ー甲斐健の旅日記ー

榎本武揚/幕末の「英雄」榎本武揚の評価が低いのはなぜ?

 榎本武揚(えのもとたけあき)といえば、旧幕府軍と新政府軍が戦った戊辰戦争(ぼしんせんそう:慶応4年~明治2年)において、旧幕府海軍副総裁として最後まで新政府に抵抗して戦った武人です。旧幕府軍の軍艦など8隻の艦隊を率いて品川沖から脱走した榎本は、東北経由で箱館(現在の函館市)にたどり着きました。新撰組副長の土方歳三らと五稜郭(ごりょうかく)を占拠し、「蝦夷共和国」樹立を宣言しました。しかし、明治2年(1869)5月、新政府軍の総攻撃を受け、榎本らは降伏し(土方歳三は戦死)、戦いは終結しました。榎本ら旧幕府軍の幹部は東京に送られ、辰の口(現・東京丸の内)の牢に収監されました。

 ここまでは、日本史の教科書に書いてあり、多くの方がご存知だと思います。しかし、その後の榎本の半生については、ご存じない方が意外と多いのではないでしょうか。2年半の牢獄生活ののち、明治5年(1872)1月に特赦で出獄した榎本は、北海道開拓使を手始めに、駐露特命全権大使として「樺太・千島交換条約」の締結を実現するなど、目覚ましい活躍をしています。さらに、駐清特命全権大使を経て、第一次伊藤博文内閣の逓信大臣、黒田清隆内閣の文部大臣などを務め、新生日本の国造りに多大な貢献をしました。

 これだけの実績を残しながら、明治以降の榎本の功績は、なぜかあまり知られていないように思います。その理由は、榎本が転向者であるといいうことでしょうか。日本的な武士道においては、「ニ君に見えず(まみえず)」の精神が美徳とされます。徳川幕府の海軍副総裁で、戊辰戦争で最後の最後まで旧幕府軍のリーダーとして新政府に抵抗した「英雄」が、薩長を中心とした新政府に、尻尾を振ってすりより、要職にありついたというイメージが榎本の評価を著しく低くしているのかもしれません。さらに、この評価を一般に定着させた張本人が福沢諭吉でした。彼は、その著書『痩我慢(やせがまん)の説』で、榎本武揚と勝海舟の「変節」ぶりを厳しく批判しています。「二人とも、徳川幕府より禄を得て要職にあったにもかかわらず、維新後には仇敵だった新政府に仕え、榎本などは立身出世の街道を歩んでいる。これらは、武士の風上にも置かれぬことだ。」という具合です。

 さて、榎本武揚は本当にどうしようもない変節者で、評価に値しない人物だったのでしょうか。彼の生きざま、人生の岐路での決断は、間違っていたというのでしょうか。考えてみましょう。

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 榎本武揚は、天保7年(1836)江戸下谷(したや:現台東区)御徒町(おかちまち)で生まれました。幼名は、釜次郎(かまじろう)です。父は備後国箱田村(現・広島県福山市)生まれの郷士で、若いころは、箱田良助と名乗っていました。17歳の時江戸に出た良助は、天文学(正しい暦の作成)を志します。そして伊能忠敬の弟子になりました。忠敬自身も当時は「日本の暦を正しくしたい」という思いを強く持っていたといいます。文化6年から文化11年(1809~14)にかけて、詳細な日本地図作成のために行われた第7,8次測量では、忠敬の筆頭内弟子として九州全域を一緒に回り、「大日本沿海輿地全図(伊能図)」作成に参加した経歴を持っています。その後、大枚をはたいて御徒町の榎本家の株を買い、榎本円兵衛武規と名乗りました。円兵衛は、西の丸の御徒士目付(おかちめつけ)として11代将軍家斉の御付となり、将軍家の御用を勤めあげました。この父の影響を受けて、釜次郎も「強烈な幕臣意識」と「科学者としての資質」を兼ね備えた人物に育っていきました。

