ー甲斐健の旅日記ー

奥州藤原氏四代泰衡は、本当にダメな男だったのか?

 文治5年(1189)9月3日、奥州藤原氏四代泰衡は、頼朝軍に攻め込まれて比内地方の贄の柵(にえのさく:秋田県大館市二井田)に逃げ込みましたが、旧臣の河田次郎の裏切りにあい、命を落としました。これにより、約100年続いた奥州藤原氏の栄華は終焉し、藤原氏は滅亡しました。三代秀衡が亡くなり泰衡が家督を継いで、およそ2年後のことでした。鎌倉幕府の高官が記した歴史者『吾妻鏡』によれば、泰衡は小心でおよそ武家の棟梁の器ではなかったかのように描かれています。頼朝軍との決戦となった阿津賀志山(あつかしやま:福島県伊達郡国見町)の戦いで大敗を喫すると、周章狼狽して平泉に逃げ帰り、平泉に戻っても頼朝軍の影におびえて、「命を惜しんで鼠のように隠れ、雛のように逃げた」と記されています。ついには頼朝に命乞いの手紙を書き送り、贄の柵でその返事を待っていたところ、旧臣の河田次郎の裏切りにあい命を落としたとあります。まるですぐ近くで見ていたかのような・・・のような話です。鎌倉幕府がここまで泰衡をダメな男として描いたのには、何か理由がありそうです。

 文治元年(1185)、守護、地頭を全国に設置して武家政治の基礎を固めた頼朝にとって、武家の棟梁は自分一人でなければならなかったはずです。強大な力で奥州を支配していた藤原政権の存在は、抹殺したかったに違いありません。それゆえ、泰衡の器量を完全に貶めて武家の棟梁の器ではなかったとし、鎌倉幕府こそが唯一無二の武家政権であることを、内外に示したかったのかもしれません。

 それでは、泰衡は本当に小心でダメ男だったのでしょうか。ここで、三代秀衡が亡くなってから藤原氏が滅亡するまでの出来事を年表にしてみます。

                   
文治3年(1187)10月29日 秀衡死亡、義経、泰衡、国衡「三人一味の起請文」交わす
文治4年(1188)2月 義経と頼朝の部下法師昌導が出羽で激突、昌導鎌倉に敗走す
同年 春 後白河法皇、泰衡に義経の身柄差出を命じる院宣を出す
文治5年(1189)4月30日 泰衡、衣河館にいた義経を襲撃、義経は妻子と共に自害
同年 7月19日 頼朝、奥州侵攻のため鎌倉を出発
同年 8月9、10日 阿津賀志山の決戦で、頼朝軍が国衡(泰衡の兄)軍を討ち破る
同年 8月21日 泰衡、平泉館に火を放ち逃走
同年 9月3日 泰衡、河田次郎の裏切りにより自害、奥州藤原氏滅亡

 ここで気が付くのは、文治5年4月30日に泰衡が義経を襲撃したとされる事件から、事態が急速に動き出し、そのわずか4か月後には奥州藤原氏が滅亡していることです。それ以前、秀衡が亡くなってからの1年半はどんな状況だったのでしょうか。まずは、秀衡が死の床にあって泰衡たちに託した遺言について確認します。秀衡は、次男の泰衡(当時33歳)を後継者とし、長男の国衡には、兄弟の仲をこわさぬよう約束させました。そして、義経(当時29歳)を大将軍として奥羽の国務を任せ、泰衡、国衡には義経を主君として仕えるように遺言しました。そして、三人に起請文を書かせ、三人一味となって頼朝の攻撃に備えるよう言い残したと伝えられています。

