ー甲斐健の旅日記ー

蘇我氏/飛鳥の地に繁栄を築いた蘇我本宗家の人々は、本当に「悪い奴ら」だったのか?

 6世紀から7世紀にかけて、飛鳥の地に本拠地を置いて、ヤマト政権のトップに君臨したのが蘇我氏でした。蘇我稲目(いなめ)から馬子、蝦夷(えみし)入鹿(いるか)まで4代にわたって大臣(おおまえつきみ:朝廷で最高位の官職)を務めていました。そして、自分の娘を天皇の后とし、生まれた子を即位させることにより、天皇家の外戚(がいせき)の地位を得て、その権力を強固なものにしていきました。特に稲目の娘の堅塩姫(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)は、共に欽明天皇(在位539~571年)の妃となり、堅塩姫からは用明天皇(在位585~587年:聖徳太子の父)や推古天皇(在位593~628年:女帝)が、小姉君からは、崇峻天皇(すしゅんてんのう:在位587~592年)が生まれています。まさに我が世の春を謳歌していたとみられます。しかし、正史とされる『日本書紀』によれば、蝦夷の代(皇極天皇の治世)になると蘇我氏の横暴ぶりが目立ち始め、ついには、その子・入鹿が聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおうえのおう)一族を滅ぼしてしまいます。この事件が、天皇家をないがしろにして、自らそれにとって代わろうとするものだとして、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:のちの天智天皇)や中臣鎌足(藤原氏の祖)らがひそかに蘇我本宗家滅亡を企てました。そして西暦645年、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや:皇極天皇の宮殿)における三韓の義の席で、蘇我入鹿は暗殺されました。この報を聞いた蝦夷も自決し、ここに100年にわたって権力の座をほしいままにしていた蘇我本宗家は滅びたのです。『日本書紀』によれば、改革に対する「抵抗勢力」だった蘇我本宗家を滅ぼした後、中大兄皇子を中心にして「大化改新」が進められていったといいます。すなわち、改革に反対し天皇家の乗っ取りを図った極悪人集団の蘇我本宗家を滅ぼした「英雄」中大兄皇子とその協力者・中臣鎌足こそが、古代日本社会の礎を築いた創始者だったというわけです。

 さて・・・・・、本当にそうだったのでしょうか。『日本書紀』の書いてあることを、全面的に信じてもよいものでしょうか。もしこれが冤罪だったとすれば、われわれ日本人は1,300年もの間、罪もない人々を重罪人として扱ってきたことになります。もし蘇我本宗家が『日本書紀』のいうような極悪人集団ではなく、逆に、蘇我氏のほうが古代日本の真の改革者だったとすれば、とんでもない間違いを犯していることになります。以下では、蘇我本宗家の出自から滅亡までを振り返り、真実の姿を明らかにしていきたいと思います。

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 蘇我氏の出自については、いくつかの説があります。神功皇后の三韓征伐などで活躍した伝説の忠臣・武内宿禰(たけのうちのすくね:『日本書紀』)が祖であるという説――5世紀ごろ、仁徳天皇、履中(りちゅう)天皇、雄略天皇の皇后や皇妃を一族から出し、天皇家の外戚として権勢をふるっていた葛城一族がその前身であるとする説――仁徳天皇の治世に、百済から渡来した人々を祖とする説などがあります。いずれにせよ、蘇我氏は、南朝鮮からの渡来人が多く住んでいた大和の飛鳥地方と河内の石川地方に進出し、文字を読み書きする技術、鉄の生産技術、大規模灌漑水路工事技術、須恵器、馬の飼育技術などの新しい文化や技術を持った渡来人を活用して、大和王権の実務を執り行い、政治の主導権を握っていきました。

 蘇我氏が歴史の舞台に華々しく登場するのは稲目(いなめ)の代です。欽明天皇(きんめいてんのう:在位539~71年)の治世で稲目は大臣(おおまえつきみ)となります。この職位は、有力豪族の代表である大夫(まえつきみ)との合議を主宰し、王権を代表する外交の責任者でもありました。

 稲目は、5世紀ごろに葛城氏が採っていた戦略同様、天皇家(大王家)の外戚となることを目指しました。天皇家に自分の娘を嫁がせ、そこで生まれた子を新たな天皇に即位させることにより、強固な権力基盤を手に入れようとしたのです。実際に娘の堅塩姫(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を欽明天皇の后としました。堅塩姫は用明天皇はじめ7人の王子と推古天皇を産み、小姉君は崇峻(すしゅん)天皇はじめ4人の皇子と一人の王女を産みました。天皇家の外戚となることにより、蘇我氏の権力基盤は万全なものになったといえます。

 ヤマト王朝が力を入れた政策の一つに、屯倉(みやけ)の拡大がありました。屯倉とは、中央政府の直轄領のことで、中央から田令(たつかい)が送り込まれ、周辺農民を強制的に働かせることにより経営する土地でした。蘇我氏は、この屯倉の拡大に大きく貢献し、天皇家の信頼を得ていったといいます。地方の豪族からの寄進を促したり、不始末を起こした豪族から土地を取り上げるなどして、屯倉を拡大することに奔走しました。この政策が、のちの土地国有化による中央集権国家体制(律令国家)の構築につながっていったといいます。

