ー甲斐健の旅日記ー

建仁寺/日本に禅の教えを広めた栄西が開いた寺院

 建仁寺‘(けんにんじ)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の総本山です。山号を東山(とうざん)といいます。開基は鎌倉二代将軍源頼家、開山は栄西(えいさい)です。

 栄西は、永治元年(1141)に備中国(現在の岡山県)に生まれました。13歳で比叡山に入り、翌年出家します。比叡山では天台宗を学びましたが、その後二度宋に渡り、臨済禅を学び日本に帰国します。当時京では、比叡山の勢力が強大で、新しい教えである禅宗に対する圧迫があったため、栄西は博多に日本最初の禅寺聖福寺を創建しました。そして栄西は『興禅護国論』を書き、禅によって国が守られるという思想を展開します。さらに鎌倉幕府に接近し、ついに二代将軍源頼家の援助と保護を受け、建仁2年(1202)京都へ建仁寺を建立しました。これは、栄西にとって臨済宗の拠点となるものでしたが、旧仏教の圧力を恐れ、初めは天台、真言、禅の三宗兼学とせざるを得ませんでした。いずれにしても栄西の臨済宗は、旧仏教が朝廷の権威に依存していたのに対して、鎌倉幕府という武士の支持によって成り立っていたといえます。この後、徳川家康が儒学を官学にするまでは、臨済宗の禅僧は武士政権の顧問という立場を確立維持していったといわれます。

 さて三宗兼学で始まった建仁寺でしたが、創建から半世紀後の正元元年(1259)に、宋の禅僧蘭渓道隆(らんけい どうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(きく:禅院の規則)が厳格に行われるようになり、純粋な禅寺院となったといいます。

 室町時代になると、足利義満が定めた京都五山の第三位に列せられ、幕府の庇護のもと隆盛をきわめました。しかし、応仁の乱の戦火をはじめ何度か火災に遭い、創建当時の建物は焼失してしまいました。現在見る建物は、その後桃山時代以降に再建または他所から移築されたものです。

 なお栄西は、禅だけではなく、中国から茶種を持ち帰って日本で栽培することを奨励し、喫茶の習慣を広めた「茶祖」ともいわれます。『喫茶養生記』を書き、健康にも仏の道にもかなう飲料として茶を推奨し、この本を三代将軍源実朝に献上したともいわれています。

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 建仁寺へは、京阪電鉄祇園四条駅で降りて、祇園の中心街である四条通を東に進み、花見小路との交差点を右(南)に曲がるルートが人気があるようです。京情緒漂う花見小路を南下すると、建仁寺の北側から境内に入れます。しかし、ここは建仁寺の裏口だそうで、ぐるっと回って、八坂通りに面する勅使門(ちょくしもん)側から入るのが正式のようです。

 勅使門は、鎌倉時代後期に建てられたものとされ、切妻造(きりつまづくり)銅板葺(どうばんぶき)の四脚門です。柱や扉に、戦時の矢が刺さった痕があることから、「矢立門(やたちもん)」と呼ばれています。平重盛(清盛の長男)の六波羅邸の門または平敦盛(清盛の甥)の館の門を移築したものとされます。

 勅使門の側の通用門から境内に入ると、放生池三門法堂(はっとう)方丈が南北に整然と並ぶ禅宗様の伽藍(がらん)配置を見ることが出来ます。三門は、大正12年に、安寧寺(静岡県浜松市)から移築されたもので、もともとは、江戸時代後期の建築物といわれます。二重、三間三戸の八脚門で、入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の門です。御所を望む楼閣ということで「望闕楼(ぼうけつろう)とも呼ばれています。楼上には、釈迦如来迦葉阿難尊者の釈迦三尊像と十六羅漢が祀られています。

 三門の北に位置する法堂は、仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(僧侶が仏教の教えを講義したり公式の法要が行われる堂)を兼ねています。明和2年(1765)に建立されたといわれ、一重、入母屋造、本瓦葺で裳階(もこし)が施されています。桟唐戸(さんからど)花頭窓(かとうまど)が配され、禅宗様仏殿建築です。内部には広い天井のもと、高い須弥壇(しゅみだん)が築かれ、建仁寺本尊の釈迦如来坐像、脇侍として迦葉尊者、阿難尊者が祀られています。また鏡天井には、平成14年に創建800年を記念して描かれたという、小泉淳作画伯の筆になる双龍図が描かれています。元来龍は仏法を守護する存在として、禅宗寺院の法堂にはよく描かれます。また龍は「水を司る神」ともいわれ、僧に仏法の雨を降らせると共に、建物を火災から守ると信じられてきました。通常の雲龍図は、大宇宙を表す円の中に一匹の龍が描かれているのですが、建仁寺の双龍図は、二匹の龍が絡み合って、協力し合いながら仏法を守るという構図で描かれています。

 法堂の北に位置する方丈は、慶長4年(1599)に、安国寺恵瓊(えけい)が安芸(広島県)の安国寺から移築したものとされます。もともとは、室町時代の建造物とみられています。一重、入母屋造、杮葺き(こけらぶき)の建物です(一時期銅板葺になったこともありましたが、近年創建当時の杮葺きに改修されました)。本尊は、東福門院(徳川二代将軍秀忠の娘、後水尾天皇の中宮)が寄進したとされる十一面観音菩薩像です。建物内部に入って、まず目に飛び込んできたのは、「風神雷神図」(陶板複製)でした。これは、俵屋宗達の晩年の最高傑作といわれています。方丈内部の襖絵は、高精細デジタル複製という手法でよみがえった姿を、私たちに見せてくれています。特に「雲龍図」や「竹林七賢図」は、海北友松(かいほうゆうしょう:桃山時代から江戸初期の絵師、狩野元信または永徳の弟子ともいわれる)が描いたものとして、幽冥です。

 方丈と本坊の周囲には三つの庭があります。方丈の前庭は、白砂に緑苔と巨岩を配した「大雄苑(だいおうえん)」と称する枯山水(かれさんすい)の庭園です。庭の正面にある勅使門とその背後に見える法堂が借景(しゃっけい)となっています。1970年に、中国の百丈山の眺めを模して作庭されたそうです。大雄の名も、百丈山の別名の大雄山に因んでいます。なお、庭の南西角の緑の中にある七重塔は、織田有楽斎が兄の信長追善のために立てたものといわれます。

 「○△□乃庭」は、2006年に作庭家北山安夫氏によって造られました。単純な三つの図形を配して、宇宙の根源的形態を示している庭だそうです。すなわち、禅宗の四大思想(地、水、火、風)を、地(□)、水(○)、火(△)の三つの図形で象徴しているといいます。本坊中庭にある「潮音庭(三連の庭)」は、小堀泰巌老大師作庭です。中央に三尊仏に見立てた三尊石があり、その近くに坐禅石を配した、四方正面の禅庭です。縁側から履物を履いて下におりることが出来ます。庭園の周りの細い道を歩いていくと、「東陽坊」という茶室があります。これは秀吉が催した北野大茶会において、千利休の高弟の真如堂東陽坊長盛が担当した副席をここに移したものといわれています。

 旧仏教の強い圧力を感じながら、鎌倉幕府の援助を取り付け京に初めての禅寺(初めは三宗兼学でしたが)を開いた栄西の魂は、今も建仁寺境内に残り人々の平安を祈ってくれている様な気がします。旧仏教の圧力をはねのけるために幕府の権威を利用した栄西は、もしかしたら大変な策士であったのかもしれません。



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