ー甲斐健の旅日記ー

名護屋城址/大陸征服を夢見た──「兵どもが夢の跡」

 名護屋(なごや)城は、佐賀県の北西部、唐津市鎮西(ちんぜい)町にあった日本の城です。小田原北条氏をほろぼして全国統一を果たした豊臣秀吉が、明征服(唐入り)の野望を実現するために、前線基地として築いた城です。黒田孝高(よしたか:官兵衛)が縄張り(建物の配置の設計)を担当し、黒田長政や加藤清正らを普請奉行として突貫工事で築城工事がすすめられました。そして、わずか8か月後の文禄元年(1592)に完成しました。標高90mほどの丘陵を中心に17万平方メートルの広さを持つ平山城(ひらやまじろ:平野部の丘陵等に築城された城)です。当時としては、大阪城に次ぐ規模を誇っていました。秀吉は、この地に全国160か国の戦国大名を終結させ、30万人の兵士を動員したといいます。城の周囲3kmの範囲には、各大名の陣屋が120か所ほど築かれていました。

 名護屋城の城郭には、本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪(さまざとくるわ:遊興のための屋敷や庭園)などが配置され、本丸の北西に五層七階の天守が築かれていました。また、遺跡発掘調査により金箔を施したか瓦が見つかっており、天守の屋根に使われたものと考えられています。

 この名護屋城を拠点にして、16万人以上の兵士を朝鮮半島に送り込んだ秀吉でしたが、明軍および朝鮮軍の抵抗はすさまじく、一進一退の攻防戦が続きました。結局、文禄・慶長と、二度にわたって大軍を朝鮮半島に送り込んだにもかかわらず、明国内まで軍を侵攻させることはできませんでした。そして、慶長3年(1598)8月18日、秀吉が伏見城で没すると、戦意を失った日本軍は撤退を余儀なくされ、秀吉の抱いた大陸侵攻の夢は、ここについえたのでした。

 秀吉の死後は、秀吉の家来で名護屋城普請も務めた寺沢広高がこの地を治めていましたが、関ケ原の戦い(1600年)の2年後に新たに唐津城を築城することになり、名護屋城は廃城となりました。その際、名護屋城の遺材が唐津城建設に利用されたといいます。建物は完全に解体され、また二度とこの地に城が築けないように、石垣の一部も破壊されてしまいました。

 現在名護屋城跡には建築物の遺構は残っておらず、わずかに一部の石垣や土塁、井戸の跡などが残されているだけです。なお、隣接する名護屋城博物館には常設展示室(2F)があり、秀吉自筆の書状や「朝鮮通信使行列絵巻」などの貴重な史料が展示されています。また、名護屋城復元ジオラマも見ることができます。さらに、「バーチャル名護屋城」体験のサービスがあり、専用タブレットを借りる(無料)ことにより、現地で420年まえの名護屋城の再現CGを体感することもできます。

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 名護屋城跡には、唐津市役所隣の大手口バスセンターまたはJR西唐津駅前から、名護屋城博物館入口行のバスに乗車して、30~40分で着きます。直通バスのほかに、呼子行のバスに乗って、呼子から博物館行のバスに乗り換えていくこともできます。バス停で降りたら、目の前の広い道(国道204号)を西に200mほど登ると、左手に名護屋城博物館が、右手には名護屋城址があります。

 名護屋城博物館2階の常設展示室では、秀吉が名護屋城を築城する以前から、唐入りに失敗した以後(江戸期)における日本と朝鮮との交流に関する史料が数多く展示されています。その中でも、特に注目したものを挙げてみます。

  • 安宅船(あたけぶね)復元模型(10分の1)
      戦国期から江戸期にかけて日本でつくられた軍艦
  • 秀吉朱印状1
     ソウル陥落後に、加藤清正・鍋島直茂に発せられた、明国への進軍命令(天正20年6月3日)
  • 秀吉朱印状2
     虎の皮・肉・肝を朝鮮から送ってくれた鍋島直茂に対する礼状(文禄4年4月2日)
  • 名護屋城復元のジオラマ
  • 朝鮮通信使行列絵巻
     江戸中期、朝鮮国からの使節団派遣(約500人)の様子を描いたもの
  • 名護屋城出土金箔瓦
     五層七階の天守周辺から出土した金箔瓦

 名護屋城址は、建物は全く残っておらず、わずかに石垣の一部や土塁の跡そして三の丸の井戸跡などが残っているのみです。16万人以上の兵士が朝鮮半島に渡り、名護屋城下にも常時10万人を超える兵が在陣していたという文禄・慶長時代の「兵どもが夢のあと」をしのびながら散策するのもよいかもしれません。なお、博物館1Fで無料で貸し出している専用タブレット端末を持って散策すると、420年前の城郭の様子をCGで見ることができるサービスもあります(「バーチャル名護屋城」体験)。



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