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 蘇我氏の全盛時代は、稲目の子・馬子の時代でした。西暦572年、欽明天皇の跡を継いで敏達(びだつ)天皇(在位572~585年)が即位しますが、馬子も父の跡を継いで大臣となります。敏達天皇には蘇我の血は入っていませんが、即位の4年後に妃の広姫が亡くなった後、堅塩姫(稲目の娘)の子の豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ:のちの推古天皇)が皇后に迎えられました。天皇の周りを蘇我系でがっちり固めていった感じです。ここで馬子は、長年物部氏と論争を続けてきた「崇仏論争(すうぶつろんそう)」に決着をつけます。百済から伝わった新しい教えである仏教の信仰を国の基本とする蘇我氏に対して、物部氏は、日本古来の神々を信奉し「邪教(仏教)」を祀るべきではないと反論していました。用明2年(587)、ついに両者は激突します(丁未の乱:ていびのらん)。しかし、蘇我馬子には、厩戸皇子(うまやどおうじ:聖徳太子、用明天皇の子)、泊瀬部皇子(はつせべのみこ:のちの崇峻天皇)らも味方に加わり、物部氏を打ち破りました。この戦いののち、泊瀬部皇子が即位しました。用明天皇から崇峻天皇と二代続けて馬子の甥が天皇となったのです。

 しかし、崇峻天皇の治世は長くは続きませんでした。大臣である馬子とそりが合わなかったのが要因とされます。その理由はいくつか挙げられます。 ① 従来あった宮の地を離れて、山間部の倉梯(くらはし:現・桜井市倉橋)に新しい宮を造営し、蘇我氏や大夫たちと距離を置くようになった。 ② 大伴氏の娘を妃にし、王子と王女を産ませた。蘇我氏にとっては大伴氏は強力なライバルだった。 ③ 蝦夷国境や越国境を画定し、国造(くにのみやつこ)を置いた。この地方支配強化に豪族たちが反発した。 ④ 強引に任那復興軍を朝鮮半島に派遣しようとしたことが反発を招いた。

 馬子と崇峻天皇の間の亀裂は深まり、ついには馬子が崇峻天皇を暗殺してしまいました。この事件も蘇我氏の「悪行」の一つだという見方があります。しかし、『日本書紀』やその他の文献でも、馬子を非難している記述はなく、この事件が大夫層の動揺を招いたという事実もありません。すなわち、この事件は支配者層の権力争いの一つであって、大臣・馬子と豊御食炊屋姫を中心とする勢力が、天皇派との権力争いに勝利して、その結果崇峻天皇が殺害されたとみるのが妥当なようです。

 崇峻天皇が殺害されたのちに天皇に即位したのが豊御食炊屋姫(推古天皇)でした(当時39歳)。そして、次期天皇候補として聖徳太子(用明天皇の子)が皇太子となりました(この時期“摂政”という役職はまだなかったという説があります)。ここに、推古天皇(馬子の姪)、聖徳太子(馬子の甥・用明天皇の息子)、大臣・馬子の三者による、蘇我一族の政権が誕生したのです。

 推古天皇の治世では、古代日本の国家の基礎を築き上げるための重要な政策が次々と打ち出されていきました。『日本書紀』では、これらの政策はすべて、聖徳太子が中心となって成し遂げたとされます。しかし、天皇家の外戚として、一族から3代(用明・崇峻・推古)も続けて天皇を即位させた蘇我氏の権勢は絶大であり、大臣として他の有力豪族を統制する立場にあった蘇我馬子の意を無視して、聖徳太子が独自に政策を進めることはあり得なかったと思われます。むしろ、推古天皇時代の政策は馬子の発案であって、聖徳太子がその指示に従って忠実に遂行していったと考えるほうが自然ではないかという意見があります。ここでそれらの重要政策について簡単にふれておきます。

 推古11年(603)、冠位十二階制が施行されました。当時確立されていた氏姓制度においては、豪族たちの集団である「氏(うじ)」に対して土地の所有が認められ、それぞれの「氏上(うじもかみ:氏を統率する首長)」に「姓(かばね)」が与えられて、その地位の世襲が認められていました。この仕組みを根底から変えて、個人の才能や功績、忠誠度に応じて官位を授けるようにしたのが冠位十二階制です。これは、将来の中央集権的な官僚制度構築への第一歩となったといわれます。しかし、この制度が適用されたのは中央政府の大夫以下の豪族のみであって、蘇我氏や王族、地方豪族は対象外という不完全なものではありました。推古12年(604)に制定された十七条の憲法は、諸豪族に対する服務規程や道徳的訓戒のようなものでした。第一条では有名な「和を以て貴しとなし・・・」と、根本理念を謳い、第二条「篤く三宝(仏・法・僧)を敬え」、第三条「詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹め」 と続きます。ここで特筆すべきは、「天皇の命令に必ず従え」という第三条よりも先に、第二条で「仏の教えを敬え」と書かれていることです。仏の教えをこの国の究極の規範として国造りを行っていこうという、馬子たちの熱い思いが読み取れます。

