ー甲斐健の旅日記ー

清水寺/坂上田村麻呂ゆかりの人気寺院

 清水寺(きよみずでら)は、京都市東山区にある北法相宗(きたほっそうしゅう)の大本山です。山号は「音羽山(おとわやま)」と称します。開山は延鎮上人(えんちんしょうにん)です。

 宝亀9年(778)、大和国興福寺の僧で小島寺で修行していた賢心(後に改名して延鎮)は、夢の中でお告げを受け、北に向かい東山山麓の音羽の滝にたどり着きました。そこで、白衣の行叡居士(ぎょうえいこじ)に出会います。すると行叡は一本の霊木を賢心に渡し、観音像を彫れと言い残して去っていきました。賢心は言われたとおりに観音像を彫り、滝の上にあった草庵にこれを祀りました。行叡上人とは、実は観音菩薩の化身だったといいます。これが清水寺の始まりとされています。

 その二年後、若き日の坂上田村麻呂が妻の病気平癒のため、鹿の生き血を求めて山に入りました。その時賢心に出会った田村麻呂は、観音霊地での殺生を強く戒められました。また、観音菩薩の教えを諭され深く感銘したといいます。そして、妻ともども深く観音菩薩に帰依(きえ)するようになりました。その後田村麻呂は、自らの邸宅を仏殿(ぶつでん)として寄進し、十一面千手観音菩薩を本尊として安置したといいます。清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけているそうです。

 弘仁元年(810)に清水寺は鎮護国家の道場となり、承和14年(847)には三重塔が建立され、伽藍(がらん)がほぼ完成しました。しかし、法相宗の寺として南都(奈良)の興福寺に属していたため、北嶺(ほくれい)の延暦寺からたびたび攻撃を受けたり、応仁の乱の戦火に遭うなどで、焼亡と再建を繰り返してきました。その後、寛永10年(1633)に徳川三代将軍家光が、本堂を再建したのを皮切りに、次々と諸堂が再興され、現在の姿になったといいます。また、昭和40年に法相宗から独立し、北法相宗へと新たに改宗しています。

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 清水寺へは、京都駅からですと市バス100系統に乗り、「五条坂」で降りて五条坂または茶わん坂をのぼっていくのが定番ですが、高台寺から二年坂、産寧坂(さんねんざか)をのぼり、清水坂から入るルートもおすすめです。

 みやげ物屋や茶店が軒を連ねる清水坂を上りきったところに、巨大な仁王門が建っています。応仁の乱で焼けましたが、15世紀末に再建されたものです。平成15年に解体修理及び彩色修復され、朱塗り鮮やかな姿に生まれ変わりました。入母屋造(いりもやづくり)檜皮葺(ひわだぶき)三間一戸の楼門です。門の正面の額(「清水寺」)は、平安時代の三蹟(さんせき)の一人藤原行成(ゆきなり)の筆といわれます。両側に鎌倉時代の作といわれる金剛力士像が置かれています。

 仁王門の手前北側に、馬駐(うまとどめ)があります。かつての貴族や武士はここに馬を止めて参拝したといいます。現在見る建物は、応仁の乱以後に再建されたものとされます。切妻造(きりつまづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。さらに仁王門の手前には、二頭の狛犬像がありますが、どちらも阿形(あぎょう:口を開いた形)になっています(通常は、阿形と口を閉じた吽形(うんぎょう)のペア)。これは、釈迦の教えを大声で世に知らしめているのだといわれます。

 仁王門のすぐ裏にある鐘楼は、慶長12年(1507)の再建で、平成11年に彩色修復されました。菊の花の彫刻のある蟇股(かえるまた)や四隅に配される色鮮やかな象の小鼻が見ものです。

 仁王門をくぐって右(南)側に立つのが西門(さいもん)です。寛永8年(1631)の再建です。切妻造(きりつまづくり)、檜皮葺で、正面に向拝(こうはい)、背面に軒唐破風(のきからはふ)が施され、神社の拝殿の趣があります。ここから見る西山の日没が素晴らしいことから、阿弥陀如来が住むという西方の極楽浄土への入り口とみなされていたと考えられています。この西門も、平成6年に屋根の吹き替えと彩色の復元がなされました。軒下の組み物や蟇股などの彩色は鮮やかです。

