ー甲斐健の旅日記ー

桂浜/若き日の坂本龍馬が異国への夢を育んだ大海原

 桂浜(かつらはま)は、高知市の南部に位置し太平洋に面した砂浜です。幕末の風雲児・坂本龍馬が若かりし頃、この大海原を眺め、まだ見ぬ異国への思いを募らせていたといわれます。桂浜は、月見の名所としても有名で、中秋の名月の晩には地元出身の歌人・大町佳月(けいげつ)をしのぶ「名月酒供養」が催されています。浜の北側の丘陵には、戦国期に土佐国を支配していた長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)の居城・浦戸城が築かれていましたが、関が原の戦いののちに土佐入りした山内一豊が高知城を築城した後は廃城となりました。現在はその遺構もほとんど残っていませんが、城跡地には「坂本龍馬記念館」が建てられています。

 桂浜は、北東の上竜頭岬と南西の下竜頭岬の間に弓状に伸びた砂浜です。周辺は桂浜公園となっており、上竜頭岬の近くの高台には巨大な坂本龍馬像が立っています。また下竜頭岬の近くには桂浜水族館や龍馬ゆかりの史料を展示する坂本龍馬記念館があります。

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 桂浜へは、高知駅からですと、とさでん交通バス桂浜行(高知駅北口⑤番乗り場)または高知駅南口から出ている“My遊バス”に乗って終点桂浜で下車します。My遊バス一日乗車券(1000円/日)を使えば、片道だけはとさでん交通バスにも乗車でき、高知市内の市電も乗り放題(市内均一区間)ですのでお得です(2019年9月現在)。

 以下に、桂浜周辺の観光スポットについて紹介します。

坂本龍馬像

 桂浜のバス停から案内板に従って海を目指して歩いていくと、桂浜を見下ろす小高い丘の上に巨大な坂本龍馬像が立っています。昭和3年(1929)、地元の青年有志が募金活動を行い建立しました。製作者は、本山白雲(もとやま はくうん:高村光雲の門弟)です。像の高さは5.3m(台座を含めると13.5m)という巨大なものです。着物にブーツ姿で、右手を懐に隠すという龍馬独特のポーズが特徴です。その懐に隠された右手に持っていたのは、「ピストル」か、はたまた「万国航法」かと、龍馬ファンの間で話題になったこともありました。

 この龍馬像は、龍馬が勝海舟のもとで海軍創設に尽力した功績もあって、先の大戦中に公布された「金属回収令」を免除され供出を免れました。近年は、太平洋からの塩分を含んだ強い風雨に長年の間さらされたことより、銅像の損傷が激しくなっていました。そのため、平成11年(1999)、全国の龍馬ファンから募金を募り、大規模改修が行われました。

 毎年春と秋の二回に分けて(2019年秋は9月28日~11月24日)、龍馬像の横に特設展望台が設置されます。龍馬像と同じ目線で桂浜を眺望することができ、また、間近に龍馬像の横顔を見ることができます。

桂浜水族館

 龍馬像のある広場から遊歩道を南西に向かって(下竜頭岬方面)200mほど歩いたところに、桂浜水族館があります。昭和6年(1932)にオープンした歴史ある水族館です。かつてはプールでの鯨の飼育にも挑戦した歴史があるそうです(結局失敗に終わりましたが・・・・)。ウミガメやペンギンのえさやり体験、アシカのショーなどが楽しめます。また、土佐湾に生息する幻の魚・アカメも飼育されています。

坂本龍馬記念館

 遊歩道をさらに進みいったん県道に出ます。この道を挟んだ向かい側の小高い丘の上に、坂本龍馬記念館があります。龍馬に関する歴史的な史料を一般公開する目的で、平成3年(1991)11月15日(11/15は龍馬の誕生日であり命日でもあります〈旧暦〉)にオープンしました。その後、平成30年(2018)4月にリニュウアルオープンして現在に至っています。

 新館2階の常設展示室には、幕末の混乱期に高い志と持ち前の行動力で生き抜いた坂本龍馬の生きざまを、ひしと感じることができる貴重な史料が展示されています。特に、龍馬が親しい友人や家族につづった手紙が数多く展示され(40通⇨実物4通、他は複製)、当時の龍馬の思いが文面から伝わってくるようで、興味深いものがあります。主なものを列記します。