 推古天皇の治世では、4回にわたって遣隋使派遣されました。推古8年(600)の第一次では、隋の高官のみならず朝鮮三国の使者たちまでもが、自分たちよりもはるかに文明化していることに衝撃を受けたといいます。このことが、のちの様々な改革のきっかけになったことは否定できないでしょう。推古11年(603)に造営された小墾田宮(おはりだのみや)も、そのひとつでした。南に南門を構え、その北に諸大夫が勤務する政庁が左右に二棟あり、さらにその北の大門をくぐると、天皇の住居である大殿があったと考えられています。後世の宮殿の原型となる建物でした。推古15年(607)の第二次遣隋使では、小野妹子が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す・・・」という国書を持参し、隋の煬帝(ようだい)を怒らせたといわれます。ヤマト政権としては、中国皇帝からの冊封(さくほう:大和国の統治者として認められる代わりに中国皇帝と君臣関係になること)は求めず、独立した君主をいただくことにより、「東夷の小帝国」を目指したと考えられています。推古16年(608)の第三次遣隋使には、僧・旻(みん)、高向玄理(たかむこのくろまろ)、南淵請安(みなぶちのしょうあん)らの留学生や修行僧が参加しました。彼らは、隋・唐の先進知識を学ぶととともに、隋の滅亡と唐の成立を間近で見て帰国しました。この人々が、のちの「大化の改新」の理論的指導者となり、ひいては蘇我本宗家の命運にも大きな影響を与えることになったのです。

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 推古36年(626)、蘇我馬子が亡くなりました。そして翌々年、推古天皇も後を追うように亡くなりました。このころから、蘇我氏にとっては苦難の歴史が始まります。馬子の跡を継いで大臣となった蝦夷(えみし:毛人とも記載される)の最初の大仕事は推古天皇の後継者選びでした。候補者は、敏達天皇の孫・田村皇子と聖徳太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)の二人でした。独断では決めかねた蝦夷は、大夫会議に諮りましたが、結果は田村王支持が5名、山背大兄王支持が3名でした。しかも、蝦夷の弟の倉麻呂は意見を保留としました。実は蝦夷は、心の中では田村皇子を推していました。この時すでに、田村皇子と馬子の娘の法提郎女(ほてのいらつめ)の間には古人皇子が生まれており、将来天皇家を継承することを期待してのことだと思われます。同じ蘇我系である山背大兄王をあまり評価していなかったことも理由だったのかもしれません。その後、先の大夫会議に出席したメンバーが斑鳩宮(いかるがのみや)に出向いて山背大兄王を説得し、最終的には田村皇子が即位(舒明天皇:じょめいてんのう)することになりました。ところが、今度は馬子の弟で蝦夷の叔父にあたる境部摩理勢(さかいべのまりせ)が怒りだしました。摩理勢は生前の聖徳太子と大変仲が良かったので、山背大兄王を強く推していたのです。蝦夷と摩理勢の対立は激化して武力衝突にまで発展しました。結果的には、蝦夷が派遣した軍が摩理勢を殺害して鎮圧しましたが、この事件により、蘇我本宗家と他の蘇我一族の間に大きな溝ができてしまったのも事実だったと思われます。

 舒明13年(641)、舒明天皇が亡くなった後も、蝦夷の思惑とは違い古人皇子を即位させることはできませんでした。なんと、舒明天皇の皇后だった宝皇女(皇極天皇)が即位したのです。皇極天皇にとっては、舒明天皇との間にできた葛城皇子(中大兄皇子:のちの天智天皇)を即位させたかったが、まだ16歳だったので、自分が即位して時間を稼ごうとしたのかもしれません。いずれにしても、蝦夷の思惑は外れてしまったということです。しかも、この時期から、『日本書紀』において、蘇我氏の「専横」ぶりを著す記事が目立ってきます。

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 皇極元年(642)、蘇我氏は父祖の地である葛城の地に祖廟(祖先を祀る社)を造り、臣下が行ってはならないとされる八佾(はちいつ)の舞を舞わせたといいます。八佾の舞とは、8人ずつ8列の64人で行う方形群舞で、中国では皇帝の特権とされます(諸侯の場合は、例えば6人X6列=36人で舞う)。つまり、蘇我氏は自らを王家と同格と宣言したことになるというわけです。同年、蘇我蝦夷とその子・入鹿(いるか)は、自らの寿墓(じゅぼ:生前に造られる墓)を造営しました。その墓を「陵(みささぎ)」と呼ばせ、国中の民、部曲(かきべ:私有民や私兵)、はては上宮王家(厩戸皇子一族)の壬生部(みぶべ:皇子の養育のために設けられた部)の人々までも徴用して使役させたといいます。これが不敬極まりないと批判されました。皇極2年(643)には、蝦夷が独断で紫冠を入鹿に授け、大臣の位を譲ってしまいました。蘇我氏は冠位十二階からは独立した存在なので、紫冠の譲渡は蘇我氏内部の判断で問題ないと思われますが、大臣の職位は天皇から与えられたものなので、これを勝手に譲るということは、王権をないがしろにするもので不敬にあたるとされます。