 西門の東隣にある三重塔は、寛永9年(1632)の再建で、昭和62年に解体修理され、彩色も復元されました。初層内部には、大日如来像が祀られ、壁、天井、柱には、密教仏画や龍の絵などが極彩色に描かれているそうです。

 三重塔の東に経堂があります。寛永10年(1633)の再建で、平成12年に解体修理され、丹(に)塗り鮮やかなお堂に生まれ変わりました。一重入母屋造、本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。もともとは一切経(いっさいきょう)を所蔵し、また学問僧が集まり経法を講じたり、法会、儀式を行う講堂の役割も持っていたようですが、現在は一切経は残っていないそうです。堂内には釈迦三尊像が安置され、鏡天井には江戸時代の絵師、岡村信基(おかむらのぶもと)筆の円龍が描かれています。毎年2月15日の「涅槃会(ねはんえ)」には、経堂内部が公開され、3.9X 3.0 mの「大涅槃図」が拝観できるそうです。

 経堂の北には随求堂(ずいぐどう)があります。入母屋造、桟瓦葺(さんがわらぶき)で、正面屋根に軒唐破風(のきからはふ)がついています。さらに堂々とした裳階(もこし)が施されています。現在見る建物は、享保20年(1735)の建立とされます。本尊は、江戸期に造られた大随求菩薩像(だいずいぐぼさつぞう)です。脇侍としては、吉祥天立像と毘沙門天立像(現在は宝蔵殿に移されています)が安置されていました。堂の地下を大随求菩薩の胎内に見立てた「胎内めぐり」が体験できます。真っ暗な中を、壁に巡らされた数珠を頼りに進み、この菩薩を象徴する梵字(ハラ)が刻まれた随求石を廻して深く祈り、再び暗闇の中をたどってお堂の上に戻ってくるというものです(拝観料100円:2014年11月)。

 経堂の東に位置する開山堂は、寛永10年(1633)に再建され、平成18年に修復工事が行われました。一重入母屋造、檜皮葺の建物です。丹塗りの柱と屋根をつなぐ組み物には、繧繝(うんげん)彩色という手法が施され、朱や緑など五色で彩られています。堂内中央須弥壇(しゅみだん)上の厨子(ずし)には、坂上田村麻呂夫妻の像が祀られています。併せて行叡居士と延鎮上人坐像が祀られています。

 本堂入口の側に建つのが朝倉堂です。越前の守護大名朝倉貞影の寄進により、永正7年(1510)に建立され、法華三昧の行をするお堂でした。しかし、火災により焼失し、寛永10年(1633)に再建されました。一重入母屋造、本瓦葺で、全面白木造、木口に白い胡粉(こふん)を塗った重厚な建物です。堂内には、左右の一対の腕を頭上に高く挙げて化仏(けぶつ)を戴くという、清水寺型千手観音像が祀られています。

 開山堂の東に、本堂への入り口となる轟門(とどろきもん)があります。寛永8~10年(1631~33)に再建された切妻造(きりつまづくり)、本瓦葺、三間一戸の八脚門です。この門をくぐって、いよいよ本堂に入ります。現在の建物は、徳川家光の寄進により寛永10年(1633)に再建されたものです。寄棟造(とせむねづくり)、檜皮葺で、左右に入母屋造の翼廊が突き出しています。建物の南側には、山の斜面にせり出すように舞台(清水の舞台)が造られ、たくさんの長大なケヤキの柱(139本)で支えられています。この支えには釘が一本も使われていないそうです。このような構造を懸崖造り(けんがいづくり)といいます。舞台の下には、錦雲渓(きんうんけい)という紅葉で有名な渓谷があり、そこから舞台までの高さは約13m(四階建のビルの高さ)あるそうです。舞台の広さは、約190平方メートルあり、ヒノキの板を410枚以上敷き詰めてあり、まさに「桧舞台」となっています。この舞台は、御本尊の観音様に雅楽や能、狂言、歌舞伎、相撲などの芸能を奉納するための舞台で、現在でも大切な法会の時には、舞台奉納が行われているそうです。

