ー甲斐健の旅日記ー

毛利敬親/長州藩13代藩主・毛利敬親は、本当はすごい殿様だった?

 長州藩13代藩主・毛利敬親(たかちか)は、激動の幕末期に長州藩主となり、まずは藩財政を立て直し、幕府からの度重なる圧力にも絶え、有能な藩士と共に明治維新を成し遂げた最大の功労者の一人です。しかし、何故かその評価は人によって分かれます。敬親は、家臣の意見に対してほとんど異議を唱えることなく、常に「うん、そうせい」と答えていたため、「そうせい侯」と呼ばれていたといいます。そのため、政治的にはあまり賢明な藩主ではなかったという評価があります。さらには、定見のない凡庸な藩主、暗愚な藩主という言われ方もされます。しかしながら、いかに部下が優秀であっても、上に立つものが凡庸で定見のない人物であって、明治維新のような大業を成し遂げることが出来たでしょうか。たまたま、運が良かっただけなのでしょうか。それを考えてみたいと思います。まずは、毛利敬親の略歴と幕末の長州藩の動きについておさらいをしてみます。

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 敬親は、文政2年(1819)2月、永代家老だった福原家の当主房純の養嗣子・房昌の長男として生まれました。幼名は猶之進、後に教明(のりあき)と改名しています。房昌は毛利家一門でしたが、父が部屋住みだったので福原家に養子に出されていました。しかし、藩主の実子がまだ幼かったため、同年11月、父の房昌が毛利本家に戻り、斉元と改名しました。文政7年(1824)、斉元は長州藩11代藩主となります。しかし、天保7年(1836)9月、父斉元が亡くなり、後を継いだ12代斉広(10代藩主斉熙の子)も就任後20日足らずで急逝してしまいました。そして翌年、教明(後の敬親)が斉広の養子となり、13代藩主に就任しました(敬親 19歳)。

 敬親 がまず手掛けたのは、財政再建を伴う藩政改革でした。天保10年(1839)、村田清風を登用して藩政改革を断行します。財政再建では、まず藩士の借金の利息を大幅に軽減しました(37年間で実質1割程度の利息として救済)。また、藩による特産品の専売制をやめ、商人による自由な取引を許可しました。その代り、商人に対して運上銀を課税しました。さらには、西国大名にとって商業・交通の要衝であった馬関海峡(関門海峡)に目をつけ、越荷方(こしにかた)を設置しました。これは、藩営の金融兼倉庫業です。日本海側の産物を、大坂での相場が安いときには馬関(下関)に留め置き、高値のときに売るなどして利益を得たといいます。これらの政策が成功して銀8万5千貫(約140万両:1両=銀60匁として)もあった赤字は解消し、藩財政は豊かになっていきました(100万石に相当する収入があったといいます)。教育・人材育成の面では、天保12年(1841)江戸に文武修行の場である有備館を建設し、嘉永2年(1849)には、藩校・明倫館を城下町の中心地へ移転し、規模拡張を実施しました。これに先立ち、天保11年(1840)には、当時11歳で藩校・明倫館の教授見習いとなっていた吉田寅次郎(後の松陰)を城に呼び、山鹿流兵学の講義をさせました(御前講義)。敬親はこの講義にいたく感心し、この後寅次郎を可愛がったといいます。

 村田清風によって始まった藩政改革は、その後、坪井九右衛門、周布(すう)政之助に引き継がれ、長州藩には、しばらく平穏な時代が続きました。しかし、嘉永6年(1853)、日本中を震撼させる事件が起こりました。マシュー・ペリー率いる、新型の大砲を搭載した4隻の軍艦が浦賀沖に現れたのです。これまでも、ロシアやアメリカの商船や軍艦が度々日本を訪れ、開国と交易を求めていましたが、そのたびに幕府はのらりくらりとかわして追い返してきました。しかし今回のペリーは、開国と交易を要求するアメリカ合衆国大統領の親書を携え、不退転の構えでした。幕府はやむなく国書を正式に受け取り、ペリーは「来年また来る」と言って日本を去っていきました。翌年幕府は、ペリーの強硬な姿勢に負けて、日米和親条約を締結して米国に対して開国しました。そして、その翌年、日露和親条約も締結することになったのです。