 釜次郎は、15歳の時に昌平坂学問所(神田湯島にあった幕府直轄の学問所)に入学します。しかし成績は最低の「丙」でした。修了後、箱館奉行・堀利熙(としひろ)の従者として蝦夷地の箱館(現・函館市)に赴任しました。これが、釜次郎と蝦夷地の最初の関わりでした。その後21歳で昌平坂学問所に再入学した釜次郎は、同僚の父親で大目付の伊沢美作守政義のコネで、長崎海軍伝習所に入学することになります。長崎海軍伝習所は、安政2年(1855)に、徳川幕府が海軍士官養成のために設立した学校です。釜次郎は2期生でした。ここで釜次郎は、海軍伝習生だった勝麟太郎(勝海舟)に出会います。オランダ人教師(カッテンディーケやポンぺ)から機関学や化学などを学んだ釜次郎は、次第に頭角を現していきます。そして、安政5年(1858)には江戸に開設された築地軍艦操練所の教授となりました。釜次郎が、武揚と改名したのはこの時です。

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 武揚の人生にとって大きな転機となったのは、オランダ留学だったと思われます。幕府は。一時、アメリカに軍艦3隻を発注するとともに、榎本ら留学生を派遣することとしていましたが、南北戦争が激化したためアメリカ側から断られました。そこで幕府は、オランダに軍艦1隻を発注するとともに、榎本ら9名の留学生と、水夫や船大工などの職人をオランダに派遣することにしました。文久2年(1862)6月、一行は咸臨丸(かんりんまる)で品川沖から出発しました。長崎でオランダ船に乗り換えた一行は、途中で南大西洋に浮かぶセントヘレナ島に寄港します。セントヘレナ島は、「英雄」ナポレオン1世が失脚後に幽閉された島です。榎本武揚はナポレオンを尊敬していたようで、この時「英雄」の墓を前にして、(俺もナポレオンのような英雄になりたい)と思ったといいます。そしてそのために、オランダで海軍振興のための知識と技術を身につけようと、心に誓いました。榎本は、それまで書いていた『渡蘭日記』を、この日を境に中止しました。

 オランダで榎本は、長崎伝習所時代の恩師だったカッテンディーケ(当時海軍大臣)やポンぺと再会します。ここで榎本らは、船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法などを学びました。特に、フランスの国際学者オルトランが書いた『海の国際法規と外交』については熱心に学びました。その熱心さに心打たれたオランダ人講師から、日本に帰るときに手土産としてオランダ語訳の同本を贈呈されました。この本が後に、榎本の命を間接的に助けることになるのです。榎本ら留学生がオランダに到着してから3年4か月後の慶応2年(1866)7月、戦艦「開陽」が完成しました。同年10月、榎本らは開陽に乗って帰国の途につきました。横浜港に着いたのは、慶応3年(1867)3月26日のことでした。

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 榎本がオランダに留学していた5年の間に、徳川幕府を取り巻く環境は激変していました。長州藩を中心とした尊王攘夷運動は過激化し、幕府と長州藩との関係は悪化の一途をたどっていました。そのような中で、土佐藩脱藩浪士・坂本竜馬の仲介で薩摩藩と長州藩が同盟を結びました。薩摩藩を仲介として最新の軍備を整えた長州藩は、幕府軍による第二次長州征伐を撃退し、幕府の権威は地に落ちた感がありました。その状況下で、第14代将軍徳川家茂が亡くなり、15代将軍に一橋慶喜が就きましたが、薩長の同盟関係はさらに強化され、倒幕の密約がなされるまでに至りました。榎本が帰国したときは、まさに徳川幕府がいつ倒れるかもしれない瀕死の状態だったのです。そして、榎本らが帰国して半年余りの慶応3年(1867)10月14日、将軍徳川慶喜から「大政奉還」が奏上されました。しかし、あくまでも徳川幕府の廃絶と天皇による新政府の成立を目指す薩長や一部の公家(岩倉具視など)は、同年12月9日に「王政復古の大号令」を発し、徳川家の諸領地を朝廷へ返納すること、および官位の返還を命じました。事ここに至って両者の対立は決定的なものとなりました。