 極めつけは、皇極2年(643)11月に起きた、上宮王家襲撃事件でした。父・蝦夷の跡を継いだ入鹿は、巨勢徳陀(とくだ)らを派遣して、斑鳩宮の山背大兄王を襲わせました。山背大兄王とその一族はいったん生駒山に逃げましたが、斑鳩寺(法隆寺)に戻ったところを、入鹿が派遣した兵に囲まれ、一族そろって首をくくって自害して果ててしまいました。この事実を知った蝦夷は、「ああ、入鹿は、はなはだ愚かなことをしてくれた。お前の命も危ないのではないか」と嘆いたといいます。『日本書紀』によれば、古代日本の礎を造った聖人・聖徳太子の息子・山背大兄王とその一族をことごとく殺してしまった蘇我入鹿は、王家をないがしろにする、不敬極まりない、とんでもない大悪党ということになります。まさに、蘇我氏の「専横」ぶりが、これでもかこれでもかと書き連ねられていきます。

 皇極3年(644)、蝦夷と入鹿は甘樫丘(あまかしのおか:奈良県明日香村)に邸宅を並べて建て、「上の宮門(みかど)」「下の(谷の)宮門」と称しました。さらに、入鹿は自分の子らを「王子」と呼ばせたといいます。これらの館には城柵が造られ、門のわきには武器庫が設けられました。そして、武器を持った屈強な兵たちに守らせていたといいます。さらに、畝傍山(うねびやま)の東にある蝦夷の館でも、池を掘って砦を造り、武器庫を建てて矢を積んでいたといいます。また、蝦夷は常に50人の兵士を連れて身辺の警護をさせていたといいます。『日本書紀』的にいえば、この蘇我氏の武装化の目的が、実は天皇家を滅ぼし自らがその権力の座にとって代わろうという「野望」にあったということになります。これは乙巳の変(いっしのへん)で蘇我入鹿を暗殺した直後に中大兄皇子が発した言葉からも明らかですが、この件については、後ほど述べます。

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 この蘇我氏の「野望」に大きく立ちはだかったのが中臣鎌足でした。鎌足は蘇我体制打倒の意志を固め、はじめは軽皇子(のちの孝徳天皇)に近づきますがこれを断念し、次に葛城皇子(中大兄皇子)に近づきます。鎌足と中大兄皇子は、遣隋使から帰国した南淵請安のもとに通い儒学を学びながら、蘇我体制打倒の策を練っていきました。さらに鎌足は、蘇我一族である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ:蝦夷の甥)を調略し、その娘である越智娘(おちのいらつめ)を中大兄皇子の后に迎えさせ、石川麻呂を仲間に引き入れます。蘇我一族内部にくすぶっていた対立関係をうまく利用した形です。かくして、蘇我本宗家(蝦夷、入鹿の家系)滅亡作戦の準備が整いました。

 皇極4年(645)6月12日、三韓の儀(百済・新羅・高句麗が日本に朝貢しに来た時に天皇に謁見する儀式)が飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや:皇極天皇の宮殿)で行われました。この儀式には皇極天皇、古人大兄皇子も参加し、大臣の蘇我入鹿も出席していました。中臣鎌足は、この儀式で入鹿を暗殺しようと、二人の刺客(佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田)を配置していました。そして自分も、弓と矢を持って潜んでいました。入鹿が宮城内に入ると、中大兄皇子の指示で12ある門がひそかに閉められました。蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み始めます。あらかじめ打ち合わせていた計画によれば、このときに子麻呂と網田が入鹿に斬りかかる手はずでしたが、二人とも緊張のあまり体が動きません。上表文を読んでいた石川麻呂も、二人が予定通り動かないので緊張のあまり声が震えてしまいました。それを入鹿にとがめられましたが、「天皇の御前で緊張してしまい声が震えてしまいました」と弁明したといいます。すると、事態が動かないことに業を煮やした中大兄皇子が、突如入鹿に突進して頭と肩を剣で斬り割きました。驚いた入鹿が立ち上がろうとすると、ようやく緊張から解放された子麻呂が入鹿の片脚を斬りました。入鹿は、皇極天皇の前に転がり就いて、「自分が何の罪で誅されるのか」と聞きました。すると中大兄皇子は、「鞍作(入鹿のこと)は皇族を滅ぼしつくし、皇位を絶とうとしております。鞍作のために天孫(皇族)が滅びるようなことがあってよいものでしょうか」と答えたといいます。その後、皇極天皇が宮殿の中に入ると、子麻呂と網田が入鹿に斬りかかり、とどめを刺しました。その屍は、雨で水浸しとなった前庭にひきずりだされたといいます。入鹿の問いに答えた中大兄皇子の言葉から明らかなように、『日本書紀』の編者は、蘇我氏が皇位簒奪を企てた極悪人であると断言しています。それを傍証するかのように、数々の蘇我氏の「横暴」ぶりを紹介し、はては、聖徳太子の子・山背大兄王はじめ上宮王家滅亡を企てた極悪人として非難していたのです。しかし、天皇家との外戚関係を結び、天皇の権威を利用して政治の実権を握ろうとしたのが蘇我氏の戦略だったはずです。自らが天皇家にとって代わろうという野望は抱いていなかったはずです。このあたりの記述には、『日本書紀』の編者の何らかの意図が隠されているように感じられます。この件については次章で考えてみましょう。