 さらに、安政5年(1858)、アメリカの強い要求に屈し、幕府は日米通商修好条約を締結し、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結びました(安政五カ国条約)。幕府の鎖国体制は完全に崩壊したのです。孝明天皇は、安政五カ国条約には反対し勅許を与えませんでした。幕府が、朝廷の意向を無視して開国を決めてしまったことが、外国からの侵略者は断固排除しなければならないとする攘夷運動をさらに過激化させたことは否定できないでしょう。さらに、「幕府は信用できない、天皇こそがこの国の王であるべきだ」とする尊王思想と結びつき、討幕運動へとつながっていきます。長州藩においても、吉田松陰の松下村塾の塾生であった久坂玄端(くさか げんずい)、高杉晋作、あるいは桂小五郎などが台頭してきました。

 このような情勢のなか、文久元年(1861)、長州藩の重臣・長井雅樂(ながい うた)が、「航海遠略策」を藩主・敬親 に建白しました。これは、「まず第一に、幕府は開国し朝廷は攘夷を唱えるという、国家を二分した状態は好ましくないので、公武合体で融和すべきだ。第二に、一度締結した条約を破棄し、異国を追い払えという要求は、どう見ても無理難題だ。むしろ開国し、欧米の技術を学んで国力を高め、欧米諸国と対等に渡り合えるようになるよう努めるべきだ。」という主張でした。しかし、長州の過激な攘夷論者は、これを理解せず、長井雅樂は暗殺されそうになりました。藩主・敬親は、初めは長井の主張に賛成していましたが、久坂や桂に説得され、藩論は次第に攘夷論に傾いていきました。結局、長井雅樂は失脚してしまいました。

 攘夷論が長州藩の方針となった文久2年(1862)、高杉晋作は、藩命により幕府使節随行員として清国(上海)に渡りました。この時高杉は、アヘン戦争でイギリスに敗れ植民地になりつつあった、かつての大国・清の実情を見て、「日本も危ない」という危機感を抱いたといいます。これが転機となり、単純な攘夷論者から、外国の優れた技術を学び、国力を増強することが先決だと悟ったといいます。奇しくも長井雅樂が主張した考え方に傾いていったといえます。しかし、国内で活動していた久坂玄端は、過激な攘夷論者のままでした。高杉が清国に渡った年の10月、久坂は、尊皇攘夷派の公卿・三条実美、姉小路公知らと江戸に入り、幕府に攘夷の実行を迫りました。この動きに抗しきれなくなった14代将軍・徳川家茂(いえもち)は、翌年3月、朝廷が発した攘夷実施の求めに応じて、家光以来の上洛を果たしました。そして、「奉勅攘夷」の決定が各藩に布告され、攘夷決行日は5月10日と決まりました。これを受けて長州藩は、同年4月、海防上の理由から藩庁を山口に移転しました。そして攘夷決行の日、久坂らは馬関海峡(現・関門海峡)を封鎖し、アメリカ商船とフランス・オランダの軍艦を砲撃しました。しかし、その後まもなく、アメリカ・フランスの軍艦に報復攻撃を受け、下関の砲台は壊滅的な打撃を受けてしまいました。欧米と長州藩との武力の差は歴然としていたのです。

 同年8月、薩摩藩・会津藩を中心とした公武合体派により、中川宮親王を擁して朝廷における尊皇攘夷派を一掃するというクーデターが勃発しました(八月十八日の政変)。まず、中川宮が参内して孝明天皇を説得し、天皇から中川宮に密命が下りました。まずは、会津・薩摩藩をはじめとする藩兵が、御所の九門を固めました。その後朝議が行われ、長州藩は堺町御門の警備を免ぜられ、京から追放されることとなりました。千人余りいた長州藩兵は、失脚した三条実美以下7名の公卿らと共に、長州へ下るしかありませんでした(七卿落ち)。