 泰衡は、秀衡が亡くなってから1年半の間は、この遺言を守り続けました。鎌倉幕府を迎え撃つために、福島盆地の北と南に大規模な土塁と空堀を築き(阿津賀志山と石那坂)、頼朝軍の攻撃に備えたといいます。また義経も、鎌倉との一戦に備え兵を集めていました。少なくともこの時期の奥州は一枚岩だったように思えます。ところが、文治5年4月30日、泰衡が衣川館にいた義経を襲撃して自害に追い込んだという事件が起こります。この突然の状況変化は、あまりにも唐突な感じがします。はじめから、義経を鎌倉方に差し出して、頼朝の許しを得るつもりなら、1年半もかけて鎌倉との一戦に備えた準備を進めたことは解せません。むしろ、鎌倉方の神経を逆なでする行為であり、慎むべきだったでしょう。和戦両様の構えであったとしたら、軍事の天才といわれた義経を失うことは、大きな損失であったはずです。泰衡がこの時点で義経を討った事件は、やはり泰衡は優柔不断で戦略性のかけらもない愚鈍な男であったことを証明するもので、泰衡の器量を貶めるには好都合な事件でもありました。実際、武士の棟梁として新しい政権を作り上げようとしていた頼朝が、事実上の奥羽独立政権だった平泉政権を容認するはずがないことは、泰衡も認識していたはずです。一方、泰衡が義経を襲撃した背景には、祖父であり後白河法皇とも通じていた中央貴族藤原基成の強い勧めがあったからだとも言います。いずれにしても不可解な事件です。

 義経という駒を失った奥州に対して、頼朝は後白河法皇の泰衡追討の院宣(いんぜん)を待たずに奥州侵攻を決意します。そして両軍は、福島盆地の北の阿津賀志山で激突します。しかし、戦いはわずか2日で決着がつき、奥州軍は敗走しました。1年半をかけて築いた防塁も、頼朝軍の勢いにはなすすべもなかったということでしょうか。この戦いで、泰衡の兄国衡は戦死してしまいます。平泉に戻った泰衡は、頼朝軍との最終決戦を避けて、平泉館に火を放ち北へ逃走します。ところが、この泰衡の逃亡ルートにも大きな謎があります。

 『吾妻鏡』によると、泰衡は蝦夷が島(えぞがしま:北海道)への逃亡を企てていたといいます。奥州藤原氏初代清衡が整備した奥州の大動脈奥大道(おくだいどう)は、白河関(福島県白河市)から外ヶ浜(青森県東津軽郡外ヶ浜町)まで通じています。全行程20日余りでした。平泉はちょうどその中間点にありますから、外ヶ浜までは10日余りで行けるはずです。泰衡が平泉館に火を放って北へ向かったのが文治5年(1189)8月21日でした。急いで逃げれば、少なくとも8月末には外ヶ浜に到着し、そこから北海道に逃げることは可能だったはずです。どう見ても頼朝軍は追いつけません。それなのになぜ、奥大道から遠く外れた贄の柵(秋田県大館市)に、9月3日までとどまっていたのでしょうか。大変不思議です。『吾妻鏡』によれば、この間泰衡は、頼朝に命乞いの手紙を出していたといいます。そして、その「返事を、比内(大館市周辺)のあたりに落としてほしい」と書いたため、この地で待っていたといいます。しかし、何が何でも奥州藤原氏を討ち滅ぼそうと進撃してきた頼朝に対して、命乞いなど通用するはずがないことは泰衡自身もわかっていたはずです。有り得ない話だと思います。

 もう一つ不思議なのが、兜神社、鎧神社(秋田県能代市)の存在です。それぞれ泰衡の兜、鎧がご神体として祀られているそうです。しかしこの神社がある場所は、泰衡最期の地比内(贄の柵)から約60km西にはなれています。逃亡のさなかにこの地を行ったり来たりするなど、考えにくいです。何らかのかく乱のために、わざと痕跡を残したのでしょうか?

