ー甲斐健の旅日記ー

坂本龍馬の故郷・高知を訪ねる

 坂本龍馬といえば、同郷(土佐)の盟友・中岡慎太郎とともに薩長同盟成立に尽力し、さらに土佐藩の参政だった後藤象二郎を動かして大政奉還の実現に多大な貢献をした幕末の英雄の一人です。徳川幕府の滅亡と明治維新の実現は、坂本龍馬と中岡慎太郎の存在なくしては達成しえなかったといっても決して言い過ぎではないでしょう。、ここでは、坂本龍馬の故郷・高知市を訪れ、龍馬ゆかりの地を訪ね歩くことにします。

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 高知市街地にある龍馬ゆかりの地を紹介します。桂浜周辺については、〈桂浜/若き日の坂本龍馬の異国への夢を育んだ大海原〉の記事をご覧ください。

高知駅南口広場の龍馬像(三志士像)

 高知駅南口広場には、土佐勤王党の創始者・武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎の三志士が並んだ巨大な像があります。平成23年(2011)、土佐勤王党結成150年を記念して作製されました。像の高さは5.3m(台座含まず、桂浜の龍馬像と同じ高さ)ですが、重さは意外に軽く1体につき約400㎏です。それというのも、この像は内部が発泡スチロール製で、表面に特殊ウレタン加工が施される造りとなっています。そのため、台風などで強風が吹く恐れがあるときは、飛ばされないように撤去して倉庫に保管しているそうです。

坂本龍馬先生誕生地碑

 高知駅南口から市電に乗り二つ目の停車場・はりまや橋で西に向かう電車に乗り換えます。そこから七つ目の停車場・上町一丁目で下車します。市電が走る国道33号線を少し東に戻った南側周辺が、龍馬の実家があった場所となります。龍馬はこの地で生まれ育ち、28歳で脱藩するまでここに住んでいました。現在は、「坂本龍馬先生誕生地」の石碑が建っています(上町病院の西隣)。明治期には、田中光顕(みつあき:中岡慎太郎が結成した陸援隊の元幹部)が書き記した木柱が立っていただけでしたが、昭和43年(1968)「明治百年記念行事」の一環で、吉田茂元首相が揮毫(きごう:筆で書いた書)した石碑に置き換えられました。さらに、平成14年(2002)には説明板とモニュメントがつくられました。龍馬誕生日(命日でもあります)の11月15日には、この周辺の町内会主催で盛大な誕生祭が行われるそうです。

龍馬の生まれたまち記念館

 市電が走る国道の上町一丁目の交差点を南下し、最初の十字路を右(西)に曲がると左手に「龍馬の生まれたまち記念館」があります。この記念館は比較的新しく、平成16年(2004)にオープンしました。龍馬が生きていた当時の町の様子や、龍馬誕生から脱藩までの時代を紹介する展示がなされています。以下に主な展示内容を列記します。

  • 龍馬・乙女像と近藤長次郎像(中庭)・・・入り口を入ってすぐの中庭に、龍馬と姉の乙女の像および近藤長次郎の像が置かれています。小さいときに母を亡くした龍馬にとって、3歳年上の姉・乙女(お留)は最も頼れる肉親でした。実際龍馬が書き残した多くの手紙の中で、最も数が多いのが乙女に宛てたものでした。乙女はとても体格がよく(一説では身長175㎝、体重115㎏とか・・・)、「坂本家の仁王様」と呼ばれていたといいます。近藤長次郎は、高知城下の饅頭屋の長男として生まれましたが、幼少時より秀才の誉れ高く学問を好みました。その後江戸に遊学し、龍馬と同様に勝海舟の門下生となりました。勝海舟が神戸に設立した海軍操練所に龍馬とともに参加し、操練所閉鎖後は龍馬と共に日本最初の商社である亀山社中を設立しています。長次郎は、龍馬の右腕として最も頼れる友人でした。しかし、ひそかに英国留学を企てていることが亀山社中の仲間にばれてしまい、 「抜け駆け」は盟約違反だとして切腹させられ非業の死を遂げてしまいます。享年29歳でした。
  • 才谷屋ジオラマ・・・才谷屋(さいたにや)は、江戸中期から幕末にかけて高知城下でも屈指の豪商で、質屋をはじめ酒屋・呉服屋等手広く商売を営んでいました。坂本家はこの才谷屋の分家です。才谷屋6代目の長男・直海が郷士株を取得して分家したのが坂本家です。龍馬はこの直海の曽孫にあたります。
  • 龍馬直筆の手紙・・・薩長同盟がなった年(慶応2年<1866>)の秋、土佐の先輩・溝渕広之丞にあてた手紙。脱藩の身なれど、故郷・土佐への思いは強いものがあることを、溝渕広之丞にだけは理解してほしいと訴えかけた手紙です(慶応2年〈1866〉11月16日)。
  • 坂本家離れ再現・・・坂本家の離れを再現した空間。座敷に上がって龍馬の若かりし頃をしのぶのもいいかも・・・。
  • 河田小龍掛け軸・・・河田小龍(かわだしょうりょう)は土佐の思想家。龍馬若かりし頃、世界に目を向けることを教えた恩師の一人。小龍は、日本画家でもありました。
  • 武市半平太掛け軸・・・土佐勤王党を結成して、土佐藩の藩論を尊王攘夷に導くために奔走した武市半平太は、龍馬の良い兄貴分でもありました。しかし、要人暗殺などの過激な活動が山内容堂公の逆鱗に触れ、慶応元年(1865)閏5月、切腹を命じられてしまいます。半平太の切腹の様は壮絶なもので、腹を3度突き刺し十文字に掻っ捌いて果てたといいます。享年37歳でした。この掛け軸は、世話になった牢番の門谷貫助の依頼で書いたものといわれます。その内容とは、──京都で仲間と共に、ついに政敵を倒して意気揚々としている夢を見た。汗びっしょりで目を覚まし、恨みは限りない。ただ牢内で朝早くから鳴く鶏の声を聞いている。夢から覚めて絶句一首を作った──。

河田小龍塾跡

 市電が走る国道の上町二丁目交差点を200mほど南下すると、月の瀬橋の手前右手(西側)に水天宮(すいてんぐう:水難除け、安産祈願)があります。この辺りに、河田小龍(かわだしょうりょう)の塾があったといわれます。河田小龍は、幕末から明治にかけて生きた土佐の思想家であり日本画家です。漂流してアメリカの捕鯨船に助けられ、10年間アメリカで生活して帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)の取り調べを担当しました。万次郎を自宅に住まわせてアメリカの生活事情や進んだ社会の仕組みなどを聞き出し、驚嘆したといいます。小龍は、万次郎から得た情報を『漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)』という書にまとめて、山内容堂公に献上しました。龍馬の姉・乙女の夫・岡上樹庵(おかのうえじゅあん)と小龍が親交があったこともあり、龍馬も小龍の教えを受けました。「大船をもって海洋に乗り出し、貿易によって異国に追いつくことが日本の取るべき道だ」という小龍の教えが、若き龍馬の心に響き、その後の龍馬の生きざまに大きな影響を与えたことは想像に難くありません。

近藤長次郎邸跡

 市電の走る国道の上町二丁目交差点を80mほど南下した左手(東側)の歩道沿いに近藤長次郎邸跡の石碑があります。



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