ー甲斐健の旅日記ー

知恩院/仏教を庶民に普及させた法然と弟子たちの思いがこもる寺院

 知恩院は、正式名を華頂山知恩教大谷寺(かちょうざん ちおんぎょうおおたにでら)といい、浄土宗の総本山です。開山(かいざん)は法然です。 本尊は、法然上人像および阿弥陀如来像(阿弥陀堂に安置)です。

 法然は、9歳で父を亡くし、13歳(一説では15歳)で比叡山延暦寺に入り、仏道修行に励みました。しかし、当時の仏教は厳しい修行を行う僧侶や裕福な貴族など、ごく一部の人のためのものでした。念仏によって救いの道が開けるという浄土教はありましたが、観想念仏(かんそうねんぶつ)といって、阿弥陀仏や極楽浄土の 有り様を出来るだけ観想(思い浮かべる)することにより、念仏の効果が上がると考えられていました。このため、資金力のある貴族階級は、この世に極楽浄土の有り様を再現するために華麗な建物を建立し、仏像を造り、そこで念仏を唱えるようになったといいます。平等院鳳凰堂(藤原頼道建立)や京の法成寺(ほうじょうじ:藤原道長建立)がそれです。このため、一般民衆にとって、仏教は遠い存在であったといわれます。このような状況を憂えた法然は、阿弥陀仏(あみだぶつ)はすべての人に救いの手を差し伸べていると説き、「南無阿弥陀仏」(「南無」は、サンスクリット語で帰依する、救いを求めるという意味)とひたすら念仏を唱えれば(専修念仏)、 すべての人々が救われると教えたのでした。これが浄土宗の起こりです(法然43歳)。この教えを広めるために、法然は比叡山を下り、東山吉水(よしみず:現在の知恩院御影堂近く)に居を構え、多くの人々を迎え入れました。法然の教えはまたたく間に広まり、時の摂政九条兼実までが帰依(きえ)するほどでした。 しかし旧仏教(延暦寺、興福寺)からの迫害もあり、また弟子の住蓮、安楽(じゅうれん、あんらく)が後鳥羽上皇の怒りをかう事件(後鳥羽上皇の女御「松虫」、「鈴虫」 を上皇の許しなく出家させた事件)をおこし、法然は土佐へ流罪となります。5年後の建歴元年(1211)に許され帰京しますが、翌年、現在の勢至堂近くにあった禅房で亡くなりました(80歳)。

 しかし、法然に対する迫害はまだ続きます。法然が亡くなって15年後、比叡山の僧兵が房の傍らにあった法然上人の墳墓を襲ったのです。弟子たちは、危ういところでその亡骸を西山粟生野(せいざんあおの:現在の長岡京市光明寺)に移し荼毘(だび)にふしました。その7年後の文歴元年(1234)に、源智上人がこの地を寺院とするべく伽藍(がらん)を整備し、法然上人の遺骨を戻し、知恩院と名づけました。そして、法然上人を開山第一世としました。ちなみに知恩院の名は、 弟子たちが上人への報恩のために行った知恩講(こう:同一の信仰を持つ人々による結社)に由来するそうです。

 その後、応仁の乱などで、多くの建物は焼亡しましたが、徳川家が浄土宗に帰依していたこともあり、徳川の時代になって次々に再建され、現在見る大伽藍が造営されました。徳川幕府の強い後押しもあって、知恩院は隆盛を極め、現在では、全国に6,900余りの寺院と、約600万人の信者を擁する、浄土宗の総本山となっています。

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 知恩院へは、地下鉄ですと、東西線東山駅で降りて、三条通りを東に進み、神宮道との交差点を南(右)に曲がって300mほど歩きます。京都駅から市バスですと、206系統に乗り知恩院前で降り、交差点を東に進むと、T字路に突き当たります。ここを南(右)に曲がって100mほど行ったところにあります。

 まずは、石段の上に堂々とそびえたつ三門が私たちを迎えてくれます。三門は、元和7年(1621)、に徳川二代将軍秀忠によって建立されたものです。五間三戸の二重門で、 入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)です。三門は禅宗の寺に建てられる門で、「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」 「無願門(むがんもん)」という、悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わす門(三解脱門:さんげだつもん)を意味しています。正面に架かる額(「華頂山」)は、 霊元上皇(天皇在位1663~87年)の宸筆(しんぴつ)だそうです。楼上内部は通常非公開ですが、特別公開の期間中(2014年は1/10~3/18)は、天井や柱などに極彩色で描かれている 天女や飛龍の絵、三門の建造を手掛けた大工夫婦が自分たちの木像と白木の棺を納めたということで七不思議の一つとされる木像や棺を見ることが出来るそうです。

