ー甲斐健の旅日記ー

勝林院/仏教の儀式音楽である声明(しょうみょう)の聖地だった寺院

 勝林院(しょうりんいん)は、京都市左京区大原三千院の北にある天台宗の寺院です。山号は魚山(ぎょざん)と称します。本尊は阿弥陀如来です。

 寺伝によれば、承和5年(838)、慈覚大師円仁(第3代天台座主)が唐に渡り、中国仏教の古典様式音楽である声明(しょうみょう)を学び、9年後に帰国してから比叡山で道場を開き、天台声明として伝承していました。これが勝林院の前身とされます。声明の修行道場には、多くの僧らが集ったといいます。その後長和2年(1013)に、円仁の9代目の弟子の寂源(じゃくげん:左大臣源雅信の子)によりこの道場が現在地に移され、中国の声明聖地の名をとって、魚山と号しました。大原魚山流声明の根本道場として勝林院が建立されました。それ以後は、多くの声明修行僧が集まり、栄えていったといいます。

 文治2年(1186)には、後に天台座主となる顕真(けんしん)が浄土宗の開祖である法然をこの地に招き、百日の宗論を戦わせたといいます。これが「大原問答」です。法然は叡山や京都の学僧を前に、阿弥陀仏の本願(浄土念仏の教理)を説き、集まった僧らを信服させたといいます。

 享保21年(1736)、火災により本堂は焼失しましたが、安永年間(1772~81年)には、現在見る本堂、西林堂、鐘楼が再建されました。本堂は安永7年(1778)、徳川家(10代将軍家治の時代)の寄進により、後桜町天皇の常御所を移して再建されたといいます。

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 勝林院へは、京都駅からですと、まず京都バス17系統に乗り、「大原」で降ります。バス停から東へ、呂川沿いにみやげ物店が立ち並ぶ道を15分ほど歩くと三千院の門前に着きます。さらに、そこからまっすぐ北に上ったところに勝林院はあります。

 入口にある橋は、来迎橋と呼ばれ、是より内が極楽浄土ということになるそうです。入口を入って正面に見えるのが本堂です。本堂は、安永7年(1778)に再建されました。正面七間側面六間(間は柱の間の数)、入母屋造(いりもやづくり)杮葺き(こけらぶき)で、正面に三間の向拝(こうはい)が施されています。また正面に七間X一間の吹き放しがあり、周囲に縁が付いています。。中央正面に桟唐戸(さんからど)、左右に二間の蔀戸(しとみど)花頭窓(かとうまど)、中央三間の軒下には彫刻が施されています。堂内には本尊の阿弥陀如来が安置されています。平安時代に仏師康尚(こうしょう)によって作製されたといいます。大原問答の時に、阿弥陀如来の手から光明が放たれ、念仏の衆生済度(しゅじょうさいど:仏道によって、生きているものすべてを迷いの中から救済し、悟りの境地に導くこと)が正しいことを証拠立てられたという由来から、「証拠の阿弥陀仏」といわれ、これを安置する本堂も「証拠堂」呼ばれていたといいます。脇侍には、室町時代後期の作といわれる木造、彩色の不動明王立像および左手に宝塔、右手に宝棒を持つ毘沙門天立像が安置されています。さらに、その両脇に二対の問答台が置かれています。

 阿弥陀如来の手元からは五色の綱と白い綱が延びています。五色の綱は結縁(けちえん:仏・菩薩が世の人を救うために手をさしのべて縁を結ぶこと)のために参拝者が直接触れることが出来ます。また白い綱は、葬儀の際に入り口の小橋・来迎橋の外に置かれた棺と結ばれます。阿弥陀如来により極楽浄土へ導かれるための儀式とされ、平安時代から続いている慣わしだそうです。

 本尊の奥には、法然上人木像と踏出阿弥陀如来が安置されています。この如来像は、蓮華の上にのって左足を踏み出しています。大原問答のとき、左足を踏み出して証拠を示したという信仰があるそうです。裏には、元三大師(がんさんだいし)画像と象に乗った普賢菩薩像、十一面観音菩薩立像が安置されています。この十一面観音像(クスノキの一木造)は、もともとは北野寺の本尊で菅原道真公の本地仏だったといいます。それが明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の法難を逃れるために、ここ勝林院に移されました。江戸時代の人々がなぜた右手が、今も黒光りしています。

 入口を入ってすぐ右手にある鐘楼は鎌倉時代建立といわれます。梵鐘には鎌倉時代、「正和五年」(1316)の刻字があります。境内の東側の坂を登ると、宝篋印塔があります。鎌倉時代「正和五年(1316年)」の銘があります。

 勝林院の手前を左に下ったところに、深い緑に囲まれて瀟洒な構えを見せる、宝泉院があります。勝林院住職の僧坊として、平安末期頃に創建され現在に至っています。山門、庫裏(くり)、客殿などの建物があり、客殿は、文亀2年(1502)の再建、あるいは江戸式の再建ともいわれます。

 客殿西の庭園は、「盤桓園(ばんかんえん)」とよばれます。立ち去り難いという意味だそうです。柱と柱との間の空間を額に見立てて鑑賞することから、「額縁庭園」とも呼ばれます。竹林の間より、大原の里の風情を観ることが出来るといいます。南側には、樹齢700年以上とされる「五葉松」があります。近江富士(滋賀県野洲市三上山)型といわれます。高さ11m、根回り4.5m、枝は南北に11.5m、東西に14mと大きく拡がっています。客殿東の庭園は「鶴亀庭園」です。江戸中期の作庭とされます。池は鶴が羽を広げた形、築山が亀、山茶花の古木を蓬莱山と見立てています。樹齢300年の沙羅双樹が植えられています。

 境内南には、2005年に作庭された「宝楽園」があります。地球の創世記にさかのぼり、原初の海を想像した庭園とされます。この庭に立つと、深遠なる宇宙の響きを感じ取ることが出来るといいます。巧妙に配置された石組は、物心の世界を表しているそうです。

 勝林院は、日本における声明(しょうみょう)の聖地といわれます。中国における声明の聖地である魚山に地形が似ているとして、円仁の9代目の弟子・寂源がこの地に勝林院を建立して1000年が過ぎました。その間、声明(梵唄:ぼんばい)は、寺院の法要儀式の中で行われる仏教の儀式音楽として定着していったといいます。また声明は、仏教にとどまらず、今様、平家琵琶、謡曲、浄瑠璃、小唄、長唄、浪花節、民謡、演歌などにも影響を与えてきたといわれます。勝林院は、今は小さな寺院ですが、その伝統をしっかり守り流づけて現在に至っていることを強く感じました。



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