ー甲斐健の旅日記ー

北野天満宮/菅原道真公の怨霊鎮魂を願った神社

 北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社で、旧称は北野神社といいます。二十二社の一つです。「天神さん」や「北野さん」と呼ばれています。太宰府天満宮と共に天神信仰の中心にあり、菅原道真が主祭神です。近年は学問の神として、多くの受験生の信仰を集めています。

 菅原道真は、貞和2年(845)に学者の家に生まれました。祖父清公(きよとも)、父是善(これよし)共に超エリートだったといいますが、道真もその血をついで大変優秀で、向学心にあふれる若者だったといいます。18歳で文章生(もんじょうしょう:中国の詩文および歴史を学ぶ学科を専攻する学生)となり、管理採用試験である「対策」にも合格して、元慶元年(877)には文章博士(もんじょうはかせ:教官、今日の大学教授)となりました。また菅家廊下(かんけろうか)という私塾を開いていたともいわれます。

 寛平2年(890)、宇多天皇に認められ側近となると、蔵人頭、参議、左大弁と出世していきました。「もはや中国から学ぶべきものはない」として、遣唐使の廃止を行ったのもこの頃でした。醍醐天皇の代になっても道真は重用され、昌泰2年(899)、ついに右大臣の地位にまでのぼりつめました。しかし、菅家は右大臣を拝する家格ではなかったため、周囲からの嫉みを買います。とりわけ、左大臣で藤原摂関家の若き御曹子の藤原時平は、道真の異例の出世に危機感を感じていました。そして、道真を失脚させるため一芝居うちました。時平は醍醐天皇に取り入り、道真の無実の罪をデッチ上げ、天皇に訴えたのでした。道真が醍醐天皇を廃し、自分の娘婿の斎世親王(ときよしんのう:宇多天皇の第3皇子、醍醐天皇の弟)を擁立しようとしていると訴えたのです。これを信じた醍醐天皇は、道真を政権から遠ざけました。結局、道真は九州に左遷され、大宰府権師(ごんのそち:長官代理)として都落ちしてしまいます。そして延喜3年(903)、道真は都に戻ることなく失意のうちに亡くなってしまいました。

 しかしここからが、「道真信仰」の始まりです。道真の死後、都では落雷や天変地異が頻発しました。また、藤原家にも変死者が続出し、道真を陥れた藤原時平も、39歳の若さで亡くなってしまいました(延喜9年:909年)。道真の死から20年後には、醍醐天皇の皇太子保明親王が21歳の若さで急死してしまいます。当時は、恨みを残して死んだ者や非業の死を遂げた者が怨霊となり、この世に祟りをなすという「怨霊信仰」が広く人々に信じられていました。これは道真の怨霊のなせる業と恐れた醍醐天皇は、この時期になって道真の左遷を撤回して正二位を贈ったといいます。しかし、怨霊の嵐は吹きやみません。その2年後には保明親王と藤原時平の子(皇太子)が亡くなり、さらにその5年後には、宮中の清涼殿(せいりょうでん)に雷が直撃して、大納言はじめ5人が死傷しました。醍醐天皇は恐怖のあまり発病し、三か月後には退位して、息子の朱雀天皇に譲位してしまいました。

 このような状況の中、天慶5年(942)多治比文子(たじひのあやこ)という巫女が、「われを北野の地に社殿を建てて祀れ」という道真の託宣(たくせん:神のお告げ)を得ました。さらにその5年後には、近江比良宮の禰宜(ねぎ:宮司の補佐役)の息子であった太郎丸も同じような託宣を受けました。そこで、この禰宜と文子が、北野朝日寺の最鎮(さいちん)の協力を得て社殿をつくりました。これが北野天満宮の始まりとされます。その度、天徳3年(959)には、右大臣藤原師輔(もろすけ)が邸宅の用材を移して神殿を造営したといいます。永延元年(987)には勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の勅号が贈られました。そして正暦4年(993)には、道真に正一位太政大臣が追贈されました。その後も朝廷から尊崇され、二十二社の一つとなりました。

 足利将軍家からも崇敬を受けていた北野天満宮でしたが、麹(こうじ)製造の独占権をめぐって室町幕府から攻撃され(文安元年;1444年)焼亡したため、一時衰退していました(文安の麹騒動)。江戸時代になると、学問の神としての信仰が広まり、寺子屋などで、北野天満宮の分霊が祀られるようになりました。明治期になって、一時「北野神社」と名乗っていましたが、戦後になって「北野天満宮」の呼称に戻り、現在に至っています。

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 北野天満宮へは、京都駅からですと京都市バス50系統に乗って「北野天満宮前」で降ります。今出川通りに面した大鳥居が境内への入り口となります。

