ー甲斐健の旅日記ー

高台寺/太閤秀吉の天下取りを陰で支えた賢夫人北政所が眠る寺院

 高台寺(こうだいじ)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院です。正式名は「高台寿聖禅寺(こうだいじゅしょうぜんじ)」といい、山号は「鷲峰山(じゅぶさん)」です。豊臣秀吉の正夫人である北政所(高台院)が秀吉の菩提を弔うために建てた寺院です。

 「戦国一の出世頭」として、関白にまで上りつめ天下をほしいままにした太閤秀吉も、慶長3年(1598)に亡くなります。すると、秀吉の妻北政所は、淀君との対立を避けるように大坂から京都へ移り住み、落飾(らくしょく)して高台院湖月尼(こげつに)と称します。そして、秀吉の菩提を弔うためと同時に、自身の終の棲家とするため、一寺を建立することを思い立ちます。これに対して、徳川家康が多大な援助を約束します。秀吉の子飼いの武将で、北政所のもとで育てられた加藤清正や福島正則らを味方に引き入れたいという、政治的な思惑があったという見方もあります。いずれにせよ、秀吉亡き後強大な権力を持ちつつあった家康の援助により、東山の雲居寺(うんごじ)の跡地を用意してもらい、まず実母の菩提寺であった康徳寺を慶長10年(1605)に当地に移しました。そしてその翌年、宏大な伽藍(がらん)を建設し、高台寺が開創されました。

 寛永元年(1624)には、建仁寺の三江紹益(さんこうじょうえき)を招き、高台寺は曹洞宗から臨済宗に改宗します。この三江紹益は、高台寺の中興開山と呼ばれます。同じ年、北政所は亡くなりました。その亡骸は、高台寺霊屋(おたまや)に葬られています。   

 創建当時の高台寺は大伽藍でしたが、江戸時代後期以降何度か火災に遭い、仏殿方丈などを焼失しました。創建当時の建造物で現存しているのは、開山堂、霊屋(おたまや)、茶室の傘亭、時雨亭などです。また明治2年、寺社の免税特権を破棄する目的で発令された上知令(あげちれい)で、約95,000坪あった寺地が、約15,000坪に減らされ現在に至っています。

このページの先頭に戻ります

 八坂神社の南楼門からまっすぐ南に走る下河原通りを南下し最初の交差点を左折し、次のT字路を右折すると、通称「ねねの道」に入ります。豊臣秀吉の妻「ねね(おね)」ゆかりの道です。道の両側には、小さな旅館や門を構える小料理店が並び、ひっそりと忍びやかな京都の雰囲気が感じられます。この道の途中から左(東)に曲がり、長い石段(台所坂)を登ると、高台寺の境内に入ります。なお、京都駅から市バスで来る場合は、206系統に乗り、「東山安井」で降りるのが近いです。

 石段を登りきって左に進むと、白壁が映える切妻造(きりつまづくり)庫裏(くり)が見えます。庫裏の左手を通り境内に入ると、まず織田信長の子信忠の菩提を弔う大雲院の屋根瓦と祇園閣(通称銅閣)が展望できる場所があります。さらに進むと、鬼瓦席(おにがわらのせき)や遺芳庵(いほうあん)といった茶室があります。どちらも、江戸初期の豪商人灰屋紹益(はいやじょうえき)が、一条柳町の遊郭から身請けして妻にした吉野太夫(よしのたゆう)をしのんで建てたもの(あるいは後世の人が二人をしのんで建てたもの)とされ、明治41年に、紹益の旧邸跡から当地に移築されました。特に、壁いっぱいに開けられた遺芳庵の丸窓(吉野窓)が印象的です。

 書院から建物内部に入れます。書院には、山鹿灯籠が展示されていました(2014年11月)。山鹿灯籠とは、室町時代から伝わる伝統工芸で、その作り方には、いくつかの法則があるそうです。まず、木や金具は一切使わず和紙と糊だけで作られます(柱や障子の桟は中が空洞になっています)。また、縦横比を一様に縮小するのではなく、美を追求するために独自のスケールで作られるそうです。北政所が我が子のようにかわいがっていた加藤清正が、朝鮮から和紙の技術者を連れてきて、和紙の製造にあたらせたことから、肥後藩(熊本県)では和紙の製造が盛んになり、山鹿灯籠や山鹿傘などの和紙工芸品に多く用いられるようになったといいます。

 順路に従って、方丈に進みます。方丈は、創建当時は伏見城内の建物を移築したものでしたが、火災で焼失し、大正元年に再建されました。内部には、高台寺の本尊である釈迦如来座像が安置されています。また「豊国大明神」と書かれた秀吉の位牌と北政所の位牌が置かれています。方丈の前庭(南側)は白砂の庭で、山鹿傘に彩られていました(2014年11月)。また、庭の先には勅使門(ちょくしもん:大正元年再建)を臨むことが出来ます。方丈の東側には、偃月池(えんげつち)と臥龍池(がりょうち)を中心に作庭された池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園があります。小堀遠州作といわれ、桃山時代を代表する庭園といわれています。しだれ桜と萩の名所ともいわれます。偃月池には、書院と開山堂を結ぶ廊橋が架けられ(通行不可)、その途中に、観月台が設けられています。三方向に檜皮葺(ひわだぶき)の唐破風(からはふ)が付けられ、その屋根の下で月を眺めることが出来ます。北政所は、ここから亡き秀吉をしのびながら月を眺めていたといわれています。

 開山堂は、中興開山といわれる三江紹益の木像を祀るお堂です。慶長10年(1605)に建立されました。一重入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。堂内は中央に三江紹益像、向かって右に北政所の兄の木下家定とその妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の木像が安置されています。このお堂の天井には、秀吉が愛用した船の天井と北政所が愛用した御所車の天井とが使われているといわれます。

 開山堂の東に霊屋(おたまや)があります。これら二つのお堂は、臥龍池を渡して屋根つきの階段で結ばれています。龍の背に似ていることから臥龍廊と呼ばれています。霊屋は、慶長10年(1605)の建立で、宝形造(ほうぎょうづくり)、檜皮葺の建物です。内部中央の須弥壇(しゅみだん)上に置かれた厨子(ずし)には、大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)像が安置されています。その右の厨子に豊臣秀吉坐像、左の厨子に北政所の片膝立の木像が安置されています。また、北政所の亡きがらは、自身の木像の2m下に葬られているそうです。須弥壇の柱や扉、勾欄、階段部分、厨子などには、華麗な蒔絵(まきえ)が施されており、高台寺蒔絵と呼ばれています。

 霊屋を東に少し登ったところに、傘亭と時雨亭という茶室があります。傘亭は、伏見城から移築したもので、千利休作といわれます。宝形造、茅葺(かやぶき)で、竹で組まれている内部の天井が唐傘に似ていることからこの名がつきました。時雨亭は、傘亭とは屋根つきの土間廊下でつながっています。茶室としては珍しい二階建てで、入母屋造です。これも千利休作といわれ伏見城からの移築です。ただし、伏見城建築は利休の切腹後なので真偽のほどは定かではありません。

 稀代の英雄秀吉を陰で支え続けた北政所は、秀吉亡き後、争いを避けるように京都に移り住みました。豊臣の天下にこだわることなく、歴史の流れに逆らわずに余生を過ごした北政所の生き様のように、高台寺は今も、ひっそりとしてなおかつ安らぎを感じさせるお寺でした。



このページの先頭に戻ります

このページの先頭に戻ります


追加情報


このページの先頭に戻ります

popup image