 慶応4年(1868)1月2日、幕府の軍艦2隻が兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃し、鳥羽・伏見の戦いが幕を下ろしました。榎本武揚も、開陽を旗艦とする艦隊を率い、大坂湾内で薩長側の軍艦と交戦し自沈させたといいます。このとき榎本は、(少なくとも海戦では、薩長といい勝負ができる)と感じていたといいます。しかし、旧幕府軍にとって信じられないような意外な事態が発生します。同年1月6日夜、大坂城にいた将軍慶喜が、味方の軍を見捨てて、少数の側近とともに戦艦・開陽に乗って江戸へ逃げ帰ってしまったのです。これにより旧幕府軍は戦意を失い、撤退していきました。1月7日に大坂城に入城した榎本は、将軍不在を見て、城に残された武器や備品および金18万両を運び出し、負傷兵らとともに富士山丸で江戸に引き揚げました。このとき運び出した金が、のちに榎本艦隊の軍資金として使われたという説があります。いずれにしても、将軍慶喜は、なぜ部下を見捨てて逃げ帰ってしまったのでしょうか。形勢不利とみて、ここはひとまず退却して体制を立て直そうとしたという見方や、自分の母が、有栖川宮織仁親王(ありすがわおりひとしんのう)の娘で天皇家にゆかりがあるため、朝敵の汚名を恐れて天皇を擁した官軍と戦うことを躊躇したなど諸説あります。いずれにしろ、この慶喜の行為を見て、(もはや、徳川の世は終わった・・・)と榎本が思ったとしても不思議ではないでしょう。(しかし、薩長の勝手にはさせないぞ。なぜなら、俺は「日本のナポレオン」になるのだから・・・・。)

 江戸に戻った榎本は、海軍副総裁に任ぜられました。榎本は、あくまでも官軍との徹底抗戦を主張しましたが、将軍慶喜は恭順の姿勢を崩さず、水戸にて謹慎することになり、江戸城は官軍に無血開城されました(慶応4年/明治元年4月11日)。これを不服とした榎本は、開陽をはじめ軍艦4隻と運送船4隻の艦隊を編成して、品川沖から北へ脱走しました。このとき榎本は『檄文』を公表し、また『徳川家臣大挙告文』を勝麟太郎に届け、勝から新政府に渡してくれるよう頼んだといいます。その中に次のような一節があります。「我らは先だってから、不幸のどん底に落とされた徳川家臣のために、蝦夷島開拓についての 許可を願い出ていたが、許可されない。こうなってはもう、戦うしかないー」これを見ると、この時点ですでに蝦夷地開拓の明確な意思を榎本は持っていたといえます。

 さて艦隊は、房総沖で暴風雨に襲われ、咸臨丸と美嘉保丸が損傷し脱落しました。このとき伊豆の下田に避難し、その後船体修理のため清水港に寄港した咸臨丸を新政府軍が襲撃し、30数名が殺害され遺骸が海に投げ捨てられました。その状況を見るに忍びず、遺体を収容し手厚く弔ったのが、清水の侠客・山本長五郎(次郎長)だったといいます。

 榎本らはいったん仙台に寄港しました。しかし、仙台藩が新政府に恭順の意を表明し、「奥羽越列藩同盟」はすでに崩壊していました。しかしここで、桑名藩主・松平定敬、旧幕府陸軍総裁・大鳥圭介、新撰組副長・土方歳三はじめ、旧幕臣や仙台藩脱藩兵らを加えた旧幕府軍は、約3,000名の大部隊となりました。さらに、幕府が仙台藩に貸与していた3艦が加わり、合計9隻の艦隊で蝦夷地に向かうことになりました。仙台を離れる際榎本は、塩竈(現・宮城県塩釜市)にいた奥羽鎮守総督宛てに、「旧幕臣の救済とロシアの侵略に備えるため蝦夷地を開拓することが目的であって、決して朝廷に弓引くものではない」という趣旨の書面を送っています。