 本堂内部は、内々陣、内陣、外陣と区分されています。一般拝観者は、外陣までしか立ち入ることはできません(毎年お盆の時期に特別拝観があります)。内々陣は石敷きの土間となっており、五間幅の須弥壇(しゅみだん)が設けられ、その上の中央の厨子(ずし)に清水寺本尊の十一面千手観音立像、左右の厨子に毘沙門天立像、地蔵菩薩立像が祀られています。また、本尊厨子の左右には二十八部衆像が安置され、部屋の左右端には風神、雷神像が安置されています。本尊の千手観音像は、左右の一対の腕を頭上に高く挙げて化仏(けぶつ)を戴くという清水寺式千手観音像です。秘仏で、原則的には33年に一度しか御開帳(ごかいちょう)されません。最近では、2000年に通常の御開帳、2008~2009年にも特別に御開帳されたそうです。

 本堂の東には、釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院が並んで建っています。私が訪ねたときには、阿弥陀堂は修理工事中でした(2013年11月)。釈迦堂は、寛永6年(1631)の再建です。昭和47年の集中豪雨による土砂崩れで倒壊しましたが、3年後に旧材を使って復元されました。一重寄棟造、檜皮葺の質素なお堂です。内部には釈迦三尊像が祀られています。阿弥陀堂は、寛永8~10年(1631~33)の再建で、一重入母屋造、䙁瓦葺(さんがわらぶき)の建物です。平成8年に彩色復元され、丹塗り鮮やかな姿に生まれ変わったといいます。この阿弥陀堂は、法然上人が日本で初めて常行念仏道場とした場所とされます。堂内には、本尊である阿弥陀如来座像が祀られています。奥の院は、音羽の滝の真上にあり、開山延鎮上人の草庵跡とされます。現在の建物は、寛永10年(1633)に再建されました。一重寄棟造、檜皮葺の建物です。内部には秘仏の三面千手観音坐像、脇侍として毘沙門天、地蔵菩薩が祀られています。また、二十八部衆や風神・雷神像も祀られています。この奥の院は、本堂と同じく崖にせり出した懸崖造りの建物で、ここからは、本堂の舞台やそれを支える柱組が一望できます。

 奥の院が建つ崖の下に、音羽の滝があります。清水寺開創の起源であり、寺名の由来ともなったといいます。三筋に分かれて湧き出る清水を、ひしゃくに汲んで口に含むと、六根清浄(ろっこんせいじょう:五感と、第六感ともいえる意識の根幹を清らかにすること)、所願成就に御利益がるということで、長蛇の列ができていました。

 音羽の滝の南の丘の上に、子安塔が建っています。これは、聖武天皇と光明皇后が祈願して建立されたといわれます。現在見る建物は、明応9年( 1500)の再建とされます。高さが約15m、檜皮葺の三重塔です。内部には子安観音(千手観音)が祀られており、安産祈願に御利益があるとされます。

 音羽の滝から西に下っていくと、清水の舞台の真下に来ます。ここからは舞台を支える縦横に組まれた柱の様子が真近に見てとれます。釘一本使わずにこのような構造を造り上げた寛永の人々の建築技術には、恐るべきものがあると感じました。

 さらに西へ進むと、「アテルイとモレの石碑」があります。8世紀、東北地方の日高見国胆沢(ひだかみこく いさわ:岩手県奥州市のあたり)を拠点としていた蝦夷(えみし)の首長アテルイとその参謀モレに対して、朝廷は坂上田村麻呂を征夷大将軍とする討伐部隊を派遣します。戦いは激戦となり一進一退の状況でしたが、このままでは土地は荒れ、人々の暮らしはよくならないと察したアテルイとモレは、田村麻呂に降伏しました(延暦21年:802年)。その郷土を思う心と、両雄の器量を惜しんだ田村麻呂は、二人を都に連れて行き助命嘆願をしました。しかし、許されず二人は処刑されてしまいます。田村麻呂は大変嘆き悲しんだといいます。この石碑は、平安遷都1,200年を期して、田村麻呂ゆかりの清水寺に、有志により建立されたものです(平成6年建立)。

 清水寺は見どころも多く、さすが京都で一、二を争う人気寺院だと感じました。



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