ー甲斐健の旅日記ー

等持院/勤皇派の迫害に耐えた足利家の菩提寺

 等持院(とうじいん)は、京都市北区にある臨済宗天龍寺派の寺院です。山号は萬年山と称します。室町幕府足利将軍家の菩提寺です。開基は夢窓疎石(むそうそせき)です。

 暦応年間(1338~42年)、足利尊氏は、衣笠山山上にあった仁和寺の小院をこの地に移し、夢窓疎石を開基として臨済宗の禅寺にしました。これが等持院の始まりとされます(一説には尊氏の弟の直義が開いたともいわれます)。延文3年(1358)に尊氏が没すると葬儀がここで行われ、尊氏の法号をとって「等持院」と名付けられました。これ以後、足利家の菩提寺として京都十刹(じっさつ)の一位に位されました。しかし、応仁の乱の兵火と足利幕府の衰退により寺領は荒れ果ててしまいます。これを立て直したのが豊臣秀吉でした。秀吉は尊氏を崇敬していたようで、息子の秀頼に遺言して再興させたといいます。

 その後、火災により焼失しましたが、江戸期の文政元年(1818)に、妙心寺の塔頭(たっちゅう)海福院の方丈(1616年福島正則建立)を移築して再興されました。しかし幕末になって尊王思想が勢いを増したため、足利尊氏は朝敵とみなされ、尊皇派の志士たちから迫害を受けます。尊氏、義詮、義満の三体の木像の首が切られ、三条河原にさらされたこともありました。また寛政の三奇人といわれた高山彦九郎によって、境内にある葦で尊氏像が鞭打たれるという事件もありました。このような状況は、第二次世界大戦終了まで続き、国賊尊氏の寺という評価に苦しんだ時期が長く続いたといいます。しかし戦後になって、その様な極端な迫害はおさまり、足利尊氏の墓所のある寺院として、多くの参拝者を迎えるようになりました。

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 等持院へは、京都駅からですと京都市バス26系統に乗り、「等持院道」で降ります。バス停近くの細い道を北に入ります。道なりに歩いて突き当たったら右(東)に曲がると、左手に等持院山門があります。

 山門は江戸時代の建立とされ、切妻造(きりつまづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)薬医門(やくいもん)です。これをくぐって参道をしばらく歩くと表門にでます。表門も江戸時代の建立で、切妻造、本瓦葺の薬医門です。さらに進むと、庫裏(くり)が見えてきます。ここから建物の中に入ることができます。方丈(本堂)は、元和2年(1616)福島正則が妙心寺塔頭(たっちゅう)海福院に建立したものを、文政元年(1818)に移築したものです。入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)の建物です。内部は、六間間取りの方丈形式になっています。方丈室中(しっちゅう)の仏間には、釈迦如来坐像(平安時代作、寄木造)が安置されています。また同じ仏間の厨子(ずし)には歓喜自在天像(かんぎじざいてんぞう:鎌倉時代作:一本造)が安置されています。方丈内には、さらに夢窓国師坐像(江戸時代:寄木造)も安置されています。また、方丈の襖絵は、江戸時代初期の狩野興以(こうい)の作といわれます。

 方丈の西に建つ霊光殿には、尊氏が日頃念持仏として信仰していた利運地蔵尊(りうんじぞうそん:弘法大師作と伝えられる)が本尊として祀られ、両脇に達磨大師坐像と夢窓国師像、さらには足利尊氏はじめ歴代足利将軍像(5代義量と14代義栄像はない)と徳川家康像(明治の廃仏毀釈後に、石清水八幡宮より遷された)が祀られています。本尊と共に、利運を願う人々に信仰を集めているそうです。

 方丈の周囲には池泉回遊式の庭園があり、庭に降りて散策できるようになっています。北庭は高低差があり、かつては衣笠山を借景(しゃっけい)としていたといいます。しかし、大学の校舎が建ったため、その景観は損なわれ、現在は植栽によって建物が隠されています。庭の北の丘の上には、室町8代将軍足利義政たてたという茶室の清漣亭(せいれんいてい)があります。現在の建物は江戸時代の再建といわれます。茅葺(かやぶき)ですが、明治期になって西席(桟瓦葺:さんがわらぶき)が遺材によって造られています。

 東の庭は夢窓疎石の作庭といわれています。南北朝様式を残す名園の一つとされます。心字池には、蓬莱島と2つの亀島の3島があり、夏至の頃にはドクダミ科の半夏生(はんげしょう:三白草)が咲きほころぶそうです。書院から臨む西の芙蓉池は、蓮の花の形(芙蓉)をしており、同じように蓬莱島が配されています。これも、疎石の作といわれますが、江戸中期に大幅に改造されて現在の姿になったといいます。この庭にある侘助(わびすけ)椿は、樹齢400年以上ともいわれ、豊臣秀頼が等持院を再建した時に植えられたそうです。2月にかけて薄紅色の花を咲かせます。さらには、春の馬酔木(あしび)、初夏の皐月、夏の梔子(くちなし)、秋の芙蓉や紅葉など季節の花々を楽しむことが出来るそうです。方丈南庭は、臨済宗天龍寺派管長・関牧翁(1903~199年)により作庭された枯山水の庭園です。

 庭の中ほどに、足利尊氏の墓と伝えられる室町時代の宝筐印塔(ほうきょういんとう:高さ1.5m)があります。その台座に彫られた銘文には「延文三年四月○○日 等持院殿贈太相国一品仁山大居士」と書かれています。

 後醍醐天皇に反旗を翻し、一時的に朝廷が政権を奪取して始まった建武の新政を崩壊させ、その後の南北朝分裂のきっかけをつくった足利尊氏は、勤皇の志士たちにとっては許すことのできない悪人に見えたのでしょう。そのため、足利家の菩提寺であった等持院が迫害を受けてきたことは、悲しいことです。尊氏が後醍醐天皇に反旗をあげたのは、ようやく台頭してきた武士たちが長い間かけて苦労して獲得してきた土地の所有権を守るためでした。律令政治復活を夢見た後醍醐天皇は、一旦土地を国有化(朝廷の管理下におく)して再配分しようとしたのでした。それに不満をもつ武士たちにかつぎ上げられ、武士の権利を守るために努力した尊氏が、江戸末期になって、勤皇の武士たちに弾劾されたことは、何とも皮肉なことのように思えます。長い時を経て今は、等持院の境内には穏やかな時間が流れています。「尊氏さん」、仲間の権利を守るための戦い、ご苦労様でした。安らかにお休みください。



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追加情報
山門
▲山門
花蘇芳
▲花蘇芳
達磨大師像
▲玄関の達磨大師像
方丈
▲方丈
書院
▲書院
書院
▲書院
清漣亭
▲清漣亭
清漣亭
▲清漣亭
心字池
▲心字池
心字池
▲心字池
心字池
▲心字池
心字池
▲心字池
芙蓉池
▲芙蓉池
芙蓉池
▲芙蓉池
和武助椿
▲侘助椿
十三重塔
▲十三重塔
足利15代将軍の供養塔。
室町時代建立。
句碑
▲青山柳為の句碑
「芙蓉池に風あるやなし 落花舞ふ」
句碑
▲赤松柳史の句碑
「煩悩はたえず 南瓜を両断す」
方丈南庭
▲方丈南庭
鐘楼
▲鐘楼


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