 さて、入鹿を暗殺した中大兄皇子らは、板蓋宮を出て蘇我氏の氏寺である飛鳥寺に入り、砦を構えました。そして、甘樫丘の蝦夷邸に入鹿の遺骸を届けさせました。これを見た蘇我氏の忠臣・東漢氏(やまとのあやし)らは郎党を集め、武装して陣を張ろうとしました。中大兄皇子は将軍・巨勢徳陀を蝦夷邸に派遣し説得したといいます。巨勢徳陀は、1年前の上宮王家襲撃では入鹿に命ぜられ、将軍として参加した人物でした。結局東漢氏らは説得に応じて武装解除してしまいます。こうして、蘇我本宗家の命運は尽きたのです。こののち、蘇我蝦夷も自刃し、蘇我本宗家は滅亡しました(乙巳の変:いっしのへん)。しかし、蘇我一族すべてがほろんだわけではありません。入鹿暗殺に加担した石川麻呂が属する蘇我倉氏(河内を地盤とする)が蘇我一族の中心的存在となり、政権の中枢に参加することになりました。

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 『日本書紀』によれば、「蘇我本宗家、特に蝦夷と入鹿は、天皇家をないがしろにし、それにとって代わろうとした天下の大罪人であり、その蘇我本宗家を滅ぼした中大兄皇子と中臣鎌足は、聖徳太子が行った改革を受け継ぎ、天皇を中心とした中央集権国家体制(律令国家体制)構築のために力を尽くしたといいます。彼らは、古代日本の基盤を築き上げた先駆者であり英雄であった」・・・ということになるのでしょう。本当にそうだったのでしょうか。以下では、蘇我氏の「悪行」が、天皇家を滅ぼし自らそれにとって代わろうとする意図で行われたのかという点と、蘇我氏が改革に消極的で「守旧派」であり、中大兄皇子らが「改革派」であったという解釈の正否について、考えてみましょう。

 まず、馬子の時代に起きた崇峻天皇弑逆事件についてです。崇峻天皇は、馬子の甥にあたり、蘇我系の天皇です。馬子はなぜ、崇峻天皇を殺してしまったのでしょうか。この理由は先にも述べましたが、崇峻天皇が蘇我氏のライバルである大伴氏に近づき、大伴糠手(ぬかて)の娘を妃にして王子と王女を産ませたことや崇峻天皇の強引な国内政策や対外政策に豪族たちの反発が大きかったためといわれます。つまり、馬子が崇峻天皇を殺めて自らそれにとって代わろうと考えたのではなく、支配層の間での権力争いの中で、馬子を中心とする勢力が、崇峻天皇一派を打ち破り、結果的に崇峻天皇が殺害された事件だったということです。

 皇極元年(642)に、蝦夷が葛城の高宮に祖廟(祖先を祀る社)を造営し、八佾(はちいつ)の舞(中国では皇帝にしか許されない舞)を舞わせたことや、蝦夷と入鹿が寿墓(じゅぼ:生前に造られる墓)を造るために、国中の民、部曲(かきべ:私有民または私兵)、さらには上宮王家(聖徳太子の子孫)に仕える人々までも使役した点はどうでしょうか。今となっては、事実だったかどうかは確かめようもありませんが、よしんば事実であったとしても、少々おごりが見られる行為ではありますが、この事実をもって、蘇我氏が天皇家乗っ取りを画策していると断定するには、少々無理があるように思われます。

 何と言っても決定的なのは、皇極2年(643)に蘇我入鹿が引き起こした上宮王家襲撃事件でした。入鹿の命を受けた巨勢徳陀(こせのとくだ)らは斑鳩宮の山背大兄王を襲撃しました。山背大兄王は馬の骨を寝床において、一族とともに生駒山山中に逃げました。巨勢徳陀らは斑鳩宮を焼き払い、灰の中から骨を見つけ、山背大兄王は亡くなったと判断していったん引き揚げたといいます。山背大兄王は数日間生駒山中に隠れていました。側近は、いったん山背から東国に逃げ、再起を図ろうと進言しましたが、山背大兄王は、「その通りにすれば勝つだろう。しかし、民を使役したくない。私一人のために民を苦しませたくない」と言って、山を下り、斑鳩寺(法隆寺)に戻りました。そして、再び軍勢に囲まれると、「私は民を苦しめたくない。この身ひとつを、入鹿にくれてやろう」と告げ、一族そろって首をくくって自害してしまいました。「聖人」聖徳太子の子で、彼もまた「聖人」であったとする山背大兄王とその一族を、無抵抗のまま死に至らしめた蘇我入鹿の非道なふるまいを「見事」に表現しています。しかし、これら『日本書紀』の記述にはいくつかの疑問点があります。