 大鳥居から社殿に至る参道にも見所がいくつかあります。まず、参道に入ってすぐ左手に松向軒(しょうこうけん)という茶室があります。北野大茶会の折、細川三斎(忠興)が茶の水を汲んだといわれている井戸があります。右手には影向松(ようごうのまつ)があります。樹齢600年以上といわれ、初雪の日に御祭神(菅原道真)がこの松に降りてこられ歌を詠まれるという言い伝えがあるそうです。さらに進むと左手に、伴氏社(とものうじしゃ)があります。菅原道真の御母堂が祀られています。右手にある駐車場の中に太閤井戸があります。天正15年(1587)10月1日、北野天満宮境内において豊臣秀吉による北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)が催行されましたが、その茶会でこの井水が使われたといわれます。この茶会は、まさに大衆参加型のイベントでした。茶道具の名品を一堂に集めて公開展示したり、秀吉、千利休、津田宗及、今井宗久らが名だたる名器で茶を供したりと、一般庶民としては、これ以上ない最高に感激できるイベントであったといいます。常に人気者を気取り、前代未聞のことを企画したがる秀吉の性格が如実に表れているエピソ^ドでもあります。ちなみにこの茶会は10日間行われる予定でしたが、たった1日で終了しています。九州肥後で一揆がおこったためとか、千利休との不和が原因とか言われていますが、真相は謎とされています(秀吉の単なる気まぐれという説もあります)。

 楼門の手前の左手には梅苑が広がっています。約2万坪の境内に50種約1,500本の梅の木があります。例年2月初旬から公開され紅梅・白梅・一重・八重の順に咲き始め、2月下旬から3月中旬まで楽しめるそうです。

 楼門をくぐるとすぐ左手に絵馬所があります。算額(絵馬に数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したもの)等の絵馬が多数奉納されていて、休憩所にもなっています。その奥に絵馬掛所があります。毎年10万もの願い事が書かれた絵馬が奉納されるそうです。楼門を通りさらに北に進むと、右手に神楽殿があります。狂言や日本舞踊、毎月25日には神楽舞が奉納されるそうです。神楽殿から西に進むと三光門があります。

 三光門(中門)は、慶長11年(1607)に建立された、一重、入母屋造(いりもやづくり)檜皮葺(ひわだぶき)の四脚門です。前後に千鳥破風(ちどりはふ)軒唐破風(のきからがふ)が施されています。梁と梁の間に日輪、月輪、三日月が彫刻されている事から三光門と呼ばれます。後西天皇(在位1654~63年)筆の勅額「天満宮」が掲げられています。三光門と回廊でつながる社殿は、御祭神菅原道真公を祀る本殿です。現在見る建物は、慶長12年(1608)の建立とされます。一重、入母屋造、檜皮葺の建物で、正面に千鳥破風が施され、軒唐破風付きの向拝(こうはい)があります。境内北にある地主社は、北野天満宮創建以前からある地主の神で、境内でもっとも古い社とされます。またそのそばにある明月舎では、天正15年(1587)10月1日、豊臣秀吉が催した北野大茶場を記念して毎月1日と15日に献茶会が催されています。さらには、道真の託宣を受け、北野天満宮創建のきっかけをつくった多治比文子を祀る文子天満宮があります。

 北野天満宮の宝物殿にも興味深いお宝が展示されています。ここでは、まず係りの方に概要を説明していただき、その後自由に拝観できるのでとても助かりました。まず入り口正面にあったのは、裏に当時の日本地図が描かれている「日本地図鏡」です。加藤清正が奉納したものだそうです。さらに白馬と黒馬が二面に描き分けられている「曳馬図絵馬」(豊臣秀頼奉納)や北野大茶湯への参加を広く一般民衆にふれ知らせたという高札がかけられています。ガラスケースの中には、道真の一生や天満宮に祀られた由来などを描いた鎌倉時代前期の絵巻物である「北野天満縁起」や、源頼光の配下の渡辺綱が一条戻橋で鬼の腕を斬ったとされる宝刀の鬼切(國綱)などが展示されています。また東山天皇が書いた御神号は途中から「鏡文字(左右反対の文字)」になっています。この理由はいまだに解明できていないミステリィだそうです。地下には、長谷川等伯作の「昌俊弁慶相騎図絵馬」(義経討伐の命を受けて上洛した土佐坊昌俊を馬に乗せて引き立てていく弁慶の雄姿をえがいたもの)が展示されていました。だいぶくすんでいましたが、弁慶と馬の躍動感が伝わってきます。

 最後に、もみじ苑を訪ねました。もみじ苑は梅苑を抜けたところにあります。このあたりには御土居(みどい)があります。御土居とは、豊臣秀吉が、長い戦乱で荒れ果てた京の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街を守る堤防として天正19年(1591)に築いた土塁のことです。この御土居は江戸時代にほとんど取り壊され、今は、北野天満宮の境内はじめ数か所にしか残っていないそうです。ここは、紅葉の名所といわれています。すぐそばには紙屋川が流れ風光明媚なところです。

 菅原道真の怨霊の鎮魂のために建立された北野天満宮ですが、現在の境内には、その祟りの恐怖などみじんもないように感じます。1000年以上もの長きにわたって続けられた、人々の鎮魂への願いが道真公に十分届いたからでしょうか、あるいは「学問の神」として多くの学生(受験生)たちに頼りにされていることに、道真公も満足されているのでしょうか。北野天満宮の境内には、今は穏やかで優しい時間が流れています。



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