ー甲斐健の旅日記ー

長谷寺/天武天皇の時代から、長い歴史を誇る寺院

 長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山派(ぶざんは)総本山の寺院です。山号を豊山神楽院と称します。本尊は十一面観音で、開基は道明です。西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られます。

 寺伝によれば、天武天皇の時代の朱鳥元年(686)、道明(どうみょう)上人が初瀬山(はつせやま)の西の丘(現在の本長谷寺辺り)に三重塔を建立し、小さなお堂を建て天武天皇の病気平癒を祈願して『銅板法華説相図』(どうばん ほっけせっそうず:銅板表面に『法華経』見宝塔品に説かれる宝塔出現の光景が図相化されているもの)を安置したことに始まるとされます。神亀4年(727)には、道明の弟子である徳道上人(とくどうしょうにん)が、聖武天皇の勅を奉じて、衆生(しゅじょう:生きとし生けるもの)のために東の丘(現在の本堂の地)に十一面観音菩薩を祀って開山したといいます。徳道上人は観音信仰にあつく、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖といわれます。淳和14年(847)には定額寺(じょうがくじ:奈良、平安時代に官大寺、国分寺に次ぐ寺格を有した仏教寺院)となりました。貞観12年(870)に諸寺の別当三綱(さんごう)は太政官の審査の対象になることが定められ、長谷寺も他の官寺とともに朝廷(太政官)の統制下に置かれることになります。

 長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族階級の信仰を集めました。万寿元年(1024)には藤原道長が参詣したといいます。中世以降は武士や庶民にも信仰が広がっていきました。長谷寺は当初、東大寺(華厳経)の末寺でした。平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は覚鑁(かくばん:興教大師)によって興され頼瑜(らいゆ)により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となりました。天正16年(1588)には、豊臣秀吉により根来山(根来寺)を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉(せんょ)により現在の真言宗豊山派(ぶざんは)となりました。

 なお、十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く、240寺程存在するといわれます。

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 長谷寺へは、近鉄大阪線「長谷寺」駅から北へ徒歩15分の距離です。

 仁王門は、長谷寺の総門で、三間一戸入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の楼門です。両脇には仁王像、楼上に釈迦三尊像、十六羅漢像を安置しています。現在見る建物は明治27年(1894)の再建です。また、「長谷寺」の額字は、後陽成天皇の御宸筆です。

 仁王門をくぐると、本堂まで続く屋根つきの石段の登廊(のぼりろう)があります。 平安時代の長歴3年(1039)に春日大社の社司中臣信清が子供の病気平癒の御礼に造ったもので、長さが百八間(間は柱と柱の間の数)で399段あります。上中下の三廊に分かれていて、下、中廊は明治27年(1894)の再建だそうです。風雅な長谷型の灯籠が吊るされ、毎年大晦日の夜の万燈会(まんとうえ)には、登廊の両側にも灯りがともされ、荘厳な雰囲気が醸し出されるそうです。

 本堂は、初瀬山中腹の断崖絶壁に懸造り(かけづくり:舞台造)された南面の大殿堂です。本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成ります。本堂は奈良時代の創建後、室町時代の天文5年(1536)までに7度火災に遭い焼失しました。7度目の焼失後、本尊十一面観音像は天正7年(1538)に再興されました(現存、8代目)。また本堂は、豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588)に新しい堂が竣工したといいます。しかしこの本堂は雨漏りがひどく、すぐに再建されました。現在見る本堂は、徳川家光の寄進を得て、慶安3年(1650)に再建されたものです。建物の構成は、本尊を安置する正堂(奥)、参詣者のための空間である礼堂(手前)、これら両者をつなぐ相の間の3部分から成ります。間口が25.9m、奥行きが27.1mあります。正堂は、間口9間、奥行き5間(間は柱と柱の間の数)、入母屋造、本瓦葺で裳階(もこし)が施されています。礼堂部分は、間口9間、奥行き4間で、奥の9間X1間分が相の間となっています。入母屋造、本瓦葺ですが、妻側(三角の壁が見える側)が出入口となっている妻入りの構造です。礼堂の棟と正堂の棟はT字形に直交しています。

