ー甲斐健の旅日記ー

銀閣寺/政権を投げ出した文化人足利義政が築いた寺院

 銀閣寺(ぎんかくじ)は、京都市東山区にある寺院で、相国寺(しょうこくじ)の山外塔頭(たっちゅう)寺院です。正式名は慈照寺(じしょうじ)、山号は東山(とうざん)といいます。開基は室町八代将軍足利義政、勧請(かんじょう)開山が夢窓疎石(むそうそせき)です。

 義政の父である六代将軍義教(よしのり)が暗殺され、後を継いだ兄の義勝も若くして病死したため、14歳の義政に第八代将軍職が巡ってきたのは、宝徳元年(1449)のことでした。この義政の治世は、難問が山積みの時代でした。関東管領(かんれい)の上杉憲忠が暗殺されたことにより、関東統治機構が二つに分裂する(古河公方と堀越公方)という問題や、皇室が分裂して出来た南北朝は統一されたのですが、南朝の残党が抵抗をやめないという問題、有力大名家の後継争いによる内紛騒動などを抱えていました。さらに追い打ちをかけるかのように、異常気象による大飢饉が発生しました。この飢饉は相当にひどかったようで、洛中だけでも8万人の餓死者が出たといわれています(長禄・寛正の飢饉;ちょうろく・かんしょうのききん:1459~61年)。義政は将軍職が嫌になったのでしょうか、妻の日野富子との間に子がないため、出家して浄土寺の住職だった弟の義尋(よしひろ)を説得して還俗(げんぞく)させ、後継者にしようと画策します。結局、有力大名だった管領細川勝元が後見人になるという約束のもと、義尋は還俗し名を義視(よしみ)と改め、京の今出川に屋敷を構えました(今出川殿と呼ばれるようになります)。ところが、これがとんでもない結果を引き起こすことになります。何とその翌年、妻の富子に男の子が出来たのです(義尚:よしひさ)。もちろん義政の子です。こうなると、母の富子は何としても自分の息子を将軍にしたいと義政に詰め寄ります。板挟みになった義政は、結局将軍をやめるにやめられない状況に陥ってしまいました。一方富子は、義視の後見人細川勝元に対抗するべく、自分の息子にも後見人を立てます。それが山名宋全です。かくして日本未曾有の大乱の火種が出来上がっていったのです。この対立をもとにして、それに有力大名の後継争いによる内紛が加わり、全国の大名を巻き込んだ戦いに発展していきました。こうして、足掛け11年にわたって戦われ、京の町を灰燼に帰した応仁の乱が勃発したのです(応仁元年:1467年)。東軍の大将は細川勝元、西軍の大将は山名宋全でした。

 この応仁の乱も、文明6年(1474)に、山名宋全と細川勝元が相次いで病死したころから、収束方向に向かうのですが、その調停役となったのは、何と9歳の九代将軍義尚でした。義政は、この前年、将軍職を投げ出して、息子の義尚に譲位していたのです。そして、新邸(小河邸:おがわてい)に一人で移り住んでしまいます。ここで義政は、以前から考えていた、自分のための山荘造営に取りかかります。まず、応仁の乱で焼けた浄土寺周辺の土地を手に入れ、山荘建設計画を実行に移します。東山殿と呼ばれた大邸宅です。文明15年(1483)には常御所が出来、義政はそこに移り住みます。その後、着々と諸堂が整い、長享3年(1489)には銀閣(観音堂)が上棟されました。

 義政は、政治家としては今一つだったといわれますが、建築、造園および芸術に大いに関心があって、見る目もありセンスもよかったといわれます。実際、造園の善阿弥、水墨画の相阿弥、能の音阿弥らを大切に扱ったたといいます。彼らは河原者(かわらもの)と呼ばれた身分の低い被差別階級であり、本来は義政と口を利けるような身分ではありませんでした。しかし義政は、善阿弥たちを座敷に上げ、庭をいかにして美しく造るかなどを、直接語り合ったといいます。そういう意味では、身分の貴賤にとらわれず、職人の技や技術を尊重するという一面もあったのかもしれません。その義政も、この東山殿の完成を見ることなく延徳2年(1490)に病気で亡くなりました。享年55歳でした。生前に詠んだ歌が何首か残されています。

  何事も夢まぼろしと思ひ知る 身には愁ひも悦びも無し

 義政の死後、その遺言によって東山殿は禅寺となり、相国寺から住持を迎え、寺号も義政の法号から取って慈照寺と名付けられました。さらに、足利初代将軍尊氏が深く帰依(きえ)していた夢窓疎石(すでに故人)を勧請開山としました。

 その後、天文19年(1550)、三好長慶と15代将軍足利義昭との戦いによる戦火で、銀閣寺は銀閣(観音堂)と東求堂(とうぐどう)を残して悉く焼失してしまいました。そして、荒廃していったといいます。これを復興させたのが、徳川家康の家臣、宮城丹波守豊盛でした。慶長20年(1615)に大改修が行われ、禅宗風の趣が取り入れられたといいます。現在見る姿は、この時の改修によるものです。また、銀閣という名称は、義満が建立した金閣と対比して、江戸時代にそう呼ばれるようになったそうで、建物が銀箔でおおわれているわけではありません。

