ー甲斐健の旅日記ー

神護寺/圧倒的な権力に敢然と立ち向かった和気清麻呂が創建した寺院

 神護寺(じんごじ)は、京都市右京区高雄にある高野山真言宗遺迹(ゆいせき:弘法大師空海が住まわれた寺)本山の寺院で、山号を高雄山と称します。正式な寺号は、「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」といいます。本尊は薬師如来で、開基は和気清麻呂(わけのきよまろ)です。

 神護寺は、神願寺と高雄山寺が、天長元年(824)に合併してできた寺といわれます。この二つの寺は、備前国和気郡の豪族和気氏ゆかりの寺です。神願寺は、8世紀の末に和気清麻呂によって創建された寺です。その所在地については、河内説や山背説など諸説あります。和気清麻呂は奈良時代から平安初期にかけて活躍した高級官僚で、平安遷都などにも尽力しましたが、特に有名なのは、「宇佐八幡宮神託事件」(神護景雲3年:769年)、の当事者だったことです。

 当時は称徳女帝の時代でした。称徳天皇は、聖武天皇の第一皇女で、母は藤原氏の権勢を確立させた藤原不比等の娘光明皇后でした。実は称徳天皇が皇位に就いたのは二度目(重祚:ちょうそ)で、以前は孝謙天皇として在位していました。一旦大叔父で天武天皇の孫の惇仁天皇に譲位しましたが、藤原仲麻呂による専制や、時の政府が新羅討伐を計画したことなどに危機感を覚え、惇仁天皇を廃し、自分が二度目の皇位に就いたといわれます。そして称徳天皇は、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を太政大臣禅師に取り立て重用します。ところが、この道鏡にへつらい、「宇佐八幡宮のご神託によれば、道鏡様に皇位を譲ることにより、この国はますます栄え安泰となるでしょう。」と奏上する不心得者が現れたのです。これを聞いた称徳天皇は、和気清麻呂を宇佐八幡宮(現大分県宇佐市)に派遣して、神託をもう一度確認させました。宇佐から戻った清麻呂は、「宇佐八幡は、臣下の者が皇位に就くことを望んでいない」と奏上しました。これが道鏡の怒りにふれ、清麻呂と姉の和気広虫(法均尼)は神護景雲3年(769)それぞれ大隅と備後へ流罪となってしまいました。この事件は、称徳天皇が、寵愛した道鏡に皇位を譲ろうとしたとしたために起きたという、下世話な見方もありますが、真相は違うという説もあります。実は、称徳と藤原一族とのオデオロギー対決だったのではないかというものです。称徳天皇は、在位中に自分のことを「宝寺称徳孝謙皇帝」と呼ばせていたといいます。また、ほぼ同時期の唐の武則天(則天武后)の政治の影響を受けていたともいわれます。「自分には子供がいない。天武の孫も、惇仁天皇のようにあてにならない。仲麻呂をはじめとして、藤原一族も信頼置けない。」そう考えた称徳は、いっそ中国の皇帝制(天があり、天から選ばれた徳を有する者が皇帝となって、天に代わって支配する)への移行を真剣に考えていたのではないかというのです。そして、最初の皇帝の有力な候補として、道鏡を推薦しようと考えていたということです。これに対して守旧派の藤原一族は、天皇制がなくなれば、それにしがみついて甘い汁を吸うことができなくなるため、あくまで天皇制の維持を主張して猛反対したというのです。策略においては、藤原氏のほうが一枚も二枚も上手でした。夢ついえてしまった称徳天皇は、失意のうちに病にふせってしまいます。そして、宝亀元年(770)称徳天皇は没しました。称徳天皇が死去し、天皇の信望厚かった道鏡は左遷され、入れ代わるように清麻呂と広虫は許されて都に戻ってきました。清麻呂が神願寺の建立を願い出たのはそれから10年後の宝亀11年(780年)あるいは、少し後の延暦年間(782~806年)といわれます。神願寺という寺号は宇佐八幡の神意に基づいて建てた寺という意味でもあります。

 もう1つの前身寺院である高雄山寺(または高雄寺)は、現在の神護寺の地に古くから存在した寺院でした。和気清麻呂の墓所が今の神護寺境内にあることから、ここも和気氏ゆかりの寺院であることは確かですが、創立の時期や事情については明確になっていません。延暦21年(802)に、和気氏の当主であった和気弘世(清麻呂の長男)は伯母に当たる和気広虫(法均尼)の三周忌を営むため、最澄を高雄山寺に招請しました。最澄はここで法華会(ほっけえ、法華経の講説)を行ったといいます。さらに、唐から帰朝した空海は、大同4年(809)に高尾山寺に入寺し、14年間この寺を中心に活躍し、多くの弟子たちに灌頂(かんじょう:密教において、種々の戒律や資格を授け正統な継承者とするための儀式)を行ったといいます。この時、灌頂を受けた者の氏名を書き付けた空海自筆の名簿(灌頂歴名)が今も現存(国宝)しているそうです。

 天長元年(824)に、二つの寺は合併し、寺号を「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」とし、この寺は定額寺(じょうがくじ:官大寺・国分寺(尼寺を含む)に次ぐ寺格を有した仏教寺院)となりました。神護寺が高雄におかれたのは、神願寺が所在した土地に「汚穢」(けがれ)があり、仏法の道場としてふさわしくなかったからだといいます。神護寺は、空海の後を継いだ十大弟子の一人真斉(しんぜい)が伽藍(がらん)を整え、真言宗寺院としての基礎を固め、国家鎮護の道場となりました。しかし、久安5年(1149)の火災によって金堂など多くの堂宇(どうう)を失い、衰微していきました。

