ー甲斐健の旅日記ー

寂光院/安徳天皇の母・建礼門院が隠棲した寺院

 寂光院(じゃっこういん)は、京都市左京区大原にある天台宗の尼寺です。山号を清香山、寺号は玉泉寺と称します。平清盛の娘の建礼門院が、平家滅亡後隠棲した所であり、『平家物語』ゆかりの寺として知られます。

 寂光院の創建には、諸説あります。寺伝では、推古天皇2年(594)に、聖徳太子が、父である用明天皇の菩提を弔うために創建したとされます。しかし、江戸時代の地誌『都名所圖會(ずえ)』では弘法大師空海が開基であると記されています。また、11世紀末に大原に隠棲し大原声明(しょうみょう)を完成させた融通念仏の祖・良忍が開いたとの説(『京羽二重』)もあります。

 その後一時期荒廃していましたが、慶長年間(1596~1615年)に、秀吉の側室淀殿の命で片桐且元が本堂はじめ堂宇(どうう)を整え再興しました。しかし、平成12年(2000)未明の放火で、本堂や本尊の地蔵菩薩立像が焼失しました。本堂は、平成17年に、往時の面影を残す形で再建されました。また火災により破損した旧本尊も修復され、現在境内奥の収蔵庫に安置されています。本堂には、形や大きさも元通りに復元され、鎌倉時代の製作当時のままの美しい彩色で造られた新本尊の地蔵菩薩立像が安置されています。

 寂光院では、初代住持は聖徳太子の御乳人だった玉照姫(たまてるひめ)ということになっています。敏達天皇13年(548)に出家した日本仏教最初の三比丘尼(びくに:尼僧)の一人で、慧善比丘尼といいます。その後、代々高貴な家柄の姫君が住持となったといいます。

 寂光院では、阿波内侍(あわのないじ)が第2代と位置付けられています。阿波内侍は藤原信西(しんぜい)の娘です。崇徳天皇の寵愛を受けた女官でしたが出家し、永万元年(1165)に入寺して証道比丘尼と称しました。出家前には、宮中にあって建礼門院(平清盛の娘、安徳天皇の母)に仕えていたといいます。また、阿波内侍が柴刈りに出たときの姿が大原の娘たちに真似られ、藍染めの筒袖の着物に御所染の前結びの帯、甲掛(こうがけ:手足の甲を守る布)、脚絆(きゃはん:脛の部分を保護する布や革でできた被服)が大原女のスタイルになったといいます。

 第3代は、建礼門院徳子です。徳子は、平家滅亡の時、壇ノ浦で息子の安徳天皇と共に入水したのですが、その後助かり、文治元年(1185)に入寺し真如覚比丘尼と称しました(徳子29歳)。源平の合戦に敗れ壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔いながら、侍女たちとともにこの地に閑居して終生を過ごしたといいます。徳子が寂光院に入寺した翌年、舅でもある後白河法皇(夫・高倉天皇の父)が建礼門院の見舞いに訪れました。これは、「大原御幸(ごこう)」と呼ばれ、能の曲目や『平家物語』で知られます。この時建礼門院が、

  思ひきや 深山の奥に 住まひして 雲井の月を よそに見んとは

と詠みました。これに対して後白河法皇は、次のように返したといいます。

  池水に 汀の桜 散りしきて 波の花こそ 盛りなりけれ

このページの先頭に戻ります

 寂光院へは、京都駅からですと、京都バス17系統に乗り終点「大原」で降ります。バス停から西に草生川(くさおがわ)沿いを1kmほど北西に上ったところにあります。

 旅荘や茶店の並ぶ道沿いの右手に、山門に至る長い石段があります。山門は檜皮葺(ひわだぶき)の屋根で江戸時代の建立とされます。この山門をくぐると、本堂前の庭に出ます。本堂に向かって左手に、汀の池(みぎわのいけ)があります。平安時代の作庭とされます。後白河法皇が、息子(高倉天皇)の嫁であった建礼門院の見舞いのために「大原御幸」をしたとき、和歌を詠み、『池の汀の桜は、たとえ枝から散っても、池の水面にいっぱいに敷き詰められて満開になっているではないか』と慰められたという、その池です。今も本堂前にあり、平家物語当時そのままをしのぶことができます。池のそばには、古来より桜と松が寄り添うように立っていて、その桜を「みぎわの桜」、松を「姫小松」と呼んでいました。姫子松は細長く柔らかい松の葉5本が一組になってつく、いわゆる五葉松でした。樹高15メートル余りで樹齢数百年になるものでしたが、平成12年(2000)の本堂火災のとき、池のみぎわの櫻とともに被災し、とくに「姫小松」は倒木の危険があるため伐採のやむなきに至り、現在はご神木として祀られています。

 本堂に向かって右手前にある置き型の鉄製灯籠は、雪見燈籠と呼ばれます。豊臣秀頼が本堂を再建した際に伏見城から寄進したものと伝えられます。宝珠、笠、火袋(ひぶくろ:火をともすところ)、脚からなります。笠は円形で、軒先は花先形としています。火袋は側面を柱で5間に分け(断面が五角形)、各面に五三桐紋(ごさんぎりもん)を透し彫りにしています。また、円形台下に猫足三脚を付けています。

