ー甲斐健の旅日記ー

薬師寺/白鳳文化に彩られた美しい伽藍の寺院

 薬師寺(やくしじ)は天武天皇が西暦680年に発願(ほつがん)し、持統天皇が697年に本尊開眼(ほんぞんかいがん)し、文武天皇が飛鳥の地に完成させた寺院です。その後、和銅3年(710)の平城京遷都により、現在地(奈良市西ノ京町)に移されました。奈良興福寺と共に、南都六宗の法相宗(ほっそうしゅう)の大本山です。

 法相宗の教義は、唯識(ゆいしき)論と呼ばれ、私たちの認めている世界はすべて自分がつくりだしたものであるということで、十人の人間がいれば、十の世界がある(人人唯識:にんいんゆいしき)という教えです。とすれば、救いを求めるにも、悟りをひらくにも、全て個人の責任であり、その能力によるしかないということでしょうか。実際、法相宗の僧徳一(とくいつ)は、五姓格別(ごしょうかくべつ)といって、人間の悟りに至る能力には五段階あって、だれでも悟れるわけではないと主張しています(三乗主義)。日本の天台宗を開いた最澄の一乗主義(いちじょうしゅぎ:仏も衆生も皆一様に仏姓を具えて同じ乗り物に乗っているから、等しく悟りを得て成仏することが出来る)とは正反対の考え方で、なかなか厳しい教えです。最澄と徳一は、この考え方の違いをめぐって、最澄が亡くなるまで論争を続けたといいます(三一論争)。

 さて、薬師寺の伽藍(がらん)は、金堂(こんどう)を中心に東西両塔や講堂が並び、多くの建物には裳階(もこし)が施され、そのたたずまいは「龍宮造」と呼ばれていました。しかし、幾多の災害を経験し、享禄元年(1528)の戦火では、東塔を残して焼亡してしまいました。東塔以外の現在ある建物は、昭和42年以降に再建されたものです。

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 近鉄橿原‘かしはら)線の西ノ京駅を降り、目の前の参道を東に進むと薬師寺與楽門(よらくもん)があります。しかし、発掘調査中(2014年5月現在)ということでこの門は入れませんでした。ここから少し東に行ったところに、受付と境内への入り口があります。この入口から南側が、白鳳伽藍です。南から、南門、中門、東塔、西塔、金堂、大講堂がゆったりとした空間に整然と配置されています。

 金堂は、享禄元年(1528)の戦火で焼亡した後、江戸後期に建てられた仮堂のままになっていましたが、昭和になって再建計画がたてられ、昭和51年に再建されました。二層の入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)で、各層に裳階(もこし)が施されています。堂内には、薬師寺本尊の薬師三尊像(白鳳時代作)が祀られています。薬師如来は、東方の瑠璃光浄土(るりこうじょうど)に住むとされる仏で、病気平癒の信仰があります。薬師寺は、もともと、天武天皇が持統天皇の病気平癒を願って発願された寺院といわれています。

 大講堂も江戸後期に建てられた仮堂でしたが、平成15年に再建されました。正面幅41m、奥行き20m、髙さ17mと、伽藍最大の建物です。単層の入母屋造、本瓦葺で、やはり裳階が施されています。大講堂が本堂である金堂より大きいのは、南都仏教(奈良時代平城京を中心に栄えた仏教)の特徴で、教学を重んじ、多くの学僧を講堂に迎えるためだったといわれます。内部には、弥勒(みろく)三尊像(白鳳~天平時代)が安置されています。法相宗の教義である唯識教義を説かれたのが弥勒仏だということで、大講堂の本尊として祀られています。また奥には、仏足石(ぶっそくせき)が安置されています。この仏足石は、天平時代(753年)に造られたもので、日本最古といわれます。その両脇には、釈迦十大弟子の像が祀られています。十人十色で、表情豊かな像です。

 東塔は、唯一創建当時の姿を残す建物で、1300年の歴史を経ています。しかし、平成21年より解体修理が行われており、平成31年に修理が完成するまではその姿を見ることはできません。西塔と同じ三重塔で各階に裳階が施され、内部には釈迦苦行像や四天王像などが安置されているそうです。西塔は昭和51年に再建されました。三重塔ですが各階に裳階が施され、一見すると六重塔と見間違えるほどです。連子窓(れんじまど)の青色(実際は緑?)と扉や柱の丹色(にいろ)のコントラストがよく映え、「あお(青)に(丹)よし」が奈良の枕詞(まくらことば)であることに納得させられます。

 金堂、大講堂、東塔、西塔を囲む回廊の外側南東に位置する東院堂は、養老年間(717~724)に、元明天皇の冥福を祈るために建立されたといわれます。その後火災で焼失し、弘安8年(1285)に再建されました。鎌倉時代後期の和洋仏堂の典型的な建物で、単層の入母屋造、本瓦葺です。堂内には、本尊の聖観音菩薩像が安置されています。

 白鳳伽藍と道を挟んだ北側が、玄奘三蔵院(げんじょう さんぞういん)伽藍です。玄奘三蔵(600または602~664年)は、「西遊記」で有名な中国唐時代の歴史上の僧侶です。西暦629年、27歳の時、国禁を犯してインド目指して密出国します。玄奘の旅は、草木一本もなく水もない灼熱のなか、砂嵐が吹き付けるタクラマカン砂漠を歩き、また、雪と氷に閉ざされた厳寒の天山山脈を越え、時には盗賊にも襲われるという過酷な旅でした。やっとの思いでインドについた玄奘は、唯識教学を学び、インド各地の仏跡を訪ね歩きました。そして、17年にわたるインドでの勉学を終え、帰国後は持ち帰った経典の翻訳に専念し、その数1,335巻に及んだといわれます。その中には、現在日本で最も読誦(どくじゅ)される「般若心経(はんにゃしんぎょう)」のもととなった「大般若経(だいはんにゃきょう)」も含まれます。しかし、玄奘三蔵の最も究めたかったのは、「唯識」の教えでした。これは、一番弟子の慈恩大師が受け継ぎ研究を重ねた末に、その奥義をきわめたといいます。その教えを継承しているのが法相宗ということになります

 玄奘三蔵院伽藍は、平成3年に玄奘三蔵のお骨を安置するために建立されました。このお骨は、昭和17年(1942)に南京に駐屯していた日本軍が土中から玄奘三蔵の頂骨(ちょうこつ:頭蓋骨の一部)を発見し、全日本仏教界に分骨したものだそうです。薬師寺も、玄奘三蔵との深い縁から、この頂骨を分骨してもらい、この伽藍に納めたとのことです。また、伽藍の中心にある玄奘塔には、玄奘三蔵像が祀られています。さらに、塔の北側にある大唐西域壁画殿には、平山郁夫画伯作の、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」が祀られています。

 多くの建物は昭和になってから再建されたものですが、白鳳文化の香りが満ちていて、タイムスリップしてしまったような感覚になりました。



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