 『日本書紀』では、この事件は蘇我入鹿が独断で起こしたとされます。しかし、例えば『藤原家伝(ふじわらかでん:奈良時代に藤原仲麻呂が編集。藤原鎌足、不比等親子の伝記)』によれば、入鹿が諸皇子とともに謀って起こしたものだとされます。他の資料(『聖徳太子伝略』など)にも、軽皇子(のちの孝徳天皇)巨勢徳陀、大伴連馬甘らとともに計画したとあります。また、事件の原因について『日本書紀』では、入鹿が上宮王家を廃して古人皇子(舒明天皇と馬子の娘・法提郎女<ほてのいらつめ>の子)を擁立しようとしたためと記述されています。しかし、この時点での古人皇子の最大のライバルは、山背大兄王ではなく舒明天皇と皇極天皇との間に生まれた葛城皇子(中大兄皇子)だという見方が正解だと思われます。天皇後継争いのために山背大兄王を殺害しようとしたという理由には賛同しかねます。一方で、軽皇子はじめ多くの重臣が山背大兄王襲撃に加わっていたとすれば、これも中央政府内部の権力争いの一環と考えるべきで、蘇我氏が天皇家乗っ取りのために仕組んだ事件とは到底思えません。

 実際、上宮王家襲撃事件に関する『日本書紀』の記述は神話じみていて現実離れしています。上宮王家一族が自害したとき、「五色の幡蓋(ばんがい:のぼりと旗)が宙を舞い、伎楽(ぎがく)が奏でられ、空に照り輝き、寺に垂れ下がった」といいます。人々はその様子を見て嘆き、入鹿に指し示しましたが、「幡蓋は黒雲に変じ、入鹿は見ることができなかった」といいます。また、山背大兄王が残した馬の骨を焼け跡から見つけて王子が死んだと判断したのも不可解ですし、生駒山に逃げたとき、側近が「東国にいったん引き揚げて再起を図りましょう」と進言したときも、自ら「勝てる」と断言していたにみかかわらず、「民のために犠牲になる」といって、一族皆を道連れにして自害したのも、「聖人」として取るべき行動だったのか、はなはだ疑問です。このような疑念から、上宮王家襲撃事件は、『日本書紀』の創作だったのではないかという説もあります。事件現場となった法隆寺では、平安時代に至るまで上宮王家一族を祀った形跡がないといいます。さらに、何十人かいたはずの一族の墓がどこにも見当たらないということも不可解です。非業の死を遂げた一族は、丁重に祀られることもなく、忽然とこの世から消えてしまったというのです。このことより、上宮王家そのものも実は存在しなかった――『日本書紀』の編者が蘇我氏の悪行をことさら強調し、政治家としての実績をはく奪する(すべて聖徳太子が行ったことにする)ためにつくり上げた幻の王族だったというのです。

 蘇我氏の「横暴」ぶりを示す記述がもう一つあります。皇極3年(644)、蝦夷と入鹿は、彼らの本拠地である甘樫丘(あまかしのおか:奈良県明日香村)に邸宅を並べて建てました。そして「上の宮門(みかど)」「下の(谷の)宮門」と称しました。さらに入鹿は、自分の子たちを「王子」と呼んだといいます。これらが事実であったとすれば、蘇我氏に「驕り」があったことになりますが、さらに重要なのは、この邸宅が武装化、要塞化されたことでした。館には城柵が造られ、門のわきには武器庫が設けられました。そして、武器を持った屈強な兵たちに守らせていたといいます。さらには、畝傍山(うねびやま:甘樫丘北西約3㎞)の東にある蝦夷の館でも、池を掘って砦を造り、武器庫を建てて矢を積んでいたといいます。また、蝦夷は常に50人の兵士を連れて身辺の警護をさせていたともいわれます。この武装化が、天皇家に対する軍事的圧力になったという指摘があります。しかし、蘇我氏の戦略は、一族の娘を天皇に嫁がせ、そこで生まれた子を即位させることにより天皇家の外戚として権力を握ることでした。天皇家の権威を利用して、中央政界で実権を握ることだったはずです。天皇家をつぶしては元も子もないわけです。それにとって代わろうなどとは考えていなかったのです。この蘇我氏の武装化は、むしろ天皇を中心とする中央集権国家体制に反発する地方豪族からの反乱に対処するためだったのではないでしょうか。そして、実は改革派の中心にいた蘇我氏が、天皇家を外敵から守るために武装化していったとも考えられます。ここで一つ明らかにしなければならない点があります。蘇我氏は本当に改革派だったのか、あるいは『日本書紀』が主張するように守旧派だったのかという点です。次に、この点について考えたみたいと思います。

 5世紀から6世紀にかけて、職能集団として部民を束ね、天皇に奉仕する首長は「伴造(とものみやつこ)」と呼ばれていました。その中でも巨大な勢力を誇る首長たちは、「国造(くにのみやつこ)」に任じられ、地域一帯の支配者として認められる代わりに、屯倉(みやけ:中央政権の直轄地)を献上し、さらに子弟を差し出し宮の警護にあたらせていました。6世紀になると、朝廷は屯倉を増やす政策を推進しました。首長層に圧力をかけて、豪族たちの土地を没収して直轄領を増やしていったのです。そして、この政策遂行に最も尽力したのが蘇我氏だったと、『日本書紀』も実例をいくつか挙げて記述しています。この屯倉の増設政策が、「公地公民制」による将来の中央集権化に向けてのステップだったといわれます。蘇我氏は、この改革の先頭に立って働いていたというわけです。