 正堂の内々陣には、本尊の十一面観音立像が安置されています。伝承によると、神亀年間(720年代)、近隣の初瀬川に流れ着いた巨大な神木が大いなる祟りを呼んだため、恐怖した村人の懇願を受けて開祖徳道上人が祟りの根源である神木を観音菩薩像に作り替え、これを近くの初瀬山に祀ったといいます。真偽のほどはわかりませんが、当初の像は、「神木」等、何らかのいわれのある木材を用いて刻まれたものと考えられています。現在の本尊像は、前述のように天文7年(1538)の再興です。像高は10.18mと、国宝、重要文化財指定の木造彫刻の中では最大のものとされます。この本像は通常の十一面観音像と異なり、右手には数珠とともに、地蔵菩薩が持つような錫杖(しゃくじょう)を持ち、方形の磐石の上に立っています。また左手には通常の十一面観音像と同じく水瓶(すいびょう)を持っています。伝承によれば、これは地蔵菩薩と同じく、自ら人間界に下りて衆生(しゅじょう)を救済して行脚する姿を表したものとされ、他の宗派(真言宗他派も含む)には見られない独特の形式であるといいます。この種の錫杖を持った十一面観音は、「長谷寺式十一面観音(長谷型観音)」と呼ばれています。本尊に向かって左脇侍は雨宝童子立像(うほうどうじ:室町時代:初瀬山を守護する八大童子のひとり)、右脇侍は難陀龍王立像(なんだりゅうおう:鎌倉時代:本尊造立の際に影向(ようこう:神仏が仮の姿で現れる事)した八大龍王のひとり)です。

 登廊の途中から左(西)に入ると、奥の院への道となります。奥の院へ行く手前に本坊があります。ここには、根本道場である大講堂や書院があります(非公開)。寛文7年(1667)徳川第4代将軍家綱の寄進で建立されました。しかし、明治44年(1911)に焼失し、現在見る建物は、大正13年(1924)に再建されたものです。門を入ってすぐのところに、平成22年10月10日に天皇皇后両陛下が御手植えになった松の木があります。他にも、紀宮清子内親王、高松宮殿下、三笠宮殿下、三笠宮妃殿下の御手植えの松が並んで植えられています。

 奥の院には、陀羅尼堂(だらにどう)があります。長谷寺の塔頭(たっちゅう)寺院で、正堂が興教大師堂で礼堂が陀羅尼堂と呼ばれ、併せて菩提院と呼ばれています。真言宗豊山派を大成した専誉僧正と新義真言宗の祖である興教大師(覚鑁:かくばん)が祀られています。

 奥の院からさらに北へ進んで行くと、蓮華谷の道沿いに納骨堂があります。本尊は地蔵菩薩で、永代供養が行われています。納骨堂の先に五重塔が建っています。明治9年(1876)に焼失した三重塔跡北側に、戦後日本で初めて建てられた五重塔です。昭和29年(1954)建立です。純和様式の整った形の塔で、塔身の丹色と相輪の金色、軽快な檜皮葺(ひわだぶき)屋根の褐色が、背景とよく調和しているといいます。さらに先には、本(もと)長谷寺があります。天武天皇の勅願により、道明上人が造営した小さなお堂がここに建てられたといいます。朱鳥元年(686)、道明上人は、天武天皇の病気平癒を願って『銅板法華説相図』(前出)を鋳造し、本尊として祀ったのでした。

 本長谷寺からさらに進むと、弘法大師御影堂があります。真言宗宗祖の弘法大師1150年御遠忌(ごおんき:,宗祖などの遺徳をたたえるため,50年忌以後50年ごとに行う法要)を記念して、昭和59年(1984)に建立されました。宝形造(ほうぎょうづくり)銅板葺(どうばんぶき)、総檜造の建物です。正面に一間の向拝(こうはい)が施されています。大師の両側には、版画づくりの「長谷寺版両界曼荼羅」が祀られているそうです。毎月21日に、弘法大師の御影供(みえく:祖師の命日に御影を掲げて供養する事)の法要が行われています。

ここまで来れば、本堂(前出)はもう目と鼻の先です。

 長谷寺はとても歴史のある寺院です。天武天皇の病気平癒を願って三重塔を建てた道明、その弟子の徳道、新義真言宗を確立した覚鑁(かくばん:興教大師)と頼瑜(らいゆ)、豊臣秀吉に追われた根来衆にあって、ここ長谷寺に入山し真言宗豊山派を大成した専誉らが作り上げた伝統の重みがここでは感じられます。



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