ー甲斐健の旅日記ー

甘樫丘/蘇我蝦夷・入鹿が飛鳥防衛のために要塞を築いた丘

 甘樫丘(あまかしのおか)は、奈良県明日香村豊浦にある丘陵です。乙巳の変(いっしのへん:645年)の直前、蘇我蝦夷(えみし)とその子・入鹿(いるか)が邸宅を構え武装化し、敵対勢力に対する防衛のために要塞化したとされる、古代歴史のゆかりの地です。 

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 甘樫丘へは、近鉄の橿原神宮駅から「赤カメバス」に乗って「甘樫丘」で下車するのが便利です(一日乗車券<650円:2016年11月現在>があります)。バス停から飛鳥川沿いに西へ少し歩いた左手に、駐車場がありその奥に休憩所があります。ここから展望台まで続く遊歩道を上っていきます。

 甘樫丘は標高148mあり、東西数百m、南北1㎞に広がる丘陵です。展望台は、北東に甘樫丘展望台、南に川原展望台の二か所があります。甘樫丘展望台から東を望むと、飛鳥寺や森に囲まれた飛鳥坐神社のある飛鳥の街並みが望めます。天気が良ければ、北方に耳成山(みみなしやま:大和三山の一つ)と天香具山(あめのかぐやま:大和三山の一つ)、西方には畝傍山(うねびやま:大和三山の一つ)、さらにその後方に二上山(にっじょうざん)を望むことができます。また、散策路には万葉集などで歌われた植物が植えられており、「万葉の植物園路」として親しまれているそうです。

 皇極3年(644)、蘇我蝦夷とその子・入鹿は甘樫丘に邸宅を並べて建て、「上の宮門(みかど)」「下の(谷の)宮門」と称したといいます。さらに、館には城柵が設けられ、門のわきには武器庫が建てられました。そして、武器を持った屈強な兵たちに守らせていたといいます。『日本書紀』によれば、これは天皇家に対する軍事的圧力であり、天皇家の乗っ取りを図る蘇我本宗家の野望を証明するものだ・・・ということになります。このことが、翌年の乙巳の変で入鹿が暗殺される要因の一つとなるわけです。しかし、蘇我本宗家は本当に天皇家の乗っ取りを図ったのでしょうか。その件については、コラム1「飛鳥の地に繁栄を築いた蘇我氏の人々は、本当に「悪い奴ら」だったのか?」を参照してください。



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