ー甲斐健の旅日記ー

石舞台古墳/巨石で造られた蘇我馬子の墓

 石舞台古墳は、奈良県明日香村にある、我が国最大級の方形墳です。7世紀の初期に造られたとみられています。被葬者は、この時代に天皇家の外戚(がいせき:甥や姪が多数天皇に即位していた)であり、大臣(おおまえつきみ)として権勢をふるっていた蘇我馬子だといわれます。現在は、墳丘を覆っていた土は失われ、巨大な石積みが露出していて、玄室(げんしつ:使者を埋葬した墓室)にも自由に入ることができます。通常の古墳のなかで、封土がなくなり石組が露出している遺構は大変珍しいといいます。

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 石舞台古墳へは、近鉄の橿原神宮駅か飛鳥駅から「赤カメバス」に乗って「石舞台」で下車するのが便利です(一日乗車券<650円:2016年11月現在>があります)。公園の中央部に石舞台古墳があります。

 発掘調査によれば、石舞台古墳は、一辺51mの方形噴で、周囲に貼石された空濠があり、さらに南北83m、東西81mの外堤で囲まれた壮大な墳墓でした。玄室は7.7mX3.5m、高さが4.7mあり、その周りに巨大な石が積み上げられています。その数は約30個あり、その合計の重さは推定で2,300トンに達するとされます。これらの巨石は、傍らを流れる冬野川の上流3㎞の多武峰(とうのみね)から運ばれたものと考えられています。

「石舞台」の名の由来は、一般には天井石の上部が平らで舞台のようだということで名づけられてとされますが、その昔、キツネが女性に化けて舞を見せたとか、旅芸人がこれを舞台にして芸を見せたという話も伝えられています。

 被葬者とみられている蘇我馬子は、敏達(びだつ)天皇が即位した西暦572年ごろから、 推古36年(626)に亡くなるまでの50年余り、大臣(朝廷の最高位の官職)として権勢をふるっていました。推古天皇の治世で行われた様々な改革(冠位十二階制定、十七条の憲法発布、遣隋使の派遣など)は、聖徳太子の手腕によるとされています(『日本書紀』)が、馬子の同意なしではできなかった――あるいは、馬子の発案であって、太子は指示に従って実行しただけだという説もあります。この詳細については、コラム1「飛鳥の地に繁栄を築いた蘇我氏の人々は、本当に「悪い奴ら」だったのか?」を参照してください。

 なお、毎年8月の後半(2016年は8月27~28日の土日)に開催される「飛鳥光の回廊」のイベントでは、飛鳥寺や岡寺などとともに、石舞台古墳もライトアップされ、ロウソクの優しい光に包まれ幻想的なイルミネーションに包まれるそうです。



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