ー甲斐健の旅日記ー

柳之御所遺跡/奥州藤原氏の居館があった政治の中心地

 柳之御所遺跡は、奥州藤原氏の初代清衡が、前九年・後三年の戦いを経て北方の支配者としての地位を確立した後、江刺郡豊田から居館(宿所と政庁を兼ねた建物)を移し、「平泉館(ひらいずみのたち)」を構えた場所です(康和年間:1099~1104年)。中尊寺の南東の北上川西岸に位置し(JR平泉駅の北約500m)、その面積は約10haあります。この柳之御所は、北西方向の山上にある金色堂を望むように造営されたといわれます。鎌倉幕府公認の歴史書『吾妻鏡』によれば、この地にあった居館は「平泉館と称した」とありますが、この地の字は柳之御所だったので、現在は柳之御所と呼ばれています。

 何度か行われた発掘調査により、二代基衡、三代秀衡の居館もこの地にあったとされています。大型の四面庇(ひさし)建物跡や、庭、広場、高床式倉庫、工房などの跡が見つかっています。また、大量の遺物も見つかっています。儀式や宴会で使用された使い捨て食器である「かわらけ」や、当時では最新の国産陶磁器であった渥美・常滑(とこなめ)窯製品(甕、壺、鉢)、中国製の白磁四耳壺(しじこ)などです。また、周囲には空堀が掘られており、清衡時代のものは幅6~7m、深さ約2mほどでしたが、秀衡時代にはこの空堀は埋められ、新たに幅12~14m、深さ約3.5mの大規模な堀が掘られています。秀衡時代に、何故大規模な堀に作りなおしたのかは興味深い謎です。この工事が行われた時期は、秀衡が鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん:軍政府である鎮守府の長官)に就任した時期と重なるようです。

 栄華を極めた奥州藤原氏を象徴するかのような柳之御所(平泉館)でしたが、文治5年(1189年)、源頼朝が奥州討伐のため28万余りの軍勢を率いて攻め入った時、四代泰衡が「もはやこれまで」と御所に火を放ち逃亡したため、柳之御所は灰燼に帰してしまいました。

 遺跡の南に、柳之御所資料館があります。平成11年(1999)11月に、国道4号バイパスの部分開通に合わせてオープンしました。当初このバイパスは、遺跡の真上を通る計画でしたが、住民の遺跡保存運動や関係者の努力により、バイパスのルートが変更されたという経緯があるそうです。資料館には、柳之御所遺跡から出土した数多くの陶器、土器などの貴重な遺物が展示されています。



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