ー甲斐健の旅日記ー

唐津城/唐入りの前進基地・名護屋城の解体資材で築かれた城

 唐津城(からつじょう:佐賀県唐津市)は、豊臣秀吉の家臣だった寺沢志摩守広高が、慶長7年(1602)から慶長13年(1608)にかけて築城した城です。築城に際しては、秀吉が大陸侵攻(唐入り)の前進基地として築城した名護屋城(佐賀県唐津市)の解体資材が使われました。城を要として東西に広がる松原が、あたかも翼を広げた鶴のようだとして、「舞鶴城」とも呼ばれています。特に城の東に伸びる松原は「虹ノ松原」と呼ばれ、初代藩主・寺沢広高が防風林・防砂林として植樹したもので、現在でも日本三大松原(他は静岡市清水区の三保の松原、福井県敦賀市の気比の松原)の一つとして親しまれています。

 初代・広高、二代・堅高(かたたか)ともに、天草地方のキリシタン弾圧には厳しい姿勢でのぞんでいました。これが島原の乱勃発の原因となったといわれます。乱鎮圧後、二代・堅高は失政の責任を取らされ、天草領4万石を幕府に召し上げられました。面目を失った堅高は江戸で自殺し、跡取りがいなかったために寺沢家は断絶しました。その後は、譜代大名が入れ替わり(大久保・松平・土井・水野・小笠原)唐津城の城主を務めていきました。あの天保の改革を主導した、のちの老中・水野忠邦も、一時期唐津城主でした。

 明治期になって唐津城は廃城となり、明治4年(1871)、建物は解体され跡地は舞鶴公園として整備されました。その後、昭和41年(1966)には、文化観光施設として5層5階の天守が造られました(実は、唐津城にはもともと天守はなかったのではないかという説もあります)。さらに平成になってから、肥後掘、時の太鼓、三の丸辰巳櫓(たつみやぐら)などの遺構が復元され、現在に至っています。平成29年(2017)、唐津城は、「続日本の100名城(185番)」に選定されました。

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 唐津城にかかわる遺構(復元建築物)は、唐津市内に分散して存在しています。以下に紹介します。

唐津城天守

 唐津城天守は、唐津市北東・松浦川の河口の西にそびえる満島山の山頂にあります。歩いて登ってもよいですが、ふもとから43mの高低差があり、専用のエレベーターで昇ることもできます(有料)。唐津城の天守については、その存在を証明する史料が見つかっていないため、築城当初からなかったという見方が大勢ですが、その反対に、築城当初はあったのが何らかの原因で失われたという説もあります。現在ある天守は、唐津城の象徴として、慶長期の様式を基に昭和41年(1966)に建築されたものです。内部は郷土博物館となっており、2Fには唐津藩の歴史を紹介する展示があります。当時の甲冑(かっちゅう)や肥前刀、秀吉が朝鮮出兵時に寺沢広高にあてた朱印状(しゅいんじょう)などを見ることができます。3Fでは、唐津の産業と唐津焼を紹介しています。江戸時代の唐津の産業を紹介する「肥前国産物図考」(プロジェクター画像)や唐津焼の実物を見ることができます。最上階の5Fは展望フロアとなっており、玄界灘と虹ノ松原の景観および城下町唐津を眺望できます。

肥後堀

 JR唐津駅から北へ300mほどの距離にある唐津市役所の前にあります。この肥後堀は、藩の重臣が住む三の丸と下級武士や町人が住む外曲輪(そとぐるわ)の間に築かれたものです。堀と石垣は平成元年(1989)に復元されたものです。

三の丸辰巳櫓

 肥後堀から東に400mほど行くと、右手に三の丸辰巳櫓(たつみやぐら)があります。この櫓は、三の丸の東南隅に配置され、見張りや防御の役割を担っていました。江戸初期の絵図にも描かれていることから、築城時にすでにあったと考えられています。現在ある建物は、平成5年(1993)に新築復元されたものです。

時の太鼓

 三の丸辰巳櫓から市役所方向(西)に少し戻って右折し、大名小路と呼ばれる道を北へ400mほど歩くと、交差点の北西に小さな公園(児童公園)があります。その公園の中にからくり仕掛けの「時の太鼓」があります。平成4年(1992)、江戸期に描かれた唐津藩絵図に基づいて復元されたものです。代々の唐津藩絵図によれば、最初に「時鐘」が築かれたのは四代藩主土井公の時代で、五代藩主水野公の時代には「時の太鼓」と呼ばれるようになったといいます。復元された「時の太鼓」の櫓の高さは7・68mあります。当時は、時刻に合わせて人が太鼓をたたいて時を知らせていましたが、現在の「時の太鼓」は、からくり仕掛けになっています。午前7時から午後7時までの毎時0分になると、どんどんと太鼓の音が鳴って扉が開き、中から太鼓のバチを持った武士と太鼓が現れます。そして、しばらく太鼓を打ち鳴らした後、武士と太鼓は奥へ下がり扉が閉まります。この間、約3分です。

二ノ門堀

 初代藩主寺沢広高は、唐津城築城の際、唐津城本丸のある満島山の西側を流れていた松浦川の流路を満島山の東側へと変更しました。東側の防御を固めるためです。そして、満島山の西側の旧川筋を、二の丸と三の丸とを隔てる堀としました。これがニノ門堀です。三の丸に住む藩士たちは、この堀を渡って、「時の太鼓」の時報を聞きながら登城していったのです。



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