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 10月20日、蝦夷地に着いた榎本艦隊は、箱館の北方鷲の木(現・北海道森町)に上陸すると、二隊に分かれて箱館を目指しました。そして6日後、新政府軍を追い出し、箱館五稜郭を占拠しました。五稜郭は、箱館開港後に徳川幕府が開設した箱館奉行所を守るための城郭です。さらに、新政府軍に帰順していた松前藩を攻め、松前、江差を占領しました。これで蝦夷地は、榎本ら旧幕府軍によって平定されました。しかし、その代償も大きかったのです。江差の砲台を海から砲撃するために派遣した軍艦・開陽が、悪天候のため座礁し沈没してしまいました。この結果、榎本艦隊の戦力が著しく低下してしまったのです。12月15日、蝦夷地を平定した旧幕府軍は、士官以上の幹部による入札(いれふだ:選挙)で首脳人事を決めました。ここに「蝦夷共和国」が樹立されました。初代総裁には、榎本武揚が選出されました。土方歳三も陸軍奉行並に選出されました。

 「蝦夷共和国」に対して、イギリスやフランスは「不干渉」の立場でした。またアメリカも、局外中立(どちらとも関係をもたず、戦争に影響を与える行動をしない)の立場でしたが、12月18日に突如新政府支持を表明しました。そして、納入が延期されていた装甲艦(鋼の装甲をもつ軍艦)「甲鉄」が新政府に引き渡されました。主力の開陽を失った旧幕府軍に対して、最新鋭の装備を整えた装甲艦を手に入れた新政府軍の戦力が圧倒的に優位に立ったといえます。明治2年(1869)2月、新政府は陸軍部隊約8,000名(松前藩、弘前藩が主力)を、青森に集結させました、そして3月9日、装甲艦・甲鉄を旗艦とした8隻の新政府艦隊が、品川沖から青森に向けて出帆しました。これに対して旧幕府軍は、軍艦回天以下3艦を出動させ、宮古湾に停泊中の甲鉄を奇襲して奪い取る作戦を敢行しました。この作戦には、土方歳三も参加していましたが、失敗します。

 勢いに乗った新政府軍は、4月9日、箱館の北西、江差の北にある乙部(現・北海道乙部町)に上陸しました。4部隊に分かれて4つのルートから箱館を目指して進撃する新政府軍に対して、旧幕府軍は、じりじりと後退を余儀なくされました。そして5月11日の総攻撃で箱館市街も新政府軍に制圧され、榎本ら旧幕府軍は五稜郭にこもることになります。このとき土方歳三は、苦戦を強いられていた弁天砲台(現・函館市弁天町)へ援軍としてはせ参じる途中、一本木(現・函館市若松町:諸説あり)で敵の砲弾を受けて壮絶な最期を遂げたといいます。翌12日、新政府軍参謀・黒田清隆からの降伏勧告書が、五稜郭にこもる榎本に届けられました。しかし榎本はこれを拒否します。さらに榎本は、座右の書として肌身離さず愛読していた『海の国際法規と外交(万国海律全書)』のオランダ語訳本を取り出し、「この書は、今後の日本にとって役立つ貴重なものなので灰にするには惜しい。政府軍参謀に寄贈したい」という内容の書状を添えて、使者に手渡しました。この榎本の書状にいたく感激した黒田参謀は、返礼として酒5樽を五稜郭へ届けさせました。この時から、黒田清隆と榎本武揚の奇妙な友情が始まったといえます。しかし旧幕府軍にとって、戦況はますます悪化します。5月15日には弁天砲台が陥落し、翌日には千代岱(ちよがだい)陣屋が落ちたことを知ると、榎本はその夜自決を決意します。しかしこれは、近習の大塚霍之丞(かくのじょう)が体を張って制止したといいます。結局榎本ら旧幕府軍幹部は、翌日に黒田清隆と会見し、降伏しました。幕末から続いた戊辰戦争はようやく終結し、名実ともに明治新政府が日本を統治する政府であることが、国際的にも認められることとなりました。

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 榎本ら旧幕府軍幹部は東京へ護送され、辰の口(現・東京都丸の内)の牢獄に収監されました。獄中でも、榎本の旺盛な知識欲と好奇心は衰えず、読書に没頭するとともに著述まで始めました。榎本が獄中で書き上げた『開成雑俎(かいせいざっそ)』は、鶏やカモの人工ふ化器、焼酎、石鹸、西洋ロウソクなどの製法を図解入りで書き表したものです。彼はこの書を兄に送り、これらを製造して家計の足しにするようアドバイスしています。さらには、この本の内容は貴重なものなので、やたらと他人に見せないようくぎを刺しています。榎本は、産業技術の発展や殖産興業こそが、これからの日本を豊かにする原動力であることを、確信していました。榎本は、五稜郭時代から、産業技術の考案や化学実験に関心を持ち自ら実践していたといいます。つまり榎本は、軍人や政治家であるとともに、極めて優秀な科学者(技術者)としての資質を持っていたといえます。

