ー甲斐健の旅日記ー

前九年・後三年の戦いについて

 11世紀前半、清衡が生まれる直前の奥州には、多賀城(宮城県多賀城市)に国府(政務をとる役所)や鎮守府(ちんじゅふ:軍政を司る役所)が置かれ、中央(京)から陸奥守が派遣されるなど、形式的には中央の管轄下に置かれていました。しかし、実質的には、地方の有力豪族がこの地を支配していたといわれます。その中でも有力だったのが安倍氏と清原氏です。安倍氏は、奥六郡(岩手県中南部)を、清原氏は仙北三郡(秋田県横手盆地)を、それぞれ支配していました。永正6年(1051)陸奥守藤原登任(なりとう)は、安倍氏が朝廷への貢租(こうそ:年貢)を滞らせたとして、数千の兵を繰り出し安倍氏を攻めました。これが前九年の戦いの始まりです。この戦いは、鬼切部(おにきりべ:宮城県大崎市鳴子温泉鬼首)の戦いで圧勝した安倍軍が優勢となり、登任は陸奥守を解任され京へ戻されました。

 この情勢を打開しようと朝廷は、源氏の棟梁であった源頼義を陸奥守として奥州に派遣します。ところが、後冷泉天皇の祖母である上東門院(藤原彰子)の病気平癒を願った大赦があったり、安倍氏の頭領安倍頼良(後に源頼義と同音で恐れ多いとして頼時に改名)の恭順策のため、表面上は平穏な状況が4年余り続きました。源頼義としては、このチャンスに安倍氏を叩きつぶし、奥州に源氏の勢力を伸ばしたいと考えていましたが、なかなかそのチャンスをつかめずにいました。ところが、陸奥守の任期がきれそうになった天喜4年(1056)2月、事件が起こります(阿久利川事件:あくりがわじけん)。頼義の配下の藤原光貞と元貞が阿久利川の河畔に野営していたとき、夜討ちに遭って多くの人馬が殺されたと頼義に報告したのです。しかもその下手人が、安倍頼時の嫡男貞任(さだとう)だというのです。これに激怒した頼義は、貞任に多賀城(国府)への出頭を命じますが、多賀城に行けば貞任は殺されると踏んだ安倍頼時はこれに応じません。ついに奥州の地に、再び戦火が巻き起こりました。なお、この事件は、奥州を源氏の勢力下に置きたいと願っていた頼義の謀略だという説が有力です。

 この頃、清衡の父藤原経清は源頼義の配下にありました。経清は、天慶2年(939)に起きた平将門の乱平定に貢献した藤原秀郷(ひでさと)の末裔とされ、中央の藤原北家につながる血筋といわれます。しかし、この時すでに安倍頼時の娘を妻としていて、微妙な立場でもありました(長男清衡が生まれたのは、阿久利川事件が起きた年です)。しかも、同じく安倍の娘婿だった平永衡(ながひら)が、安倍軍のスパイであるという疑いをかけられ粛清されたのを見て、経清は頼義を見限り安倍方に寝返ります。この経清の安倍軍への参戦が、戦いの行方を大きく左右したといわれます。

 天喜5年(1057)5月、頼義は局面打開のための一手を打ちます。安倍頼時の従兄弟で、下北から八戸地方を治めていた安倍富忠らを調略し、味方にすることに成功しました。この富忠の裏切りを思いとどまらせようと、頼時はわずかな手勢で説得に赴きます。しかし、富忠の配下に矢を放たれ、深手を負って命を落としてしまいました。安倍氏の家督を継いだのは、嫡男の貞任でした。

 「頼時死す」の報を受けた頼義は、この機会を逃すまいと強引な作戦に転じました。同年11月、多賀城を出発して、貞任軍との決戦にのぞみました。頼義軍2,500、迎え撃つ貞任軍4,000と伝えられています。両軍は黄海(きのみ:岩手県一関市藤沢町黄海)で激突しました。しかし、充分な補給路を確保せず、しかも少人数で強引に攻め込んだ頼義軍は大敗を喫し、ほうほうの体で多賀城に逃げ帰ったといいます。この戦いで、頼義軍は、有力な武将を多く失ってしまいました。

 黄海の戦いで大きな痛手を負った頼義を尻目に、安倍氏は奥六郡の外、衣川の南に勢力を伸ばしていきました。朝廷の徴税符だった赤札を無視して、新たに白符(はくふ)を発行し徴税権を朝廷から奪い取るほどの勢いでした。対する頼義は、国府軍のみに頼るのではなく、関東、東海、畿内などから武士を集め、兵力の増強を図りながら再起の機会をうかがっていました。そして、なかなか情勢が好転しないことに業を煮やして、中央政府が送り込んだ新陸奥守(高階経重:たかしなつねしげ)も追い返し、陸奥守の地位に居座り続けました。