 元冶元年(1684)6月には、京の池田屋で、長州藩士を含む多くの攘夷派の志士が、新選組の襲撃によって討たれるという事件が起きました。何とか状況を打開し、長州藩の罪の回復を願った久坂玄端は、同年6月、朝廷への嘆願書を携えて、来島又兵衛・真木和泉らと諸隊を率いて京へ向かいました。しかし、同年7月には薩摩軍が京に入り、さらに幕府が諸藩に京都出兵の命を下したことから、京の町は一触即発の緊張状態となっていきました。朝廷もこの事態を憂慮し、長州藩に京から退去するよう命じました。玄端はこれに従う方針でしたが、来島ら過激な志士たちは譲らず、「進軍を躊躇するとは何事か」と玄端に詰め寄ったといいます。結局玄端も、説得をあきらめ開戦の決意をせざるを得ませんでした(禁門の変)。長州軍の兵数はおよそ2,000、反長州連合軍は2万とも3万ともいわれます。到底勝ち目のない戦いでした。来島らは、京都御所の蛤御門(はまぐりごもん)を攻め立て、会津藩と衝突し奮戦しましたが、薩摩藩の援軍が参戦すると総崩れとなり、来島は負傷し自決してしまいました。来島隊から少し遅れて御所に到着した玄端・真木らの隊は、鷹司輔煕(すけひろ)に朝廷への嘆願を要請するため、鷹司邸に近い堺町御門を攻めたてました。玄端は、鷹司邸の裏門から中に入り、朝廷への嘆願を要請しましたが輔熈はこれを拒否し、屋敷から逃亡してしまいます。もはやこれまでと悟った玄端は、寺島忠三郎と共に鷹司邸で刺し違えて果てました。享年25歳でした。

 禁門の変で御所に矢を向けたことで、藩主・敬親 に追討令が出され、その官位は剥奪されました。長州は「朝敵」になったのです。さらに同年8月には、長州藩の海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた英・仏・蘭・米の四カ国連合艦隊が襲来し、下関と彦島の砲台を砲撃し占拠するという事件が起きました(下関戦争)。長州藩にとっては、まさに「泣きっ面にハチ」の苦しい状況でした。この四カ国との和議交渉を任されたのが、脱藩の罪を赦免された高杉晋作(当時26歳)と通訳を担当した伊藤俊輔(博文)でした。高杉は、連合国からの要求はほとんど受け入れましたが、ただ一点彦島の租借だけは頑として拒否したといいます。「領土の期限付き租借」は日本の植民地化につながるという危機感が背景にあったといわれます。高杉は、日本の植民地化を水際で防いだ功労者だったのかもしれません。

 さて、禁門の変の直後(7月23日)、朝廷は幕府に対して長州征討の勅令を発しました。これを受けて幕府は、尾張藩・越前藩および西国諸藩から成る征長軍を編成しました。35藩から総勢15万人が動員されたといいます。同年8月、征長軍は敬親父子のいる山口に向けて進軍を開始しました。征長軍総督は、尾張藩・前々藩主・徳川慶勝、副総督は、越前藩主・松平茂昭でした。征長軍は、大坂城で軍議を開き、11月18日を攻撃開始日と定めました。一方窮地に陥った長州藩では、9月25日早朝から藩の運命をかけた会議が開かれていました。俗論派は、幕府に恭順の意を表明し降伏すべきだと主張し、正義派は、とりあえず恭順を装いながら、裏では軍備を充実して戦闘にそなえようと主張しました。双方の意見が拮抗して、結論が出そうにないと思われたとき、藩主敬親が初めて口を開き、「我が藩は幕府に帰順する。左様心得よ」と述べるとその場を後にしたといいます。この結果、幕府軍との直接対決という最悪の事態は免れましたが、藩主・敬親は山口から萩城に戻り謹慎となり、責任をとって三家老が切腹、四参議が斬首されました。また、「七卿落ち」で長州藩にかくまわれていた七卿の内五卿は九州五藩に預かりとなりました。なお、重臣・周布政之助も、禁門の変の責任をとって自害しました。これにより、正義派は力を失い、椋梨(むくなし)藤太ら俗論派が藩政を牛耳ることになりました。