 このように見てくると、一つの仮説が浮かんできます。泰衡が、旧臣河田次郎の裏切りによって命を落としたというのは、泰衡と河田次郎が仕組んだ嘘で、泰衡は外ヶ浜または十三湊(青森県五所川原市)まで逃げ、その後蝦夷が島に渡ったというのです。この時泰衡は、鎧兜を脱ぎわずかな手勢と共に北へ向かいました。そのとき脱いだ鎧と兜が後になって、それぞれ鎧神社と兜神社に祀られたということです。それでは、河田次郎が頼朝のもとに持参したとされる「泰衡の首」は、一体誰のものだったのでしょうか。それは泰衡の弟忠衡の首だったとしたらどうでしょうか。忠衡は、義経に信奉していたとされ、義経の処分をめぐって兄泰衡と対立していたため、泰衡に殺されたとされています(しかし、実際は病気か不慮の事故で亡くなった可能性もあるでしょう)。河田次郎がこの首を鎌倉に持ち込んだ時、鎌倉方には泰衡の顔を見た者がいなかったといいます。そのため、平泉方で捕虜となっていた赤田次郎に首実検をさせました。この時河田は赤田と目配せをし、身代わりの首とはばれないように示し合わせたというのです。しかしこの首は、後にくぎ打ちにして晒されました。泰衡の顔を知っている者が、訴え出ることはなかったのでしょうか。それはおそらくあっただろうと思われます。しかし鎌倉幕府にとって、泰衡が逃亡したことを認めることは、ようやくスタートした武家政権に対して不安の種を残すことになるので、ひた隠しにせざるを得なかったのではないでしょうか。『吾妻鏡』によれば、泰衡の首を持参した河田次郎に対して、頼朝は「主君の恩を忘れその首を誅した」ことを責め、河田次郎を斬罪に処したといいます。しかし、敵の大将に逃亡されてしまうかもしれない危機を河田次郎の裏切りによって救われたのですから、斬罪は厳しすぎると思われます。むしろ、身代わりの首であることがばれて斬殺されたというのが真相かもしれません。

 中尊寺金色堂の須弥壇(しゅみだん)には、藤原三代(清衡、基衡、秀衡)の遺体と、秀衡の棺の側に1体の首級が安置されています。この首級は寺伝では秀衡の三男忠衡のものとされていました。しかし昭和25年(1950)の御遺体調査で、前頭部の中央から後頭部に達する直径1.5cmほどの穴が貫通していたことが確認されました。そして、『吾妻鏡』の記述で頼朝が泰衡の首を鉄釘で打ち付けたとあるのと符合するため、現在は泰衡の首だったと判定されています。しかし、上記の仮説が事実としたら、実は忠衡の首だった(寺伝が正しかった)となります。二人とも秀衡の実の息子ですので、DNA検査してもどちらか特定はできないのですが。

 秋田県大館市二井田に錦神社があります。道路わきにひっそりと建つ小さな神社です。これは、贄の柵で自害したとされる泰衡の首のない遺体を、地元の人々が錦の直垂(ひたたれ)で包んで埋葬したところ、やがてその墓が、「にしき様」と呼ばれて、錦神社となったものだそうです。泰衡の死から800年以上たった現在も、社は地元の人々によって清掃が行き届いており、毎年旧暦の9月3日(泰衡の命日)には「にしき祭」が行われているそうです。この話は、奥州藤原氏が、領民に支持され慕われていた証として伝えられています。しかし実は、泰衡の逃走を隠すために、河田次郎が地元の人々に、泰衡が死んだと見せかけるよう指示したという見方もできます。いずれにしても、泰衡のために800年以上も錦神社を守り続けている地元の人々の思いは、今も消えることなく続いています。