 やがて、頼義にとって、千載一遇のチャンスが巡ってきました。浩平5年(1062)、それまで中立を守ってきた仙北三郡の支配者清原氏が、頼義に味方して参戦することを決断したのです。安倍氏の力があまりにも大きくなることに、危機感を覚えた結果ともいわれます。いずれにせよ、頼義・清原連合軍は兵力1万にふくれあがり(頼義軍は3,000)、安倍軍を圧倒しました。そして同年9月、厨川(くりやがわ)の柵(岩手県盛岡市)が陥落し、安倍軍は敗退したのです。安倍の頭領貞任は戦死して安倍氏は滅亡しました(貞任の弟宗任は生き延び、伊予国に流罪となったといいます)。また、清衡の父経清は、頼義によって、刃こぼれさせた刀による鋸引きという残忍な刑で処刑されました。ここに、足かけ12年にわたった前九年の戦いは終結しました。しかし朝廷は、頼義の功は認めず(勝手に戦を起こしたとして)陸奥守を解任して伊予守を命じます。結局一番得をしたのは清原氏で、新しい頭領の武則が鎮守府将軍となり、奥六郡もその支配下に置くことになりました。さらに、経清の妻は武則の息子武貞に再嫁し、幼い清衡も清原家に引き取られることになりました。

 前九年の戦いが終結して約20年間、奥州は比較的平穏でした。この間、奥州の覇者清原氏は武則からその息子武貞、さらにその嫡子の真衡(さねひら)と代替わりしていました。また武貞と清衡の母との間に男子が生まれ、清衡には家衡(いえひら)という弟が出来ました。ここで、清原家にお家騒動が持ち上がります。嫡男が出来なかった真衡が、常陸平氏の流れを汲む成衡(なりひら)を養子に迎え、さらに、源頼義の落しだねとされる平宗基の娘と結婚させると言い出したのです(永保3年:1083年)。清原家に、常陸平氏と河内源氏の血が一気に入ることとなります。これに猛反発したのが、清原氏と安倍氏の血を引く家衡であり、それを後押ししていた真衡の叔父の吉彦秀武(きみこのひでたけ)でした。成衡の婚姻の直前、真衡と秀武は衝突し、秀武は領地の出羽に引き上げてしまいます。これを見た真衡は、秀武討伐のために出撃の準備を始めました。このような一即触発の状況の中で、陸奥守に任命され奥州に赴任してきたのが、源頼義の子源義家でした。

 同年真衡は、義家の陸奥守就任を歓待した後、出羽の吉彦秀武を討つべく出撃しました。これが、後三年の戦いの始まりです。陸奥守の義家も真衡を支援します。これに対して家衡と清衡は、秀武と組んで真衡の留守を襲い、成衡を人質に取りました。しかしここで、予想外の結末が待っていました。遠征中の真衡が病のため亡くなってしまったのです。この件に関しては、陸奥守の命を聞かずに勝手な振る舞いをする真衡を、義家が裏で手をまわして殺害したとする説があります。真偽のほどは定かではありません。いずれにしても、紛争はいったんおさまりました。事態の収拾に乗り出した義家は、真衡の所領だった奥六郡を二つに分けて、清衡と家衡にそれぞれ任せることにしました。清衡には胆沢・江刺・和賀の三郡を、家衡には稗貫(ひえぬき)・柴波・岩手の三郡を与えたといいます。しかし、清衡に与えられた南の三郡の方が豊かな地であり、また年貢のとりまとめも清衡に任されたこともあり、この裁定に家衡の不満が高まっていったとされ、新たな紛争の火種となったといいます。

 応徳3年(1085)、ついに家衡は決起し、清衡の留守を狙って清衡の館を襲撃し、その妻子を殺害しました。何とか逃げ延びた清衡は、陸奥守義家の支援を受けて反撃に転じました。しかし、沼柵(ぬまのさく:秋田県横手市雄物川町)にこもった家衡軍に撃退されてしまいます。勝利した家衡軍は、難攻不落といわれた金沢柵(かねざわさく:秋田県横手市金沢中野)に入り、防御を固めました。攻め落とすことは困難と見た清衡・義家軍は、兵糧攻めに転じます。結局この作戦が功を奏して、家衡軍は崩壊し、敗走した家衡も捕えられ、討ち取られました。清原家の内紛から始まった後三年の戦いは、ここに終結しました。

 ところが、朝廷はまたしても源氏(義家)の功は認めませんでした。清原家の内紛に手を貸した行為は、公の行為ではなく私的なものである(私戦)として、戦費の支払いもしてくれませんでした。陸奥守の任を解かれた義家は、自腹を切って協力してくれた武士たちに恩賞を与えたといいます。しかし、この事が逆に源氏の名声を高め、源八幡太郎義家の評価をたかめたともいわれます。その結果、義家から四代後の頼朝が鎌倉幕府を創設し奥州藤原氏を滅ぼすことになったことは、何とも皮肉な結果だったといえます。

 後三年の戦いで一番得をしたのは清衡でした。戦後、清衡は清原氏の所領をすべて受け継ぐこととなりました。そして清衡は、父経清の姓を名乗り藤原清衡と名を改めました。奥州藤原氏約100年の栄華の歴史がここに幕を開けることになったのです。



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