 榎本ら旧幕府軍幹部の処置については、厳罰を求める長州閥(木戸孝允ら)と榎本の才能を買って助命を主張する黒田清隆ら薩摩閥との間で調整がつかず、2年半にわたって収監されたままでした。北海道開拓使次官の職にあった黒田清隆は、榎本が獄中で産業技術開発の構想を練っていること、および北海道開拓の夢を捨てきれていないことを知り、彼の放免活動に奔走します。また、後年『痩我慢の説』で、榎本の変節ぶりを批判する福沢諭吉も、助命活動を行っています。榎本の妹婿で福沢の元上司だった江連堯則(えづらたかのり)に依頼され、榎本が収監されていた糾問所(きゅうもんじょ)に掛け合い、榎本らの様子を調べ報告しています。また、静岡にいた榎本の母と姉を東京に呼び寄せ、榎本の母のために面会請願文の代筆まで行っています。そして、これらの活動が実を結び、明治5年(1872)1月6日、榎本は特赦により出獄して親戚宅に謹慎となりました。さらに、その2か月後、ついに無罪放免となったのです。

 釈放された榎本を、黒田清隆は毎日のように訪ねて、北海道開拓を一緒にやってくれと懇願します。北海道開拓については、アメリカが協力することを約束していました。グラント大統領は、現職の大臣級の人物を送り込むほどの熱の入れようで、アメリカ資本を投入して北海道をリトルアメリカにしようとねらっていました。黒田は、この状況に危機感を抱いていました。(外国人だけに頼るわけにはいかない。しかし、アメリカの協力なしでは北海道開拓はできない。)そこで榎本の力が必要となったのです。北海道開拓にかける熱意とオランダ留学以来つちかってきた科学者の資質を背景に、アメリカと対等の立場で開拓事業に取り組む事ができると期待したのでした。榎本は悩みました。幕臣として薩長政府に仕えるのはまっらぴあごめんだという意地もあります。しかし、北海豪開拓という消えかけた夢が、また現実のものになろうとしているのも事実です。結局榎本は、黒田の申し出を受けました。明治5年(1872)3月8日付で、榎本は開拓使四等出仕(県令待遇)の辞令を受けました。幕臣で最後まで薩長政府に抵抗した榎本武揚が、明治新政府の高官として仕えることになったのです。

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 開拓使として北海道に渡った榎本は、函館周辺から石狩、日高、十勝、釧路をまわって資源調査を行いました。空知炭田(石狩炭田の北部)を発見したのは榎本だったといわれます。榎本の功績は幅広く、函館に日本初の気象観測所を設置したのも榎本です。悪天候により軍艦・開陽を遭難させてしまった反省から、北海道開拓のためには、気象観測が必要だと痛感していたようです。のちに榎本は、気象学会の会頭に推されています。

 明治7年(1874)1月、榎本は駐露特命全権公使に任命され、ロシアとの領土交渉にあたることとなりました。あわせて、日本初の海軍中将となっています。ペテルブルグに着任した榎本は、約1年間の交渉の末、「樺太・千島交換条約」を締結させました。この条約により、樺太全島はロシアに、千島列島は日本が領有することが決まりました。また、オホーツク海およびカムチャッカ周辺の日本の漁業権も認められました。 その後も、榎本の活躍は目覚ましいものがあり、新生日本の基盤確立に多大な貢献をしました。明治15年(1882)8月には駐清特命全権公使となり北京に赴任しました。明治17年(1884)に、朝鮮の親日派で日本と同じような近代立憲君主制国家の樹立を目指す勢力のクーデターが起こると、日清両国関係が悪化します。この緊張状態を緩和するために日本側全権・伊藤博文が清の李鴻章と会談したときには、榎本がこれを補佐し、天津条約(日清両国が朝鮮から完全に撤兵する)締結に至りました。

