁となっているのが印象的です。創建当時は、密教的修法を行う壇所であったという説があります。内部は土間になっており、太い柱が立ち、天井は屋根裏がない化粧屋根となっています。中央の円壇の中心には、新薬師寺本尊の木造薬師如来座像が安置されています。奈良時代~平安時代初期の作で、像高は約1.91mあります。頭と胴体などの体幹部分は一本のカヤの木から彫り出され、手と足は同じカヤの木から木目を合わせて寄木をしてつくられているそうです。光背(こうはい)の宝相華(ほうそうげ:牡丹や蓮、柘榴などの植物を部分的に取りいれた空想上の植物)の花の上には六体の小仏があり、本体と合わせて七仏薬師を表しているといいます。目は大きく見開いていて、穏やかで力強い印象を与えています。眉、瞳、髭などに墨、唇に朱を差すほかは彩色や金箔を施さない素木仕上げとなっています。昭和50年(1975)の調査で、像の体内から平安初期のものとみられる法華経8巻が見つかりました。

 薬師如来の正式名は薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)といいます。人々の病や苦しみを取り除き、災害を止めるなどの12の願いを解決して如来になったといいます。主に病に苦しむ人を救う医王如来として信仰されています。薬師如来が手に持っている薬壷(やっこ)には、体・心・社会などのあらゆる病を治す霊薬が入っているといいます。阿弥陀如来が西方極楽浄土(死後の世界)を約束しているのに対し、薬師如来は東方浄瑠璃世界(生きている今の世界)を約束します。瑠璃とは地面を創っている青い石のことで、現世の意味でもあります。

 薬師如来を円形状に囲むように、12の武将・十二神将が安置されています。十二神将とは、薬師如来の世界とそれを信仰する人々を守る武将で、1体に7,000人の眷属(けんぞく:部下)を率いているといわれます。 新薬師寺の十二神将立像は塑像(そぞう)といい、粘土に紙の繊維や雲母片などを混ぜて形造ったもので、奈良時代の作です(一体は補作)。像高は152~166cmで、わが国最古で最大の十二神将像といわれます。また十二神将像は、12の方角を守っていることから、干支(えと)の守護神としても信仰されています。

 南門を入ってすぐ右手にある鐘楼は、弘安2年(1279)に建立されました。桁行3間、梁行2間、二重入母屋造、本瓦葺の建物です。袴腰(はかまごし)には白漆喰塗(しろしっくいぬり)が施されています。中にかかっている梵鐘は奈良時代の作とされます。『日本霊異記(にほんりょういき)』にある道場(どうじょう)法師鬼退治で名高い釣鐘です。もとは奈良の元興寺(がんごうじ)の釣鐘だったとも伝えられています。天平時代のこと、元興寺の釣鐘堂にたびたび鬼が出て、町民を苦しめていました。元興寺の僧侶・道場法師は、鬼を退治しようと釣鐘堂で待ち構えることにしました。道場法師は歩くだけで地面が3寸下がると言われたほどの大柄で怪力の持ち主だったそうです。待ち伏せされた鬼は「これはかなわない相手だ」とわかり、東の方に逃げました。道場法師は追いかけたのですが、四つ辻のところで鬼を見失いました。以来、鬼を見失った不審な辻周辺が「不審ケ辻町」という町名で、また鬼が逃げて隠れた場所が「鬼隠山」いう名で呼ばれるようになりました。鎌倉時代、元興寺の釣鐘堂が焼けたため、残った釣鐘を新薬師寺に持ってきたと伝わっています。新薬師寺の釣鐘に多くの傷跡があるのは、伝説の鬼の爪痕だといわれています。

 南門を入ってすぐの左手には、地蔵堂(観音堂)があります。鎌倉時代の建立とされます。方一間、入母屋造、本瓦葺の小さな仏堂です。正面上部(間斗束(けんとづか)の位置)にある蟇股(かえるまた)のデザインは鎌倉時代の秀逸といわれています。堂内には、十一面観音菩薩立像(鎌倉時代作)、薬師如来立像(室町時代作)、地蔵菩薩立像(南北朝時代作)が安置されています。

 境内の北西に、香薬師堂(こうやくしどう)と庫裏(くり)が立ち並び、その前に「織田有楽斉の庭」がある一角があります。香薬師堂には、本堂に安置されている「景清地蔵」の胎内から出てきた裸形の地蔵尊が祀られています。鎌倉時代には、裸形の仏像に布製の衣を着せて安置することがよくあったそうですが、本像は裸形像の上に木造の衣を貼り付けた大変珍しいものでした。現在は、修理後に裸形像に新しく造った頭部をつないで別の像として独立させ、「おたま地蔵」として香薬師堂に安置されています。安産祈願や健康祈願に御利益があるそうです。秘仏ですが、特別開扉もあるそうです。

 ところで、「景清地蔵」の由来は次のようなものです。源平合戦の後、平景清(たいらのかげきよ)という武将は、平家一族の恨みを晴らそうと、東大寺の大仏開眼供養に参列する源頼朝の暗殺を計画しました。しかしこれは、未遂に終わりました。その後、景清は母の家に身を寄せ、等身大の地蔵像をつくり、それを自分の身代わりとして母の元に置き、自害して果てたといいます。その地蔵尊が、巡り巡って明治2年(1869)、近隣の地蔵堂から新薬師寺に移されたのだそうです。

 なお、「織田有楽斉の庭」は、織田信長の弟有楽斉の作庭だといわれています。

 薬師如来坐像を円形に取り囲んで立ち並ぶ十二神将像には、どんな邪鬼も寄せ付けないという迫力が感じられます。LED照明だからでしょうか、比較的明るい照明に半身を照らされたその姿は、荘厳でかつ力強さを感じさせます。その十二神将の中心に、薬師如来が慈悲に満ちた尊顔で座しています。



このページの先頭に戻ります

このページの先頭に戻ります

追加情報


このページの先頭に戻ります

popup image