 元冶元年(1864)12月、一旦九州に逃れていた高杉は下関に戻り、俗論派から藩政を取り戻すべく功山寺(下関市)で決起しました(功山寺挙兵)。しかし、最初に集まったのは、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊のわずか84名だったといいます。高杉らは、長州藩家老・根来親祐(ちかすけ)のはからいで物資調達のルートを確保し、18名の決死隊を編成して軍艦3隻の奪取に成功しました。高杉挙兵の報が萩に届くと、俗論派は、正義派の毛利登人、前田孫右衛門ら7名を野山獄に投獄し斬首しました。また、家老の清水清太郎も自刃を命ぜられました(四大夫十一烈士)。しかしこの事が、俗論派にとっては裏目に出ました。正義派の処刑に激高した諸隊が高杉らに味方していったのです。さらには、領民の多くが正義派を支持し、諸隊の宿泊する家屋や人夫、食料などの提供を積極的に行っていきました。そして、年が明けて1月、両軍は激突しました(大田・経堂の戦い)。この戦いは、正義派の勝利でした。勢いに乗った正義派の諸隊は山口にまで進撃し、俗論派の藩政府軍は総崩れとなりました。高杉たちのクーデターは成功し、藩政はまた正義派が担うことになりました。俗論派の首領・椋梨藤太(むくなし とうた)は捕えられ、同年3月野山獄で処刑されました。藩主・敬親は、藩庁を山口に戻し、諸隊の総督と長州三支藩の家老を召して「武備恭順(表向き幕府には恭順を装うが、いざという時のため、西洋の最新武器を導入し、また西洋式戦術を取り入れて軍備の近代化を推し進めるという両面作戦)」の対幕方針を高らかに宣言しました。

 ついに、長州藩の藩論は高杉ら正義派の主張する討幕・開国に固まりました。これ以降、藩の方針はくつがえることなく、明治維新へと突き進んでいきます。慶応2年(1866)1月には、坂本竜馬らの仲介により、激しく反目し合っていた長州と薩摩の同盟が成立しました。この交渉の過程で長州藩は、軍艦や最新の兵器を大量に薩摩藩名義で購入することが出来ました。この事が、同年6月の幕府による第二次長州征討を、長州藩が撃退できた要因の一つでした。この長州征討失敗で、幕府の権威は地に落ちたといいます。翌・慶応3年(1867)10月14日には、薩摩藩と長州藩に討幕の密勅が下されました。その前日、土佐藩が提出した大政奉還の建白書を受けて、徳川最後の将軍・慶喜は、京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を集め、大政奉還の諮問をしました。そして10月14日、ついに慶喜は大政奉還を決意しました。同年12月には、明治天皇による王政復古の大号令が発せられました。

 慶応4年(1868)、敬親 は上洛して明治天皇に拝謁し、左近衛権中将に任ぜられました。また、明治2年(1869)1月には、木戸孝允(桂小五郎)の要請もあり、他藩に先駆けて版籍奉還を受け入れました。同年6月には権大納言となり、家督を養嗣子の元徳に譲り隠居しました。そして明治4年(1871)3月、明治維新の大業を成し遂げた毛利敬親は、山口藩庁殿で亡くなりました。享年53歳でした。

