ー甲斐健の旅日記ー

厭離庵:『小倉百人一首』が生まれた、歌人藤原定家の山荘があった寺院

 厭離庵(えんりあん)は、京都市右京区にある臨済宗天龍寺派の寺院(尼寺)です。山号は如意山(にょいさん)と称し、本尊は如意輪観音(にょいりんかんのん)です。

 この厭離庵の地には、鎌倉時代初期の歌人であった藤原定家の小倉山荘があったとされます。藤原定家は、藤原北家御子左流(みこひだりりゅう)で歌人藤原俊成の次男として生まれました。冠位は正二位権中納言で、京極中納言と呼ばれました。承久の乱(1215年)の際に後鳥羽上皇によって幽閉された時、事前に乱の情報を幕府に密告して幕府の勝利に貢献し、その後太政大臣にまで上りつめた西園寺公経(きんつね)は、定家の義弟にあたります。平安末期から鎌倉初期にかけて、御子左家の歌道における支配的地位を確立し、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』(勅撰集)の編集に携わりました。また、鎌倉御家人でもあり歌人でもあった宇都宮頼綱に依頼されて撰じたのが『小倉百人一首』でした。厭離庵にある「時雨亭」が、定家が『小倉百人一首』を撰じた場所であるとされます(この時雨亭または時雨亭跡は、二尊院や常寂光寺にもあるとされます)。

 厭離庵はその後荒廃していましたが、江戸中期に冷泉家(れいぜいけ:御子左家から分かれた三家のうちの一つ)がこれを復興し、霊元天皇(在位1663~87)から「厭離庵」の号を授かりました。これが厭離庵の始まりとされます。開山は霊源慧桃(れいげんえとう)禅師です。この時より厭離庵は、臨済宗天龍寺派となりました。ところが、明治維新直後にまたまた荒廃してしまいます。そして明治43年、貴族院議員で白木屋社長の大村彦太郎氏が仏堂と庫裏(くり)を建立し、山岡鉄舟(勝海舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれた政治家)の娘素心尼が住職となり尼寺として復興しました。なお、現在は男僧も入山しているそうです。

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 厭離庵へは、京都駅からですと市バス28系統に乗り、「嵯峨釈迦堂前」で降ります。バス停のある交差点を西にはいり、宝筐院に突き当って右に曲がり、すぐのT字路を左に曲がります。やや歩くと、右手に厭離庵山門に通じる竹やぶの細道があります。ちょっとわかりにくいかもしれません。

 山門をくぐるとすぐに、茶席に通じる茅葺(かやぶき)の待合(茶会で客が、待合せや着替えなどの準備をする場所)が目に飛び込んできます。ここから庭園に入れるようなのですが、私が訪ねたときは閉まっていました。石段を登っていくと、突き当りが本堂です。その横には、客殿と時雨亭が並んで建っています。本堂は、ジェーン台風(1950年)で倒壊し、現在見る建物は、昭和28年(1953)に再建されたものです。本堂内には、本尊の如意輪観音像が安置されています。また、開山の霊源禅師、西行法師(宗祇や芭蕉らに多大な影響を与えた歌人)、紀貫之(『古今和歌集』の撰者の一人、36歌仙の一人)、藤原定家、その子の為家、孫の冷泉為相(ためすけ)の位牌が安置されています。さらに天井には、仏師西村公朝(こうちょう:1915~2003年)筆による「飛天」の文字が描かれています。

 時雨亭は、6世の常覚尼が大正12年に、定家の山荘「時雨亭」を茶席「時雨亭」として再興したものです。四帖向切(むこうぎり)の茶室で、書院窓に文机が置かれています。天井はよしの化粧天井で、屋根裏は傘のような形をしています。

 本堂の手前には、定家をしのぶ五輪の塔、定家塚が静寂さをたたえています。定家の墓は、小倉山一帯とみなし、厭離庵裏にある遥拝石から山の方角を拝するのだそうです。

 定家の山荘、小倉山山荘(時雨亭)については、厭離庵の近くににある二尊院や常寂光寺も旧跡地と主張しています。どこが正しいのか、今となっては決めることは難しいようです。しかし、そんなことで悩む必要はないかもしれません。小倉山一帯を定家の墓とみなすのであれば、どこにいても定家の心をしのぶことが出来るのですから。



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