  • 脱藩後、姉の乙女(おとめ)に初めてあてた手紙(複製)・・・勝海舟の門下となった喜びと、京都に出てきた兄の権平に、勝海舟のもとで働くことを認めてもらった感謝がつづられています(文久3年〈1863〉3月20日)。
  • 兄権平の妻の弟・川原塚茂太郎への手紙(複製)・・・坂本家の家督相続を(龍馬に)迫る兄権平を、何とか説得してほしいと茂太郎に頼んだ手紙。茂太郎は、龍馬の「世界に出て自分の能力を試したい」という思いを十分に理解していたといいます(文久3年〈1863〉8月19日)。
  • 吉村寅太郎を惜しむ手紙・・・土佐藩出身で脱藩第一号だった吉村寅太郎が、尊王攘夷を掲げて天誅組(てんちゅうぐみ)を結成して大和で挙兵した直後、八月十八日の政変で会津・薩摩が主導権を握ったために、天誅組は逆賊となり寅太郎も討ち取られてしまいます。その寅太郎を惜しむ痛切な思いを姉・乙女につづった手紙(文久3年〈1863〉秋)。
  • 新婚旅行報告(複製)・・・薩長同盟を成立させた直後に寺田屋で襲撃を受け重傷を負った龍馬は、傷の療養もかねて妻・お龍とともに九州の霧島に旅立ちました。その際、高千穂の峰登山をして頂上にあった天の逆鉾を引き抜いたことなどを、姉の乙女に(画を添えて)面白おかしく報告した手紙です(慶応2年〈1866〉12月4日)。
  • 後藤象二郎を叱咤激励した手紙(複製)・・・大政奉還について、将軍・徳川慶喜が各藩重役を二条城に招集して諮問する会議に参加する土佐藩参政・後藤象二郎に対して、「死を覚悟で臨んでほしい」と叱咤激励した手紙(慶応3年〈1867〉10月13日)。

 この他にも、以下のような興味深い展示があります。

  • 龍馬が生涯大事にしていたお守り(複製)・・・龍馬19歳の時、剣術修行の名目で江戸に旅立った時に、父・八平が龍馬に渡した3か条の心得書。龍馬はこの心得書を紙に包み、「守」と上書きして常に懐に入れて持ち歩いたといいます。3か条とは、「無駄遣いするな」、「修行に励め」、「女におぼれて国家の大事を忘れるな」というものでした。
  • 坂本家の土地台帳・・・これによると、坂本家の領地は合計で161石余りあり、郷士の中でも裕福な方であったことがわかります。
  • 龍馬が着用していた紋服(複製)・・・京都国立博物館に所蔵されているものの複製ですが、この紋服寸法により龍馬の実際の身長が類推できます。それによると、大体5尺8寸(176㎝)ぐらいで、当時としては背の高い方だったことがわかります。
  • 龍馬肖像写真原版(ガラス湿版:複製)・・・ブーツに着物姿で右手を懐に隠して立つ、あの有名な龍馬の肖像写真の原版です。この写真は、長崎の上野彦馬スタジオで撮影されたものでした。
  • 龍馬のピストル(同型の実物)・・・龍馬が高杉晋作からもらい携行していたピストルと同型の実物。スミス&ウェッソンⅡ型 32口径6連発式。龍馬が持っていたピストルは、寺田屋襲撃事件の際に紛失し現存していません。

 常設展示室の隣には、ジョン万次郎展示室が併設されています。土佐の漁師だった中浜万次郎は、ある日嵐にあい漂流してしまいます。しかし、アメリカの捕鯨船に奇跡的に助けられ、そのままアメリカに渡って10年余りを過ごしました。進んだ西洋の学問や航海術をはじめ、アメリカの制度や風習を学んだ中浜万次郎は、漂流から11年後にジョン万次郎として日本に帰国します。彼がアメリカで学んだ知識や経験は、鎖国の中で“井の中の蛙”状態だった多くの人々に新鮮な驚きを与え、日本の近代化と国際化に大きく貢献したといわれます。龍馬もその中の一人でした。展示室には、帰国したジョン万次郎を自宅に住まわせ、万次郎の航海の体験や海外事情を聞きとった土佐の思想家(日本画家でもあります)・河田小龍(かわだしょうりょう)が書き上げた「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」などが展示されています。

 新館2階には、企画展示室があり、龍馬に関する様々な企画展示が行われています。筆者が訪ねた2019年9月には、「竜馬をめぐる女たち」が開催されていました。姉の乙女、妻のお龍、寺田屋の女将・登勢、龍馬の初恋の相手とされる親友の妹・平井加尾に関する手紙や史料が数多く展示されていました。ただし、こちらは写真撮影禁止でした。

 新館2階から渡り廊下を渡って本館2階に移動することができます。このフロアには、龍馬脱藩から暗殺までの歩みをたどる展示があります。特に目を引くのは、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された現場である、京都・近江屋・母屋2階の部屋の復元です。部屋の中に入ることができ、当時の状況をしのぶことができます。ここからエレベータで地下2階に降りると、“幕末写真館”ニコーナーがあります。幕末の混乱期を生き抜いた多くの偉人たちの写真がパネルに張り付けられて展示されています。幕末歴史ファンにとっては必見の空間となっています。



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