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 幕末期における敬親と長州藩の動きについて長々と書きましたが、この過程の中に、毛利敬親という人物を知るためのキーポイントがいくつか隠されていると思います。まずひとつめは、村田清風の藩政改革に対する敬親のサポートです。清風は敬親よりも36歳も年上で、9代藩主斉房から13代藩主敬親まで5代の藩主に仕えました。藩政改革の必要性を早くから感じていて、11代斉元の時代には「此度談」を書いて、藩政改革を強く訴えていました。しかし、その内容があまりにも厳しすぎるとして受け入れられず、清風は職を辞して隠居していました(清風50歳)。その後、敬親が藩主になると、清風はまた呼び出されて藩政改革の任に当たることとなりました。今度も、藩内から強い反対意見が浴びせられました。しかし敬親は、それらの批判的意見には耳を貸さず、清風を信頼し、思うがままに施策を実行できるようサポートしました。財政改革に際しては、倹約令や奢侈禁止令を出し、自ら質素倹約を実践しました。改革断行のために、清風に大きな権限を与え財政改革の総元締めとしました。そして敬親は、清風の改革を支援するため、藩政改革のための四つのビジョンを示しました。その内容は、「赤字財政の立て直しがすべてに優先し、そのために殖産興業を奨励する。外国勢力の侵犯に対する防備体制を打ち立てる。勤勉誠実な藩風を取り戻す。」というものでした。天保11年(1840)、藩政改革のための御前会議が城内で開催されました。この会議で、清風が意見として述べた「流弊(りゅうへい)改正意見7か条」は、かなり厳しいもので、藩主に対する厳しい批判、意見および注文もありました。しかし、藩主・敬親は、黙ってうなずくように清風の意見を聞いていたといいます。こうして、藩政改革の大方針が決定されました。この会議は、公開主義を貫いた極めて民主的なものだったといいます。藩主・敬親の、藩政改革に対する並々ならぬ意気込みが感じられます。結局この清風の改革は成功しました。8万貫(約16万石相当)あった借金はすべて精算され、長州藩の収入は100万石の大名並みにまで増えたといいます。清風の革新的な施策と藩主・敬親の絶大なサポートが長州藩を救い、明治維新実現に大きな貢献をするための経済的基盤をつくりあげたのです。こんなことが出来る殿様が、「定見のない暗愚な殿様」なのでしょうか。むしろ、優れた人材を見抜く鋭い洞察力を持ち、伝統的な価値観にとらわれず、目的遂行のために最高のパフォーマンスを発揮できる人物像が浮かび上がってきます。

 二つ目のポイントは、長井雅樂が提案した「航海遠略策」に対する敬親の対応です。長井の主張は、「朝廷と幕府が、『開国だ、攘夷だ』と言って反目するのではなく、公武合体で融和すべきだ。一度締結してしまった条約を破棄し、外国船を追い払うのは無理な相談だ。むしろ開国して、欧米の技術を取り入れて国力を高め、対等に渡り合えるように努めるべきだ。」というものでした。敬親は初め、この策に大いに乗り気だったといいます。長井の建白を藩論として採用し、長井に、朝廷と幕府との周旋をはかるよう命じました。長井は、朝廷と幕府の間で意見の一致をみるよう動きました。孝明天皇も、一旦は長井の説を支持したといいます。しかし、長州藩に政局の主導権を握られることを恐れた薩摩藩の横やりや、桂小五郎・久坂玄端ら急進的な尊皇攘夷派の反対もあって、長井の調整は失敗に終わり、長井は失脚しました。そして、長井の説は朝廷をいたずらに混乱させるものだとして、切腹を命じられました。享年45歳でした。一度は長井の説を支持していた敬親が、最後には長井を見捨ててしまった格好です。この事が、敬親をして、「無定見で、家来の言いなりになっているダメな殿様」と評価する理由の一つになっていると思われます。藩主敬親の苦しい胸の内は、今となっては誰にもうかがい知ることはできないでしょう。ただし、長井を生かすために桂や久坂を排除すれば、長州藩は完全に二分してしまいます。そして公武合体を推進する佐幕派(俗論派)が藩政を牛耳ることになります。下手すれば、藩論に従わないとして、桂や久坂が処刑されたかもしれません。敬親は、長井が言う「開国して国力をつけることが先決だ」という意見には同調したものの、公武合体によって幕府の体制を存続させようとする保守派よりも、幕府を倒して朝廷を中心にした新しい政治体制を打ち立てようとする桂たちを選んだのではないでしょうか。この決断が、結果的には的中し、長州藩は明治維新の最大の功労者になりました。

