ー甲斐健の旅日記ー

金閣寺/室町三代将軍足利義満の御所であり政庁であった寺院

 金閣寺(きんかくじ)は、正式名は鹿苑寺(ろくおんじ)、山号は北山(ほくざん)といいます。京都市北区にあり、臨済宗相国寺派の大本山である相国寺の山外塔頭(たっちゅう)寺院です。開基は足利義満、勧請(かんじょう)開山は夢窓疎石です。

 「花の御所」を造営し、幕府の権力基盤を固め、南北に分裂していた朝廷をその政治的手腕で統一させ、室町幕府の絶頂期を築いた三代将軍足利義満は、応永元年(1394)に突然将軍職を辞し息子の義持に譲ります。さらに翌年には出家しますが、幕府の実権は握ったままでした。そして、御所兼中央官庁ともいうべき豪勢な山荘の造営を始めます。義満が目を付けたのは、西園寺家が保有する広大な北山第(きたやまてい)でした。この地は、鎌倉時代の公卿西園寺公経(きんつね)が造営した山荘です。公経は、承久の乱のときに朝廷側(後鳥羽上皇)の情報をいち早く幕府に通報し、乱の鎮圧に一役かったとして鎌倉幕府に評価され、太政大臣にまでなった男です。公経亡き後も西園寺家は栄えていましたが、鎌倉幕府滅亡と共に、その勢いは衰えてしまいます。その北山第を譲り受けた義満は、応永4年(1397)に、金閣(舎利殿)を中心とする華麗な殿楼(でんろう)の造営を始めました。ここが義満の住居であり、政務をとる場でもあったため、多くの公家衆がこの山荘(北山殿)に集まってきたといいます。そして、応永15年(1408)には、後小松天皇をここに迎え、盛大なお披露目が行われました。義満絶頂の瞬間です。ところがその二か月後、足利義満は病に倒れ、亡くなってしまいました。

 義満の死後、北山殿はいったん夫人の日野康子の住居となりましたが、夫人の死後、四代将軍義持は、義満の遺言により、ここを禅寺に改めました。寺号は義満の法号である「鹿苑院天山道義」から二字をとって鹿苑寺としました(「鹿苑」とは、釈迦が悟りを得たのち初めて説法した場所の鹿野苑から取った名といいます)。   

 その後、一部の諸堂が南禅寺や仁和寺に移され、縮小していきます。さらに応仁の乱で多くの堂宇(どうう)を失いました(その後一部再建)。また、当初舎利殿として造られた通称金閣は、昭和の初期まで創建当時のまま残っていましたが、昭和25年、鹿苑寺の若い層によって放火され焼失してしまいました。この事件を題材にした三島由紀夫の小説「金閣寺」はあまりにも有名です。現在の金閣は、昭和30年に再建され、昭和61年~62年に金箔の張り替えがおこなわれたものです。なお、この張り替え工事に使われた金の量は約20kg、下地に使った漆の量は約1.5tといわれています。

このページの先頭に戻ります

 金閣寺へは、京都駅から市バスですと、101系統か205系統に乗り、金閣寺道で降ります。バス停からは西に100mほど歩くと、境内に入ります。

 受付で拝観料を払うと、「金閣舎利殿御守護」と書いたお札がもらえます。このお札が入場券となります。入口を入るとすぐに、係員から左に行くよう促されました。そこは、鏡湖池(きょうこち)をはさんで金閣を見る絶好の撮影スポットでした。多くの人々が金閣を背景にして記念撮影をしています。金閣は前述したように、昭和25年に焼失しその後再建されましたが、明治37~39年に解体修理した時に作成された元の建物の図面があったため、出来るだけオリジナルに忠実に再現されたといいます。三層で、屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)杮葺き(こけららぶき)です。また、屋根の頂部には銅製の鳳凰が飾られています。三層ですが、一層と二層の間に屋根が出ていないので、二重で三層という形になります。また、二層と三層は全面金箔張り(三層は内部も床以外は金箔張り)ですが、一層は金箔が張られていません。金閣の三層はそれぞれ様式の違う造りとなっています。一層目は寝殿造で法水院(ほっすいいん)と呼ばれます。二層目は、武家造で潮音洞(ちょうおんどう)と呼ばれます。三層目は、桟唐戸(さんからど)花頭窓(かとうまど)が特徴的な中国風の禅宗仏殿造で、究竟頂(くっきょうちょう)と呼ばれます。 この違うつくりの三層が見事に調和して素晴らしいという評価もありますが、義満は何故このような三層構造にしたのでしょうか。公家の上に武士があり、その上にすべてを統括している法皇としての自分がいるということを誇示しようとしたのでしょうか。また、一層目に屋根の出がなく、金箔が貼ってないのは何故でしょうか。謎は深まります。

 付け加えますが、一層目内部の須弥壇(しゅみだん)中央には、宝冠釈迦如来坐像、向かって右には足利義満座像が安置されているそうです。また二層目内部の須弥壇には観音菩薩坐像、周囲には四天王像が安置されているそうです。さらには、三層目内部には、名前の由来となった仏舎利(ぶっしゃり)が安置されているそうです。  

 金閣を左前方に見ながら、鏡湖池のほとりを歩いていくと、右手に方丈が見えてきます。延宝6年(1678)に、後水尾天皇の寄進により再建されました。単層、入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。この方丈の北側には、京都三松の一つといわれる陸舟(りくしゅう)の松があります。足利義満が大事に育てた盆栽の松を移して、帆掛け船の形に仕立てたものと伝えられます。樹齢約600年だそうです。

 金閣の裏を回り遊歩道を登っていくと、銀河泉(ぎんがせん)があります。これは義満公がお茶ノ水に使ったと伝えられ、今も清水が湧き出しています。さらに先へ進むと、義満公が手洗いに用いたとされる厳下水(がんかすい)があります。さらに先には、龍門の滝と鯉魚石(りぎょせき)があります。これは龍門の滝を鯉が登りきると龍に変身できるという中国の故事にちなんで造られたものです。滝つぼに斜めにおかれた鯉魚石が今まさに龍に変身しようとする鯉の姿を現しているといいます。さらに先には、安民沢(あんみんたく)という池があります。まわりは樹木に囲まれ静かな雰囲気です。この池の小島には、白蛇塚という白い五輪の石塔が立っています。これは、この地に初めて豪勢な山荘を造営した西園寺家の鎮守と伝えられています。

 安民沢を過ぎて山道を登っていくと、夕佳亭(せっかてい)という茶室があります。江戸時代に傾きかけた金閣寺を復興させた鳳林承章(ほうりん じょうしょう)が後水尾上皇のために造らせたといわれます。夕日に映えた金閣がことに佳(よ)いということからこの名がつけられたといいます。また、南天の木を使った床柱でも有名です。

 夕佳亭の先にあるのが不動堂です。天正年間(1573~93)に、宇喜多秀家が再建したとされます。弘法大師空海が造ったとされる石不動明王を本尊としています(秘仏、非公開)。

 それにしても、あの金閣の大胆な金の使い方は、何と豪胆なことでしょうか。それまでの宮廷文化では、使われる色彩は基本的に素木(そぼく)の白だったといわれます。金が使われるのは、身辺につける装身具などの小道具で、小さな華やかさを愛でていたといいます。それらに対する反発(あるいは対抗意識)があったのでしょうか。実際、金閣の一層目の寝殿造には金箔は貼られていません。義満は、従来の皇室を超えた、新しい法皇としての権威を示したかったのかもしれません。



このページの先頭に戻ります

このページの先頭に戻ります


追加情報


このページの先頭に戻ります

popup image