 これを中興したのが、平安末期の文覚上人(もんがくしょうにん)でした。文覚は元武士で、遠藤盛遠と名乗っていたころ、絶世の美女といわれた袈裟御前(源渡の妻)に横恋慕してこれを殺してしまったことで有名です。仁安3年(1168)、文覚はまず寺内に草庵を建て、そののち「四十五箇条起請文」を作成し、後白河上皇に神護寺の再建を強く願い出ました。結果的に、上皇の勅許や源頼朝の援助を得て、神護寺は往時以上の盛観を見るようになったといいます。この神護寺の再興は、文覚の弟子上覚(高山寺を中興した明恵の叔父)によって完成し、鎌倉時代には華厳宗の寺院となりました。

 しかし、応仁の乱の兵火で神護寺はまたまた焼失し、荒廃します。その後、豊臣秀吉や徳川家康の寺領寄進により、多くの建物が再建され現在に至っています。

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 神護寺へは、京都駅からですと、JRバス高雄京北線に乗り、「山城高雄」で降ります。バス停から南西に続く参道を進み高雄橋を渡って、乱れ積みの急で長い石段(約350段)登りきったところに、神護寺の楼門があります。

 楼門は神護寺の正門で、両脇に二天像が安置されています。元和9年(1623年)の建立とされる三間一戸の門です。この門をくぐると、予想外に広い境内が目に飛び込んできます。右手には、緑豊かな樹林の中に、書院、宝蔵、和気公御廟など名並んで建っています。正面や左手には堂塔は見えず、深い緑に包まれています。広壮な空間がどこまでも広がっているかのように感じさせます。

 「和気清麻呂公霊廟」は、昭和9年(1934)に建立されました。檜皮葺(ひわだぶき)屋根の霊廟です。霊廟の奥にある鐘楼は、元和9年(1623)の再建とされます。入母屋造(いりもやづくり)杮葺き(こけらぶき)で、下層は袴腰式(はかまごししき)といって、袴のような板張りの覆いが特徴です。京都所司代板倉勝重の寄進とされます。掛けられている梵鐘は、平安時代の貞観17年(875)鋳造のもので国宝に指定されています。この鐘の四面にある銘文は、橘広相(たちばなのひろみ)が序詩を、菅原是善が銘を、藤原敏行が書をという当代一流の貴人学者の手になるもので、「三絶の鐘銘(さんぜつのしょうめい)」として有名です。御廟の隣にある明王堂には、平安時代後期に製作された不動明王像が祀られています。それ以前に神護寺に安置されていた、弘法大師作の不動明王は、天慶3年(940)に、平将門の乱鎮圧のために関東に出開帳されました。その後不動明王は関東の地にとどまり、これを御本尊として成田山新勝寺が建立されたといわれています。

 境内を進んで突き当りを左に行くと、五大堂、毘沙門堂、大師堂があります。金堂へと上る石段の下に建つ五大堂は、元和9年(1623)の再建です。もともとは、天長年間(824~834年)、淳和天皇(在位823~833年)によって建立されたといいます。入母屋造、銅板葺(どうばんぶき)の建物です。五大堂の南に位置する毘沙門堂は、元和9年(1623)の建立で、入母屋造、銅板葺の建物です。新しく金堂が建つ前は、この堂が本堂で、本尊の薬師如来像が安置されていました。現在、内部の厨子(ずし)には平安時代製作の毘沙門天立像が安置されています。毘沙門堂の南西にある大師堂は、安土桃山時代の再建とされ、入母屋造、杮葺き(こけらぶき)の住宅風の仏堂です。もともとは、弘法大師空海の住房であった「納涼房」を復興したものでした。内部の厨子(ずし)には、正安4年(1302)定喜(じょうぎ)作の板彫弘法大師像が安置されています。大師像は秘仏で、11月1~15日のみ開帳されるそうです。

 五大堂北側の石段を登った先に金堂があります。昭和9年(1934)に尾道市出身の実業家山口玄洞(げんどう)の寄進で建てられました。入母屋造、本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。堂内の須弥壇(しゅみだん)中央の厨子に本尊薬師如来立像(8世紀末作:一本造)が安置され、両脇に日光・月光(がっこう)菩薩立像(平安時代前期作)が安置されています。さらに、それらを守るように十二神将立像、四天王立像が安置されています。

 金堂の脇から石段を登った高台に多宝塔があります。金堂と同時期の昭和9年(1934)に、実業家山口玄洞の寄進で建てられました。内部に平安時代前期作の五大虚空蔵菩薩像(ヒノキの一本造)が安置されています(毎年春と秋に特別公開があるそうです)。

 境内の南西のはずれにある地蔵院の前の展望広場で、「かわらけ投げ」ができます。広場にある売店で売られている素焼きの皿(2枚100円:2015年4月)を、錦雲峡に向かって思い切り投げると、厄除けになるというものです。もともと、神護寺が発祥で、その後全国各地に広まっていったのだそうです。

 「宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)」の時、和気清麻呂にかけられたプレッシャーは相当なものだったでしょう。称徳天皇の信任厚い弓削道鏡は、「太政大臣禅師」という最高位にあって、権勢をほしいままにしていたといいます。それに真っ向から逆らえば、失脚は当たり前で、下手すれば命が亡くなる危険もあったに違いありません。しかし清麻呂は、自らの信念に基づき、道鏡に「ノー」といったのでした。清麻呂は一時期流罪となりましたが、道鏡の権力が下り坂に向かうきっかけとなったのがこの事件でした。その信念の人・清麻呂が創建した神護寺が、21世紀の現在も存続し、私たちの心のよりどころとなっていることは、大変うれしく、ありがたいことだと思います。遠い昔の清麻呂の決死の覚悟を思いながらの境内散策でした。



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