 本堂は、平成17年、焼失前の姿を出来るだけ忠実に再現する形で再建されました。入母屋造(いりもやづくり)杮葺き(こけらぶき)の建物です。正面3間(間は柱の間の数)奥行3間で、正面左右2間、側面1間は跳ね上げ式の蔀戸(しとみど)で内側が障子戸になっています。また正面中央には一間の向拝(こういはい)が施されています。内部には、本尊の地蔵菩薩立像が安置されています。平成17年に再興されたものです。像高256.4cmでヒノキの寄木造りで、鎌倉時代の製作当時の様に、彩色鮮やかな木象です。

 本堂正面左奥に、かつて平安時代作の結跏趺坐(けっかふざ)する「建礼門院木像」(69cm)が安置されていました。また、右奥には阿波内侍の「張子像」(69.5cm)がありました。建礼門院が造らせたものとされ、高倉天皇、平家一門、建礼門院自身、女官の写経などを集めて貼ったものだといいます。しかしこれらはいずれも、平成12年の火災で焼失してしまいました。現在は、平安仏所の江里康慧(えりこうけい)仏師によって造られた二体が安置されています。なお、建礼門院像を安置する厨子(ずし)の扉には、大原に自生する美しい草花を配した溜塗(ためぬり:赤い中塗りの上に透き漆(透明漆)を掛ける漆の塗り方)が施されています。平安仏所の故佐代子夫人(人間国宝)の手になるものだそうです。

 境内北西に、建礼門院御庵室跡があります。文治元年(1185)、壇ノ浦の合戦で平家が滅亡したあと、建礼門院はひとり助けられて京都に連れ戻され、その年の9月に、遠く離れた洛北の地大原寂光院に隠棲したといいます。建礼門院は、夫の高倉天皇とわが子安徳天皇および平家一門の菩提を弔う余生を送りつつ、建久2年(1191)2月にこの地でその生涯を閉じました。御庵室跡の右手奥に、建礼門院が使用したという井戸が残っています。

 本堂の正面の池の汀にある江戸時代に建立された鐘楼には、「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっています。鐘には、黄檗宗(おうばくしゅう)16世の百癡元拙(ひゃくちげんせつ:1683~1753年)撰文になる宝暦2年(1752)2月の鋳出という鐘銘があります。

 本堂の東側にある池は、四方正面の池と呼ばれます。北側の背後の山腹から水を引き、三段に分かれた小さな滝が設けられています。池の四方は回遊出来るように小径がついており、本堂の東側や書院の北側など、四方のどこから見ても正面となるように、周りに植栽が施されています。

 境内の北東の高台に、建礼門院大原西陵があります。三千院の北にある後鳥羽天皇と順德天皇の大原陵に対して西陵といい、五輪塔が祀られています。さらに草生川(くさおがわ)をはさんで御庵室跡の向かいに阿波内侍はじめ建礼門院の侍女たちのものと伝える墓石があります。

 山門の右手に、孤雲という茶室があります。京都御所で行われた昭和天皇の即位の御大典の際に用いられた部材が寂光院に下賜され、それをもとに茶室が造られました。「孤雲」の名のいわれは、建礼門院のもとを訪れた後白河法皇が、粗末な御庵室の障子に諸経の要文とともに貼られた色紙のなかに、「笙歌遥かに聞こゆ孤雲の上 聖衆来迎す落日の前」という大江定基の歌とともに、「思ひきや深山の奥にすまひして 雲居の月をよそに見んとは」という女院の歌を御覧になって、一行涙にむせんだという『平家物語』の大原御幸のなかの一節にちなんだものといわれます。

 山門の手前に宝物殿があります。鳳智松殿(ほうちしょうでん)と呼ばれます。平成18年秋に寂光院の復興を記念して建てられました。寂光院に伝来する『平家物語』ゆかりの文化財等を紹介しています。平成12年に火災に遭った旧本尊は全身が炭化してしまいました(その後修復)が、胎内に納められていた3,416体(別保存が1体)の小地蔵(胎内仏)はほぼ無事でした。宝物殿に安置されており、拝観できます。また、火災で焼損した旧本尊の地蔵菩薩立像も、特別拝観日には拝観できるそうです(2015年春は、5/2~5/10でした)。

 壇ノ浦で、平家一門と息子の安徳天皇と共に入水し、一人助かった建礼門院は、どんな思いでこの寂光院に入寺したのでしょうか。平家の再興など望むべくもない状況で、絶望の淵に身を置いたこともあったでしょう。あるいは、平家一門や安徳天皇の菩提を弔い続けるために、生きなければという思いにかられることもあったでしょう。建礼門院の入寺の翌年、夫高倉天皇の父である後白河法皇の「大原行幸」による見舞いが、彼女に生き続ける決心を固めさせたのかもしれません。



このページの先頭に戻ります

このページの先頭に戻ります

追加情報


このページの先頭に戻ります

popup image