 明治18年(1885)に内閣制度が始まると、榎本は第1次伊藤博文内閣の逓信大臣に就任します。さらに明治21年(1888)、黒田清隆内閣では逓信大臣と農商務大臣を兼任しました。またこの年、電気学会の初代会長になっています。さらに、翌年の2月11日の大日本帝国憲法発布式の当日に暗殺された森有礼(ありのり)の後任として文部大臣に就任しますす。しかし、明治天皇が希望した道徳教育の基準策定に積極的に取り組まなかったとして、翌年解任されます。明治24年(1891)、第1次松方正義内閣の外務大臣となり、条約改正交渉に取り組みます。条約改正案調査委員会を立ち上げています。明治27年(1894)には、第2次伊藤内閣の農商務大臣に就任しました。このとき、製鉄所(のちの八幡製鉄所)の建設にあたっては、多くの反対を押し切って民営ではなく官営の工場としました。しかし、足尾銅山鉱毒事件(約1,000名の被害農民が陳情のために上京し、抗議活動が激化した事件)之責任を取って、榎本は農商務大臣を引責辞任しました。

 晩年も榎本は、工業化学会の初代会長となるなど、精力的に活動していました。明治33年(1900)には、盟友の黒田清隆の葬儀委員長を務めています。しかし、明治38年(1905)10月に海軍中将を退役すると、明治41年(1908)7月から病に伏せり、同年10月26日、腎臓病で亡くなりました。享年73歳でした。墓所は東京都文京区の吉祥寺にあります。

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 榎本武揚は、箱館五稜郭にこもって、最後の最後まで新政府軍に抵抗した旧幕府軍のリーダーでしたが、明治5年に特赦で釈放されてからは、その語学力、技術者としての豊富な知識(機関学や化学など)および国際法に関する知識をもとに、新生日本の国づくりに多大な貢献をしました。しかし、その功績に見合った評価がなされていないのも事実のようです。「蝦夷共和国」総裁として、最後まで新政府軍と戦ったというイメージがあまりにも大きかったせいもあるでしょう。しかし、何といっても徳川幕府の海軍副総裁だった男が、手のひらを返すように薩長閥の明治新政府に仕え大出世したことが、「ニ君に見えず(まみえず)」という古い「武士道」精神とは相いれないという批判があったからでしょう。前述した『痩我慢の説』で、福沢諭吉が榎本をそのように評価したことが、世の中の批判をさらに増幅させたことは否定できないでしょう。私たち日本人は、西郷隆盛や土方歳三のように、自分の信念を最後まで貫き通し、悲劇的な最期を遂げた人々を英雄としてまつる傾向があるように思われます。その感覚では、榎本は真逆です。嫌われても仕方ないかもしれません。榎本の功績は、このまま歴史の中に埋没して、あまり評価されないのでしょうか。本当に榎本は、単なる「変節者」だったのでしょうか。

 榎本たちが8隻の艦隊で品川沖を脱走して、東北経由で蝦夷地箱館に向かった時です。このとき、徳川15代将軍慶喜は、新政府に恭順の意を示し、水戸で謹慎していました。もはや徳川幕府には戦う意思はなく、徳川政権は名実ともに崩壊していたのです。にもかかわらず榎本たちが、さらなる抵抗を継続したのはなぜでしょうか。武人としての意地もあったでしょう。しかし榎本には、明確な目的があったのです。前述しましたが、榎本は品川沖を離れるにあたって、勝麟太郎に『徳川家臣大挙告文』を届け、新政府に渡してくれるよう頼んでいます。その中の一説に、次のような一文がありました。「我らは先だってから、不幸のどん底に落とされた徳川家臣のために、蝦夷島開拓についての許可を願い出ていたが、許可されない。こうなってはもう、戦うしかないー」また、蝦夷地に向けて仙台を離れる際、榎本は、新政府の奥羽鎮守総督あてに、「旧幕臣の救済とロシアの侵略に備えるため蝦夷地を開拓することが目的であって、決して朝廷に弓引くものではない」という趣旨の文面を送っています。すなわち、榎本らの逃亡の真の目的は、蝦夷地を開拓し、政権交代によって失業するであろう武士たちの生活の場を提供することでした。徳川幕府再興などは、考えもしなかったと思われます。