 推古天皇の治世で行われた様々な改革は、古代日本における制度改革(部民制から律令制へ)の基盤を作る重要なものでした。冠位十二階制は、中央政府の大夫以下の豪族(王族や蘇我氏は含まれない)の地位の世襲化を廃して、個人の能力や功績、忠誠度に応じて官位を授けるという画期的なものでした。十七条の憲法は、仏の教えをこの国の究極の規範として、国づくりを行っていこうという、基本的な考え(規範)を示したものでした。4度にわたる遣隋使の派遣では、隋の政治制度の先進性に刺激を受けました。その結果、様々な改革が断行されました。また遣隋使として隋に渡り、隋の滅亡と唐の建国を目の当たりにした留学生たち(僧旻、高向玄理、南淵請安など)は、帰国後、「大化の改新」の理論的指導者となり、制度改革に貢献したといいます。問題は、これらの改革が誰の主導によってなされたかです。『日本書紀』では、聖徳太子が行った改革だったと書いています。本当にそうだったのでしょうか。聖徳太子が推古天皇の「摂政」の地位についたとき、蘇我馬子はすでに50歳を過ぎ、大臣としてのキャリアも20年以上となっていました。まさに馬子の全盛期でした。しかも聖徳太子は馬子にとって姉の孫です。いかに、聖徳太子が『日本書紀』のいうような「傑出した天才児」だったとしても、馬子を無視して勝手に政務をとることはできなかったはずです。いやむしろ、馬子の方針には逆らえなかったと考えるのが自然でしょう。作家の松本清張氏は、その著書『清張通史4 天皇と豪族』で、次のように述べています。

「厩戸皇子にとって馬子は祖母の弟であり、男である。皇子が皇太子となり「摂政」となったときは、すでに馬子は実務派の大物大臣として二十一年間も在職をつづけ、ときに五十歳をこえてぃたと思われる。この、がんじがらめの縁故。馬子のこのキャリア。この貫禄の相違。年齢の差――太子は馬子の前に手も足も出ず、萎縮してぃたであろう。」

 どうやら、これが真実だったような気がします。推古天皇の治世における様々な改革は、蘇我馬子が主導して行ったものでしょう。すなわち、ここまでは蘇我氏は改革派だったということです。それでは、蝦夷・入鹿の時代はどうだったのでしょうか。

 「大化改新」は、乙巳の変(645年)で蘇我入鹿が暗殺されたのち、孝徳天皇(在位645~654年))の治世で本格的に始まったとされます。そしてこの改革には、中大兄皇子が主導的役割を果たしていたとされます。ところが、孝徳天皇は、実は蘇我本宗家の政治路線を継承していたという説があります。その理由は、孝徳天皇は軽皇子の時代に、上宮王家滅亡事件で蘇我入鹿とともに山背大兄王襲撃に加担したという事実(『藤原家伝』より)――孝徳朝のブレーンは、入鹿が師事した旻法師で、中大兄皇子と中臣鎌足が儒学を学んだ南淵請安は政権から除外されたという事実――孝徳天皇は、巨勢徳陀や大伴長徳(ながとこ)ら、上宮王家滅亡事件にかかわった人物を徴用している事実によります。さらに、門脇禎二氏の著書『蘇我入鹿・蝦夷』によれば、「孝徳天皇が即位直後に宣言した難波遷都は入鹿存命中にすでに決まっていたことだった」といいます。孝徳天皇は、忠実にその方針を実行に移しただけだというのです。その根拠は、『日本書紀』の大化元年冬12月の記事にあるといいます。「天皇、都を難波長柄豊碕に遷す」という記事のあとに「老人等、相謂りて曰はく“春より夏に至るまでに鼠の難波に向きしは、都を遷す兆しなり」という部分が続いています。鼠の移動の話は文飾で、遷都のことを指していると解釈できます。問題は、「春から夏に至るまで」の部分です。この当時、春は1~3月、夏は4~6月です。乙巳の変で入鹿が暗殺されたのは、この年の6月ですから、春から夏までは、入鹿が実権を握っていた時期です。すなわち、難波遷都が計画されていたのは、入鹿が存命で権勢をふるっていた時期だったというわけです。