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 銀閣寺へは、京都駅からですと、市バス100系統(清水寺へ行く人も乗るのでいつも混んでいますが、本数も多いです)に乗って、銀閣寺前で降ります。参道を東に200mほど歩くと、総門に出ます。この総門をくぐると受付があり、拝観料を払うと、「銀閣寺御守護」と書いたお札を手渡されます。これが入場券代わりになります。総門と中門をつなぐ道は、白砂敷きの道で両側が高い生垣の銀閣寺垣で囲まれています。よく見ると、左(東)側は、下から石垣、竹垣、椿の生け垣の三段となっていますが、右(西)側は、石垣の上に椿の生け垣が二段のっている構成となっています。ここから境内の様子は全く見えません。すぐにでも拝観したいという人々の心をいったん静めさせようという演出なのでしょうか。

 中門から境内に入ると、白砂をならして太い筋文様を入れた銀沙灘(ぎんしゃだん)と円錐形の上部を切り取って円錐台形の形に白砂を盛り上げた向月台(こうげつだい)が目に飛び込んできます。銀沙灘は銀色の砂で灘(なだ:急流)を表現しているとされ、向月台は、東山に昇る月をこの上に座って待ったという言い伝えから名づけられたといいます。いずれも江戸時代後期に造られたものといわれています。境内の南西、錦鏡池(きんきょうち)の前に建つのが銀閣(観音殿)です。長享3年(1489)の上棟です。木造二階建て、宝形造(ほうぎょうづくり)杮葺き(こけらぶき)の屋根の頂上に銅製の鳳凰が置かれています(ただしこの鳳凰は、江戸後期に宝珠から置き換えられたものだという説もあります)。銀閣には過去一度も銀箔が貼られた形跡がないことが、最近の調査(平成19年)で明らかになっています。また、上層部の内外は黒漆塗りであったことがわかっています。

 銀閣の初層は「心空殿」と称し、住宅様式の造りになっています。外周は、壁の下半分に板材等を張りめぐらせた腰壁(こしかべ)入りの障子窓と土壁とでおおわれています。上層は、「潮音閣」と称し、禅宗様の仏殿風の造りとなっています。南面は中央に桟唐戸(さんからど)、両側に花頭窓(かとうまそど)、北面は中央に桟唐戸、両側は板壁になっています。東西両面には出入り口はなく、それぞれ3個の花頭窓が配されています。また、上層内部には観音菩薩像が安置されているそうです。

 銀閣の北に庫裏(くり)方丈が並んで建っています。方丈は銀閣寺の本堂であり、江戸時代中期の建立とされます。一重入母屋造(いりもやづくり)杮葺き(こけらぶき)の建物です。内部には、本尊の釈迦如来像が安置されています。また、与謝蕪村や池大雅の襖絵なども収蔵されています。

 方丈の東側に位置するのが東求堂(とうぐどう)です。文明18年(1486)に建立されました。一重入母屋造、檜皮葺(ひわだぶき)の建物です。東求堂はもともと義政の持仏堂(じぶつどう)として建てられ、西方浄土の主阿弥陀如来立像を安置しています。「東求」とは「東に居て西の浄土を求める」という意味で、義政自身、阿弥陀如来の住む極楽浄土を求めていたのかもしれません。一方、仏間正面には、両開きの桟唐戸(さんからど)を配し、その両脇が腰壁で連子窓(れんじまど)を設けるという禅宗風建築となっているほか、東求堂周囲の庭園も禅宗風であるところが、義政の特異な感覚(善いものは宗派にこだわらず何でも取り入れる)を表しているともいえます。北東にある四畳半の部屋は、同仁斎と呼ばれます。違い棚や、書院窓に造りつけた机の代用となっている棚(出文机:いだし ふづくえ)などが設けられ、後の書院造の源流であったといわれます。「同仁」とは、中国の名文家の一人、唐の韓愈(かんゆ)の「聖人は一視して同仁す(聖人は身分の貴賤に関わらず同じ人(仁)として扱う)」という語句から引用したといわれます。確かに義政は、趣味の世界では職人たちを大切に扱い、「一視同仁」を実践したといえるでしょう。なお、東求堂内部は、春と秋の特別公開日に公開されます。

 東求堂の南から坂道を登っていくと、山道のような遊歩道になります。その一番高いところに展望所があります。ここから、銀閣寺の境内が一望できます。

 室町八代将軍足利義政が隠棲したとされる銀閣寺(慈照寺)は、どこまでも慎み深い奥ゆかしさに包まれていると感じました。しかしその中で、宗派を超えて良いものは取り入れるという自由な発想と、身分を超えて優れた才能を愛でるいう、義政なりの自己主張が感じられる銀閣寺境内の風景でした。



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