 三門をくぐって急な石段(男坂:南側になだらかな女坂がある)を登ると、広々とした境内に出ます。本来は、4000人もの信者をが集うことが出来、開祖の法然上人像を祀っている御影堂(みえいどう)が見えるはずでしたが、残念ながら解体修理中でした(2014年5月現在)。修理は平成30年末まで行われるそうです。 この御影堂は、寛永16年(1639)に徳川家光によって再建された建物で、入母屋造、本瓦葺です。現在は、この御影堂の代わりに、北側に位置する集会堂(しゅうえどう;法然上人御堂)が、その役割を担っています。法然上人像も、こちらに移されています。この集会堂は、寛永12年(1635)に建立された建物で、渡り廊下で御影堂と結ばれています。

 集会堂の東に位置する方丈(ほうじょう)は、大方丈(おおほうじょう)と小方丈(こほうじょう)からなり、どちらも寛永18年(1641)の建立とされます。大方丈は入母屋造(いりもやづくり)檜皮葺(ひわだぶき)で二条城と同様の書院造りとなっています。54畳の鶴の間を中心に、上・中・下段の間、松の間、梅の間、柳の間、鷺の間、菊の間、竹の間と武者隠しの部屋があり、狩野一派の筆による金箔・彩色の襖絵を見ることが出来ます。鶴の間奥の仏間には、快慶作と伝えられる本尊阿弥陀如来像が安置されています。

 小方丈は6室から成り、襖には狩野派の絵が描かれています。大方丈のものとは対照的に淡彩で落ち着いた雰囲気の襖絵です。周囲には方丈庭園がめぐらされ、小堀遠州と縁のある僧玉淵(ぎょくえん)によって造られたと伝えられる心字池、その東側には、阿弥陀如来が西方極楽浄土から25名の菩薩を従えて来迎する様を石と植込みで表現したといわれる「二十五菩薩の庭」があります。

 御影堂の西にある阿弥陀堂は、明治43年(1910)に再建されたものです。もともと阿弥陀堂は勢至堂の前に建っていたのですが、老朽化が激しく、明治になって 現在の場所に再建されたそうです。内部には、本尊の阿弥陀如来座像が安置されています。

 御影堂の南東にある経蔵は、元和7年(1621)建立で、宝形造(ほうぎょうづくり)、本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。内部には、徳川秀忠寄進となる 宋版一切経6000帖を納める八角輪蔵が備えられています。この輪蔵を一回転させると、一切経をすべて唱えるのと同じ功徳があるといわれています。

 経蔵の南の石段を登っていったところに、鐘楼があります。この鐘楼に吊り下げられた梵鐘は、髙さ3.3m、直径2.8m、重さ約70tで、京都の方広寺、奈良の東大寺の梵鐘と共に、日本三大梵鐘と呼ばれています。年末の除夜の鐘を、親綱一人、子綱16人の僧侶が鐘を打ち鳴らす風情は、京の冬の風物詩となっているそうです。

 経蔵の脇の長い石段を登りきったところに、法然上人が眠る御廟があります(石段の途中に法然上人像が立っています)。法然上人の遺骨を奉安する御廟は、慶長18年(1613)に改築されたもので、方三間の宝形造(ほうぎょうづくり)、本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。御廟の周囲には、「雲に龍」「桐に鳳凰」「松に鶴」などの、 華麗な桃山様式の彫刻が施されています。御廟の手前に、法然上人をお参りするための拝殿があります。宝永7年(1710)に建立された、檜皮葺(ひわだぶき)のお堂です。

 御廟の手前、石段を少し下ったところに、勢至堂があります。ここが、まさに法然上人終焉の地でもあります。現在の建物は、享禄3年(1530)に再建されたもので、知恩院最古の建物です。単層の入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺(ほんかわらぶき)の建物です。内部には、本尊として勢至菩薩像が祀られています。浄土宗では、 法然は勢至菩薩の生まれ変わりとしているそうです(法然の幼名は勢至丸)。

 最後に、境内にある友禅苑を訪ねました。友禅染の始祖宮崎友禅生誕300年を記念して、昭和29年に改修造園された庭園です。東山の湧き水を引き入れた庭園と枯山水の庭園とで構成されています。苑内には裏千家ゆかりの茶室「華麓庵」と第86世中村康隆氏の白寿を記念して移築された茶室「白寿庵」があり、深い緑のなかで日本の心を表した昭和の名園といわれているそうです 

 旧仏教からの迫害にも屈せず、仏教は一部の特権階級のためだけにあるのではないという、強い信念を持ち続け行動した法然は、大乗仏教を日本にもたらした最澄と並び、仏教を大衆のものとし多くの人々に救いの道を示した大恩人といえるかもしれません。その法然とその教えを継承した弟子たちの思いがこもる知恩院でした。



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