 さてそろそろ、「泰衡は、本当にダメ男だったのか?」という疑問に対して、答えてみましょう。『吾妻鏡』によれば、泰衡は小心で頼朝軍の侵攻に周章狼狽して何ら対抗手段も討てずに逃げ回り、ついには信頼していた部下にも裏切られ、藤原氏を滅亡に追いやったダメ男ということになります。しかし彼は、秀衡の死後少なくとも1年半の間は父の遺言を守り、鎌倉軍との戦いの準備を進めていました。阿津賀志山や石那坂に大規模な空堀や土塁を築き防衛線としました。またこの時期、義経も鎌倉との戦いに備えて兵を集めるなど協力体制が出来ていたと思われます。唯一ミスをしたとすれば、頼朝の圧力に屈して義経を自害に追い込んだことです(しかしこれについても、杉目太郎行信という男が身代わりとなっていて、義経は生きていたという言い伝えがあります。焼首だったので、鎌倉方は首実検が出来なかったといいます)。阿津賀志山の決戦で兄の国衡軍が頼朝運に大敗したのは、戦略上の問題だったと思われます。最後に泰衡が、平泉館に火を放って北へ逃走したのは、蝦夷が島(北海道)に渡り、再起を期すためだったと考えられます。また、奥州の平和を象徴する仏教都市平泉を戦火に巻き込みたくなかったという思いもあったのかもしれません。奥州藤原氏滅亡後、中尊寺経蔵別当心蓮らが、頼朝に中尊寺や毛越寺などの保護を訴えた「寺塔已下注文(じとういげのちゅうもん)」は、頼朝の指示によって書かれたといわれますが(『吾妻鏡』より)、実は泰衡が平泉を去る直前に、平泉の町を守るために心蓮らに指示していたとみることもできます。泰衡は決して愚鈍な男ではなかったと考えます。実際平泉の全盛期をつくりあげた三代秀衡が、愚鈍な男を後継者に指名するはずがありません。秀衡には、泰衡の他に5人の息子がいたのですから。ただ、平氏を滅ぼし勢いを増した頼朝軍の圧倒的な戦力と、源頼義、義家以来の源氏の宿願(奥州支配)が、藤原氏を滅亡させたのだと思います。

(追)さて、北へ逃げた(とすると)泰衡はどこに向かったのでしょうか。一つめの候補は十三湊(とさみなと:青森県五所川原市)です。当時この地域は、秀衡の弟十三秀栄(じゅうさん ひでひさ)が支配し、福島城を構えていました。さらには前九年の戦いで敗れた安倍貞任の一子高星丸(たかあきまる)が津軽に逃れ、安東氏を起こしこの地に住みついたたといわれます(安東氏の出自については諸説あり)。泰衡はおそらく秀栄のもとに身を寄せたのではないかと思われます。なお、安貞3年(寛喜元年:1229)、安東氏は十三氏を滅ぼし、福島城を手中に収めます。以後15世紀中ごろに南部氏に北海道へ追われるまで、安東氏がこの地を支配し、いわゆる「幻の中世都市」を築いたとされます。

 もう一つの候補は蝦夷が島(北海道)です。最近の遺跡調査の結果、北海道の苫小牧や千歳に近い勇払(ゆうふつ)郡厚真(あつま)町宇隆(うりゅう)1遺跡には、12世紀半ば、平泉から派遣された人々が移り住んでいたことがわかってきました。それは、遺跡から出土した常滑(とこなめ)窯の壺が、鑑定の結果12世紀(1151~75年)に作製され平泉から持ち込まれたものと判明されたからです。さらにはその壺は経塚に置かれ、経典を納めた経筒を入れる容器の可能性が高まってきました。この事は、この地に移り住んだ人々は、仏教を信仰する人々で、その中には僧侶もいたことを示唆しています。蝦夷が島に渡った泰衡は、彼らの住む地に入り、頼朝が仕掛けた奥州征伐で亡くなった人々を供養しつつ、再起を期していたのかもしれません。しかし、残念なことに泰衡の名は、その後の歴史には一度も現れることはありませんでした。


この記事は、以下の文献を参考にして作成しました。

  • 高橋 崇著『奥州藤原氏』(中公新書)
  • 斉藤利男著『平泉(北方王国の夢)』(講談社)
  • 楠木誠一郎著『謎の迷宮入り事件を解け』第一章 死体は語る!(二見書房)
  • 井沢元彦著『逆説の日本史』第二章 源義経と奥州藤原氏編(小学館)
  • 高橋克彦著『炎立つ』(講談社)


このページの先頭に戻ります

このページの先頭に戻ります

popup image