 ところで孝徳期の難波宮は、それまでの宮殿とは比べものにならないほど大規模だった事が発掘調査で判明しています。回廊と南門で守られた北側の区画は、東西185m、南北200mの天皇の住む内裏で、宮殿が建ち、南門の左右には八角形の楼閣が建っていたといいます。南門と宮城南面にある朱雀門(すざくもん)との間は、政治・儀式の場である朝堂院で、広さは、南北262.8m、東西233.6mあり、左右対称に14の朝堂が並んでいました。さらに、内裏と朝堂院の外側にも、いくつかの役所が存在していました。条坊制(じょうぼうせい)が敷かれていた可能性もあるといいます。難波宮遺跡からは、律令制導入後に用いられたと考えられていた祭祀具のセットや、律令制実施を匂わせる木簡も見つかっています。すなわち難波宮は、天皇中心の中央集権国家の政庁として、律令制をも視野に入れた宮であったと思われます。この難波宮が、蘇我入鹿の発案で造営されたとすれば、彼もまた改革派であって、旧態依然とした制度を改革して、先進国中国に追いつくべく汗を流していたとみるのが正しい解釈ではないでしょうか。ちなみに、難波宮が完成した白雉3年(652)の翌年、中大兄皇子は難波宮を捨てて飛鳥に帰ることを進言し、これが孝徳天皇に拒否されると、中大兄皇子は、母(皇極天皇)、間人皇后(はしひとのきさき:中大兄皇子の妹、孝徳天皇の正妃)を連れて飛鳥に戻ってしまいました。臣下の大半も皇子に従ったといいます。一人残された孝徳天皇は嘆き悲しみ、翌年失意のうちに亡くなってしまいました。・・・・しかし、これもおかしな話です。「改革派」であるはずの中大兄皇子が、律令制導入を本格的に進めようとして建設した難波宮を、完成後まもなく捨ててしまったのは理解に苦しみます。一説によれば、朝鮮情勢が緊迫していたので、瀬戸内海に面した難波では防衛体制に不安だったためといわれます。しかし、それならば、後年白村江の戦で大敗を喫したのちに中大兄皇子自らが配備したように、北九州や中国地方の各所に砦(城)を築き、防備を固めるべきです。難波まで攻め込まれたら、飛鳥だろうが近江だろうがすぐに攻め込まれてヤマト政権は滅亡してしまうでしょう。要するに、中大兄皇子には、改革の意志はなかったということです。いやむしろ、入鹿が、難波に都を遷し律令国家建設のために改革を強引に進めようとしたことが、自分たちの土地を奪われることに危機感を感じた豪族達の反発を招き、それに同調した中大兄皇子や中臣鎌足が豪族たちの支持を背景にして入鹿暗殺に及んだという構図が浮かんできます。これが、乙巳の変の隠された真実ではないでしょうか。

 蘇我氏が改革派であったとすれば、その開明性はどこから生まれてきたのでしょうか。蘇我氏は、南朝鮮からの渡来人が多く住んでいた大和の飛鳥地方(あるいは河内の石川地方)に進出し、彼らの先進的な技術や文化を活用してヤマト王権の実務を行い、政治の主導権を握っていきました。渡来人集団には、部族的なタテ割り制度や排他的な血統主義などはなく、極めて平等的で民主的な集団だったといいます。このような渡来人集団と密に付き合っていく中で、蘇我氏の人々にも、平等的で進歩的な考えが芽生えていったのかもしれません。その結果、排他的なタテ割り社会を変え、平等性の高い(特権階級は別枠だが)新しい制度への改革意識が高まっていったのかもしれません。蘇我氏の開明性は、渡来人集団からの影響で育まれたものだったのではないでしょうか。

 乙巳の変で暗殺された蘇我入鹿は、遣隋使として隋にわたって帰国した僧・旻のもとで学び、旻からは非常に高い評価を受けています(『藤原家伝』より)。入鹿もまた、唐帰りの新知識に触れながら、新しい政治体制の形成を夢見ていたとしても不思議ではないでしょう。蘇我本宗家は、稲目から入鹿に至るまで、旧来の政治体制を打破して、天皇を中心とした中央集権国家(律令国家)づくりを目指した改革派だったのです。しかしながら、『日本書紀』(の編者)は、蘇我氏の手柄を横取りして、中大兄皇子と中臣鎌足の手柄にすり替えたのです。そのために、「聖人」で「傑出した天才児」聖徳太子を登場させ、蘇我氏が行った改革を聖徳太子の実績とし、蘇我氏の「悪行」をあることないこと書き連ねたのです。そして最後には、「極悪非道」の蘇我入鹿が、「英雄」中大兄皇子に成敗されるという筋書きが必要だったのでしょう。

 『日本書紀』が描いた蘇我本宗家の姿は、偽物だった可能性が高まってきました。それにしても、時の権力者が自らを正当化するために歴史を改ざんすることが、いかに大きな罪悪であるかを、改めて感じさせられます。蘇我本宗家の人々の魂が、安らかであることを念願してやみません。


この記事は、以下の文献を参考にして作成しました。

  • 宇治谷孟訳『日本書紀』(講談社学術文庫)
  • 門脇禎二著『蘇我蝦夷・入鹿』(吉川弘文館)
  • 関裕二著『「入鹿と鎌足」謎と真説』(学研M文庫)
  • 倉本一宏著『蘇我氏ー古代豪族の興亡』(中公新書)
  • 松本清張著『清張通史4 天皇と豪族』(講談社文庫)
  • 関裕二著『古代史 9つの謎を掘り起こす』第七の謎蘇我入鹿の謎(PHP文庫)


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