ー甲斐健の旅日記ー

大阪城/豊臣秀吉が天下統一の拠点として築いた巨城

 大阪城は、豊臣秀吉が摂津国東成郡生玉壮大坂(現・大阪市中央区大阪城)に築いた巨城です。もともとこの地には、浄土真宗の本山・石山本願寺があったのですが、織田信長との10年にもわたる抗争の末、顕如(けんにょ)率いる石山本願寺は降伏し、この地は信長の所領となりました。信長が本能寺で倒れた後、天下統一事業を引き継いだ豊臣秀吉が、天正11年(1583)、この地に大阪城を築城することを決めました。秀吉は、信長が築いた安土城をモデルにしながら、それを凌ぐ日本一の城づくりを目指したといわれます。そしてわずか1年半で、まず天守が完成しました(天正13年〈1585〉)。この大阪城は、天下統一の拠点であるとともに、秀吉の権威の象徴でもあったため、天守の完成を最優先させたといいます。その後も城の工事は断続的に行われ、すべて完成したのは、築城開始から15年後の慶長3年(1598)でした。当時の大阪城の敷地面積(最外郭まで含む)は420万平方メートルと推定され、現在の大阪城公園の約4倍の広さを誇り、4重の堀に囲まれた日本一の城郭でした。

 秀吉の死後は、嫡男の秀頼が生母淀の方とともに大阪城に移り、城主となりました。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで西軍がやぶれたのち、豊臣氏は220万石から63万7千石に減俸されましたが、大阪城はまだ秀頼のものでした。その後、大阪夏の陣(慶長19年<1614>)で秀頼と淀の方は自害し豊臣氏は滅亡しました。さらに、大阪城もほとんどの建物が焼失してしまいました。大阪は幕府直轄領となりましたが、元和6年(1620)、徳川2代将軍・秀忠が大阪城再興をスタートさせました。全国の大名(64家)を動員した工事は9年にわたり、新大阪城は寛永6年(1629)に完成しました(天守の完成は、寛永3年<1626>)。将軍・秀忠の意向により、新大阪城の石垣はより高く、堀はより深く造られました。そのため、旧大阪城跡地に盛り土が行われ、その遺構は土中深くに埋められてしまいました。現在見ることのできる大阪城の遺構は、すべて徳川時代に築かれたものです。

 江戸時代、大阪城はたびたび火災に見舞われました。特に寛文5年(1665)、落雷によって天守が焼失してしまい、昭和になって再建されるまで大阪城は天守を持たない城となってしまいました。さらに幕末から明治維新にかけての混乱の中で、幕臣の一部が大阪城に火を放ち、御殿や櫓(やぐら)など多くの建物が焼失してしまいました。

 明治期になると、大阪城内の敷地は陸軍の軍用地に転用されることとなりました。多くの軍事施設が造られ、火砲や軍用車両などの工場(大阪砲兵工廠〈こうしょう〉)も造られ、一般の人々が立ち入ることは許されませんでした。時を経て昭和3年(1928)、当時の大阪市長・関一が天守再建を含む大阪城公園整備計画を提案し、昭和天皇即位記念事業として承認されました。当時は昭和恐慌の真っただ中にありましたが、この事業のために、わずか半年で150万円(現在の価値で約750億円)の寄付金が集まったといいます。再建工事は、昭和5年(1930)に始まり、1年半後の昭和6年(1931)に完成しました。このとき完成した天守の外観は徳川時代のものではなく、「大阪夏の陣図屏風」を参考にして、秀吉が築城した城の姿を再現したものでした。鉄筋コンクリート造りの地上55mの高層建築です。天守の中は歴史博物館になっています。同時に大阪城公園も開園し、一般の人々にも開放されました。

 平成9年(1997)、大阪城の三代目天守は国の「登録有形文化財」に登録されました。さらに、平成18年(2006)には、「日本100名城」(財団法人日本城郭協会)に選定され、現在に至っています。

