ー甲斐健の旅日記ー

幕末の英雄・中岡慎太郎の故郷を訪ね歩く

 高知県安芸郡北川村──激動の幕末、坂本龍馬と共に薩長同盟を成立させ、明治維新への道を切り開いた幕末の英雄・中岡慎太郎(なかおか しんたろう)の生まれ故郷です。高知県南東の山間部に位置した風光明媚な地で、「ゆずの里」としても有名です(ゆずの栽培は、中岡慎太郎が庄屋見習いの時代に始めたといわれます)。

 中岡慎太郎は、天保9年(1838)4月13日、土佐国安芸郡北川郷柏木村に北川郷の大庄屋の長男として生まれました。幼いころから秀才の誉れ高く、学問にも剣術修行にも励んでいました。文久元年(1861)に、剣術の師であった武市半平太が結成した土佐勤王党に坂本龍馬らと共に参加し、尊王攘夷の志士活動に目覚めていきます。文久3年(1863)、八月十八日の政変で京都から長州藩やこれを支持する公卿が追放される事件が起きると、土佐藩でも尊王攘夷派への弾圧が始まりました。藩内での活動に限界を感じた慎太郎は、同年9月脱藩して長州藩に向かい、久坂玄端や桂小五郎らと共に志士としての活動を本格化させていきます。

 海外列強からの圧力に対して、何ら有効な対抗策をうてない徳川幕府に見切りをつけた慎太郎は、倒幕を考えるようになります。そのためには、有力な雄藩である薩摩と長州が手を結ぶしかないと考え、薩長同盟実現のために奔走します。同郷の志士である坂本龍馬と共に周旋活動を続け、慶応2年(1866)1月、ついに薩長同盟が成立しました。その後、薩土盟約(土佐藩を本格的に倒幕運動に取り込むための盟約)成立のために奔走した慎太郎は、土佐藩公認の陸援隊隊長となり、自ら倒幕の戦いに討って出る決意を固めていきます。しかし慶応三年(1867)11月15日、京都河原町の近江屋で盟友坂本龍馬と倒幕論議を重ねていた時、刺客に襲撃され龍馬は即死、慎太郎も2日間死地をさまよったのちに死亡しました。享年30歳でした。なお、中岡慎太郎の生い立ちや功績についての詳細は、「コラム1/薩長同盟を演出したもう一人の主役──中岡慎太郎」を参照してください。

 ここでは、中岡慎太郎のふるさと北川村柏木にある慎太郎ゆかりの施設や遺跡を紹介します。

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 中岡慎太郎のふるさと・北川村柏木へは、ごめん・なはり線の終着駅・奈半利(なはり)駅から北川村営バスに乗って、「柏木」で下車します。所要時間は24分です。以下に、柏木周辺の中岡慎太郎ゆかりの地を紹介します。

中岡慎太郎館

 村営バスの停留所(柏木)のすぐ前に中岡慎太郎館があります。平成5年(1993)に北川村が建設し開館しました。この建設資金は、昭和63年(1988)から平成元年(1989)にかけて実施された「ふるさと創生事業」(全市町村に1億円ずつ配り、“自ら考え自ら行う地域づくり”促進を狙った事業)で交付された1億円でした。このとき北川村では、(1億円の使い道について)住民アンケート調査を行い、生誕150周年を迎えた中岡慎太郎の歴史記念館を建設することが決定しました(総事業費6億円のうち1億円がふるさと創生事業交付金)。館内には、慎太郎の書状などの歴史資料が展示され、映像やパネルなどによって慎太郎の生涯を時代ごとにわかりやすく説明されています(写真撮影は原則禁止)。1Fでは、幼少時代から庄屋見習い時代を経て、土佐藩脱藩、薩長連合工作、倒幕運動、そして近江屋事件までの慎太郎の生涯を、その生きざまに触れながら、各時代ごとに映像やパネルで説明されています。また2Fには、慎太郎や彼と関わりのあった幕末の志士に関する史料が展示されています。特に中岡慎太郎と坂本龍馬が暗殺された近江屋2階の部屋にあったとされる「血痕の屏風」(複製:血痕が53か所飛び散って残っている)が目を引きます。

中岡慎太郎生家

 中岡慎太郎館と道を挟んだ向かい側に、中岡慎太郎像があります。平成11年(1999)に生誕160年を記念して造られました。この像のある場所から石段を下りていくと、かやぶき屋根の中岡慎太郎生家があります。中岡家は北川郷の大庄屋であったため、勘定の間(村の財務をつかさどる場所)や客間などの公の部屋があり、建物としては意外と大きな造りになっています。裏にあるナツメの木の切り株は、慎太郎が子供のころによく登って遊んだ木と伝えられます。中岡慎太郎生家は、慎太郎の死後、何度も転売されていきましたが、明治40年(1907)に台風のため流出してしまいました。現在ある建物は、様々な資料を基にして昭和42年(1967)に復元されたものです。

中岡慎太郎遺髪墓地

 慎太郎館の前の広い道から右(南東方向)に入り、慎太郎館の東側に沿った狭い道を登っていくと松林寺跡にたどり着きます。この寺の境内に中岡家墓所があり、中岡慎太郎遺髪墓地があります。慎太郎の亡骸は、坂本龍馬と共に京都御霊護国神社(きょうとごりょうごこくじんじゃ)に葬られていますので、こちらは慎太郎の遺髪が納められた遺髪墓地となります。この墓所には、慎太郎の両親、妻・兼、義兄北川竹平次の墓もあります。松林寺は禅宗寺院で、慎太郎が子供時代、住職から読み書きを習っていたと伝えられます。松林寺は、度重なる火災のため、今は山門しか残っていません。

中岡慎太郎顕彰碑

 中岡慎太郎館の西の石段を上った高台に、中岡慎太郎顕彰碑があります。中岡慎太郎の功績をたたえるために、慎太郎の命日である昭和2年(1927)11月17日に建立されました。石碑に刻まれた文字(「贈正四位 中岡慎太郎先生碑」)は、高知県安芸市出身で近代書道の大家・川谷尚亭(しょうてい)が揮毫(きごう:毛筆で書くこと)したものです。また撰文は、陸援隊隊士で慎太郎の右腕だった田中光顕の揮毫によるものです。

巻の渕展望所

 中岡慎太郎館からバス道路を奈半利駅方面に400~500mほど下ると、右手に奈半利(なはり)川を見下ろす展望所があります。巻の渕と呼ばれるこの展望所の眺望は素晴らしく、撮影スポットでもあります。この展望所の左手にある断崖は、子供のころの慎太郎の格好の遊び場でした。高さ20mもある断崖の頂上から身を躍らせて飛び込むさまは、大人たちをも驚嘆させ、慎太郎の肝の太さを示す逸話として語り継がれています。



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