 榎本らが樹立した「蝦夷共和国」には、それまでの日本にはなかった特徴がありました、第一は、入札(選挙)によって、首脳人事を決定したことです。この結果榎本が初代総裁に選ばれ、「蝦夷共和国」が樹立されました。第二は、捕虜に対する扱いです。例えば、松前を攻略したときに投降してきた500人の敵兵に対しては、希望者は船で青森に送り、農商になりたいという者についてはこれを許しています。当時は、捕虜は殺されるのが当たり前だったといいますから、この処置は異例でした。第三は、医師・高松凌雲を院長とする、日本最初の赤十字病院(箱館病院)を創設したことです。敵味方の区別なく兵士の治療を行い、その旨を敵方にも通達して砲火から守ったといいます。これらの政策は、オランダ留学を経験した榎本ならではの進歩的なものでしたが、榎本が、この「蝦夷共和国」に愛着を感じ、国づくりに真摯に取り組んでいたことを証明する事例だと思います。徳川のためとか薩長のためとかではなく、日本国家のために、蝦夷地を開拓して新しい産業を興し、また隣国からの攻撃に対する防衛線を構築しようとした──それが、榎本らの蝦夷地への脱走の真相ではないかと思えるのです。

 榎本は、辰の口に収監されていた時、姉と妻へあてた手紙で次のような趣旨を述べていたといいます。 「自分の研究成果を、北海道の開発に役立てたいものだ。しかし今はもうかなわない。」榎本は、死罪になることを覚悟していたのでしょう。しかし、北の大地を開拓して豊かな地にするという夢は持ち続けていたのです。その榎本を必死の助命運動で救った黒田清隆から、北海道開拓使として共に働いてほしいと懇願されたとき、榎本には断るすべはなかったのだと思います。一つだけ気がかりなのは、箱館戦争で死んでいった多くの同志たちに対するうしろめたさだったのかもしれません。榎本は、この「十字架」を一生背負う覚悟だったのだと思います。新政府に仕えてからは、北海道開拓、ロシアとの領土交渉、清国との和平交渉などをこなし、3人の総理大臣のもと、逓信大臣、農商務大臣、文部大臣、外務大臣を歴任しました。また、旧幕臣の子弟に対する奨学金制度(徳川育英会)を立ち上げ、育英黌(こう)という学校を創立しました(現在の東京農業大学の前身)。さらには、気象学会の会頭、電気学会及び工業化学会の初代会長も務め、学術研究の振興にも尽力しています。

 榎本武揚は転向者(変節者)だと批判する人々がいます。しかし榎本は、誰かに強制されて自分の生き方を変えたわけではありません。北海道を新天地として開拓し、豊かな大地に生まれ変えさせ、政権交代によって生じた多くの失業武士たちに新たな生活の場を与えることこそ、榎本が描いた夢だったのだと思います。そして、北海道に強い政府が誕生するということは、日本国にとってもプラスとなり、また北方から「隙あらば」と狙っているロシアに対する防衛力強化にもつながると信じていたに違いありません。だからこそ、悩みぬいた末黒田の誘いを受け入れ、北海道開拓使として新政府に仕えることにしたのです。榎本にとっては、徳川も薩長もどうでもよかったのでしょう。ただ、国家のためあるいは内戦の影響で不遇な状態にある人々のために、自分が持っている知識や経験を最大限に発揮して貢献しようという思いだけが、彼を突き動かしていったのだと思います。これは決して転向でもなければ変節でもありません。榎本武揚という人物を、私たちはもう一度見直してみる必要があるのではないでしょうか。


この記事は、以下の文献を参考にして作成しました。

  • 童門冬二著『榎本武揚』ニ君に仕えた奇跡の人材(祥伝社)
  • 満坂太郎著『榎本武揚』幕末・明治二度輝いた男(PHP文庫)
  • 安部公房著『榎本武揚』(中公文庫)
  • 司馬遼太郎著『燃えよ剣』(新潮文庫)
  • 相川司著『土方歳三』新撰組を組織した男(中公文庫)


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