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 大阪城公園最寄りの駅は多数ありますが、大手門から城内に入ることを考えれば、天満橋駅(地下鉄谷町線または京急線)または谷町四丁目駅(地下鉄谷町線)で下車して歩いていくのが便利です。天馬橋駅からですと、地上に出て南北に走る広い道を南下し、谷町二丁目交差点を左折(東へ)して少し歩くと、右手前方に大手門が見えてきます。徒歩7~8分です。谷町四丁目からですと、地上に出て南北に走る広い道を北上し、谷町二丁目交差点を右折(東へ)して少し歩くと、右手前方に大手門が見えてきます。こちらは徒歩10分ぐらいです。

 現在ある大阪城大手門は、寛永5年(1628)、徳川幕府によって建立された高麗門(こうらいもん)です。屋根は本瓦葺(ほんがわらぶき)で、扉や柱は総鉄板張りとなっています。左右に接続する塀(北方塀・南方塀)も含めて、重要文化財に指定されています。

 大手門をくぐると枡形の区画(石垣:40mX50m)に出ます。このエリアにある石垣の上に、多聞櫓(たもんやぐら)があります。寛永5年(1628)に創建⇨天明3年(1783)に落雷で焼失し、現在ある建物は、嘉永元年(1848)に再建されたものです。大門(おおもん)の上をまたぐ渡櫓(わたりやぐら)と右側に直角に折れた続櫓(つづきやぐら)で構成されます。櫓内部には大量の武器が保管され、多くの兵士を配置して大手門から侵入する敵を迎え撃つことができます。さらに、大門をくぐる敵に対しては、真上から攻撃する「櫓落とし(石落とし)」という装置が設けられています。なお、2016年より毎年期間限定(2019年は3月2日から11月24日までの土・日・祝日)で、多聞櫓、千貫櫓(せんがんやぐら)、焔硝蔵(えんしょうぐら:大阪城公園北西にある徳川幕府の火薬庫の遺構)の内部特別公開が行われています。

 多聞櫓の大門をくぐって東に進むと、左手に桜門があります。本丸・天守に通じる門です。寛永3年(1626)に徳川幕府によって創建されましたが、幕末から明治維新の混乱の中で焼失し、現在ある門は明治20年(1887)に再建されたものです。高麗門(こうらいもん)の形式で屋根は本瓦葺(ほんがわらぶき)です。秀吉が建設した大阪城の本丸に通じる門のそばに、桜並木があったことから、この名がつけられたと伝えられています。桜門の両側にある石垣には、巨大な石がはめ込まれています。右側にあるのが「竜石」と呼ばれ、大きさが3.4mX6.9m、重さが約52トン、左側にあるのが「虎石」と呼ばれ、大きさが2.7mX6.9m、重さが約40トンあります。

 桜門をくぐると、大手門同様、防衛のための石垣で囲まれた桝型区画があります。この区画は、備前岡山藩主・池田忠雄が担当しましたが、城内第一位の巨石が組み込まれています。正面に見える「蛸石(たこいし)」です。高さ5.5m、幅11.7m、表面積は36畳敷(59.43平方メートル)、重さは約108トンもある巨大なものです。備前藩の犬島から運んできた花崗岩の巨石です。「蛸石」の名の由来は、左下に浮き出ている蛸のような模様(花崗岩中の鉄分が酸化してできたもの)によるそうです。なお、この枡形区画の石垣の上にも、創建当初は多聞櫓がありましたが、幕末の大火で焼失し、現在は石垣のみです。

 前述したように、現在ある大阪城天守は昭和6年(1831)に再建された、鉄筋コンクリート造りの三代目です。内部は歴史博物館となっており、秀吉や大阪城関連、大阪の陣に関する史料が多数展示されています。また、秀吉が造った「黄金の茶室」の原寸大模型、豊臣時代と徳川時代の大阪城本丸復元模型、大阪夏の陣の激戦の様子を伝えるミニチュア、「大阪夏の陣屏風」に描かれている名場面を解説するパノラマビジョンなど、見ごたえがあります。



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