 三つ目のポイントは、第一次長州征伐において、征長軍が長州にせまりくる中で行われた御前会議での敬親の発言です。幕府に恭順して降伏すべきだという俗論派と、とりあえず恭順はしても、裏では軍備を充実させて戦闘に備えるべきだという正義派の意見が真っ向から対決し、結論が出そうにないと思われたとき、藩主敬親が口を開き、「我が藩は幕府に帰順する。左様心得よ」と命じたのでした。この決定により、征長軍と長州藩との直接の衝突はなくなりましたが、禁門の変に関わったとして3家老が切腹、4参議が斬首されました。また、重臣・周布政之助も責任をとって自害しました。長州藩の藩政は、椋梨藤太を中心とする俗論派が担うこととなりました。この時敬親が「幕府への恭順」を命じたことも、見方によっては政策に一貫性がないと批判されそうです。しかし、幕府が編成した征長軍には薩摩藩も加わるなど、圧倒的な戦力であったといいます。さらに長州藩にとっては、英・仏・蘭・米四カ国連合艦隊によって下関の砲台などが壊滅的な被害を受けた直後のことであり、戦力的にもかなり疲弊していました。征長軍がまともに攻めてきたら、撃退することはできなかったでしょう。たとえ俗論派の台頭を許す結果となろうとも、この場は幕府に恭順の意を示し、長州藩を護る必要があったのです。敬親にとって幸運だったのは、この直後に高杉晋作らのクーデター(功山寺挙兵)が成功し、俗論派を一掃して正義派(改革派)が政権の座に返り咲いたことです。その後、坂本竜馬らの仲介で薩長同盟が成立すると、長州藩は、薩摩藩を通じて大量の最新式兵器をイギリスから購入することが出来るようになりました。そして軍備を整えた長州藩は、幕府による第二次長州征討を見事に撃退して、明治維新へと突き進んでいったのです。それが可能となったのも、敬親の「一時撤退」の決断があったからという見方もできます。

 最後のポイントは、慶応4年(1868)4月、木戸孝允(桂小五郎)が版籍奉還を要請するため敬親を訪ねたときの敬親の言葉です。この時木戸は、毛利家が率先して版籍奉還を受け入れ、範を示してほしいと訴え、敬親は了承したといいます。役目を終えて立ち去ろうとした木戸を、敬親は、「ちょっと待て」と呼びとめました。そして、「今は戦乱の世の中だから人々は気が荒立っている。これほどの変革を行なうと、どういう事が起こるかわからないから、(木戸が)京都に行った上で、その時機を見計らってくれるように。」とアドバイスしたといいます。ここにも敬親の処世観が感じ取れます。「大事を為すには、機を見る必要がある。決して焦ってはいけない。しかし、今だと思ったら、全力で突き進むのだ。」というところでしょうか。実際、薩長土肥4藩による版籍奉還の建白書が提出されたのは、翌・明治2年(1869)1月で、版籍奉還が実施されたのは同年6月でした。

 以上みてくると、長州藩13代藩主・毛利敬親は、決して凡庸なお殿様ではなかったといえます。むしろ人材を見抜く力、柔軟性を持った考え方、状況を正しく分析して判断する力など、極めて聡明な藩主だったと思います。特に、家来を信頼しつつも最大限のサポートで支援する姿勢に見られるように、家来を育てながらも、最大限のパフォーマンスを発揮させるという、独特なリーダーシップがあったのではないかと思えるのです。吉田松陰が若者たちの志(こころざし)に火をつけたとすれば、敬親はその志を育て花開かせた偉大な藩主ということになります。明治維新は、毛利敬親なくしては、決して実現されなかったのではないでしょうか。現代社会でも、このような上司がいたらいいなと思うのは、私だけでしょうか。


この記事は、以下の文献を参考にして作成しました。

  • 清水義範著『偽史日本伝』“どうにでもせい”(集英社)
  • 平池久敏著『長州藩における村田清風の天保改革』(山口県大学共同リポジトリ)
  • 『毛利敬親』(Wikipedia)


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