ー甲斐健の旅日記ー

金戒光明寺/法然が開いた浄土宗最初の寺院

 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院です。山号は紫雲山(しうんざん)と称します。京の人々からは、その地名をとって、通称「黒谷さん」と呼ばれています。知恩院とならんで浄土宗の大本山の1つです。

 承安5年(1175)春、比叡山の黒谷で修行をしていた法然(当時43歳)は、ただひたすらに阿弥陀仏を信じ念仏を唱えれば(専修念仏)すべての人々が救われるとし、そのえを広めるために山を下り、東山のとある地の大きな石の上で念仏を唱えていました。するとその石から紫雲が立ち上り、西の空には金色の光が放たれたといいます。そこで法然は、この地に小庵を建て念仏道場としました。これが金戒光明寺の始まりとされ、最初の浄土宗寺院が誕生したいきさつといわれます(知恩院の寺伝では、法然は43歳で比叡山を下り、東山吉水すなわち現在の知恩院御影堂付近に小庵を結び、浄土宗を広めたとあります。一体、どちらが正しいのでしょうか)。このため、この地も黒谷と呼ばれるようになったといいます。開山は法然上人です。

 この念仏道場は、多くの人々の支持を受け、隆盛をきわめたといいます。第5世の恵顗(えがい)の時に諸堂が整えられ、法然が小庵を結んだいきさつから、紫雲山光明寺と名付けられました。さらに、第8世運空が後光厳天皇(在位1352~71年)に天台宗の大僧になるための戒律を授けたことにより、「金戒」の二文字を賜り、寺号を金戒光明寺と改めたといいます。また、法然が最初に浄土宗の布教を行ったことから、後小松天皇(在位1382~412年)より「浄土真宗最初門」の勅額を賜っています(浄土教の真実の教えを最初に広めたという意味で、宗派としての浄土真宗のことではありません)。

 金戒光明寺は、江戸時代初期には、知恩院と共に城郭構造に改められていました。幕末になって、会津藩主松平容保が京都守護職に任ぜられると(文久2年:1862年)、京都守護会津藩の本陣となりました。藩兵1,000人が常駐していたといいます。守護職御預かりとして、京の治安維持に奔走していた新選組の隊士らも出入りしていたようです。

 金戒光明寺の伽藍(がらん)については、応仁の乱でほとんどが焼亡したとされ、現在見る建物は、その後、豊臣秀頼や徳川幕府によって再建されたものです。

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 金戒光明寺へは、京都駅から5,17,205のいずれかの系統のバスに乗って「四条河原町」で降り、32または203系統に乗り換えて、「岡崎道」で降ります。バス停から北へ道なりに少し歩くと、高麗門に出ます。

 高麗門を入り、左手の石垣を見ながら少し登っていくと駐車場があり、左手に髙い石段の上にそびえ立つ山門が見えます。万延元年(1860)の再建とされます。二重、入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)三間三戸の門です。楼上には、後小松天皇の宸筆とされる「浄土真宗最初門」という額がかけられています。このょうな様式の門は、禅宗寺院にある三門以外には、浄土宗の知恩院と金戒光明寺にあるだけです。金戒光明寺の山門は、春と秋の特別公開日には楼上に上ることが出来ます。京都東山一円を眺望することが出来、建物内の鏡天井に描かれた蟠龍図(ばんりゅうず:江戸時代末期作)を見ることが出来ます。

 山門をくぐって正面に見えるのが御影堂(みえいどう)です。昭和9年に火災で焼失し、現在見る建物は昭和19年の再建です。入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。内陣には、法然上人75歳の肖像が安置されています。法然自身が鏡をとって細部の修正をしたとの言い伝えがあり、「鏡の御影」とも呼ばれています。毎年4月25日の上人の命日の法要時に、一般公開されるそうです。また、右脇壇には吉備観音、左脇壇には文殊菩薩半跏像(中山文殊:運慶作、台座に腰掛けて左足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組んだ像)が安置されています。

 御影堂に隣接する大方丈も、昭和9年に焼失し昭和19年に再建されました。ここには、法然上人の生涯と浄土宗の広がりを表現した枯山水の庭園「紫雲の庭」があります。白川砂と杉苔を配し、法然上人やそのゆかりの人々を大小の石で表現しています。「幼少時代・美作の国」「修行時代・比叡山延暦寺」「浄土開宗・寺門隆盛」と、三つの部分に分かれて構成されています。また、その北には池泉回遊式庭園が続いています。縁から庭におりて、ゆっくり鑑賞することが出来ます。これらの庭は2006年に、73世坪井俊映によって作庭されました。

 山門を入って右手には、阿弥陀堂と納骨堂が並んでいます。阿弥陀堂は慶長10年(1605)豊臣秀頼によって再建されました。金戒光明寺の中では、最も古い建造物です。単層、入母屋造、本瓦葺で左右に花頭窓(かとうまど)のある建物です。堂内には、恵心僧都(えしんそうず)の最後の作といわれる、本尊の阿弥陀如来座像が安置されています。像の腹中には、ノミなどの彫刻用器具が納められており、「おとめの如来」あるいは「ノミおさめの如来」と呼ばれています。恵心僧都は、仏教解説書として名高い「往生要集(おうじょうようしゅう)」を著わした高僧です(寛和元年:985年)。この中で彼は、死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、浄土教の基礎を創りました。 これが、やがて起こる法然の浄土宗や親鸞の浄土真宗に少なからず影響を与えたといわれます。

 納骨堂は、単層、宝形造(ほうぎょうづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物で、堂々とした裳階(もこし)と、左右に花頭窓が施されています。この納骨堂は、もともと一切経蔵(いっさいきょうぞう)だったのですが、現在は納骨されたお骨で造立した阿弥陀如来を本尊として、納骨者の霊を供養するお堂となっています。なお堂内には、法然上人二十五霊場のお砂を集めた「霊場めぐり(お砂踏み)」が安置されており、堂内を右回りに一巡すると、二十五霊場を巡拝したのと同じ功徳を得ることが出来るとされています(何とも効率的ですね)。

 境内には、熊谷直実(なおざね)鎧掛けの松があります。源平合戦で平敦盛(あつもり:清盛の甥)を破り勇名を馳せた熊谷直実が、法然上人と出会い、方丈裏の池で鎧を洗いこの松にかけ、出家を決意したといういわれの松です。直実が鎧を洗った池は、別名鎧池と呼ばれます。直実は、境内に庵を結び念仏修行に明け暮れたといいます。その庵は現在は、蓮池に架かる極楽橋の近くに建つ蓮池院(熊谷堂)となっています。

 蓮池院の東にある御廟には、法然上人の遺骨が祀られているといいます。延宝4年(1676)の再建です。内部の中央厨子の下層に五輪の塔、上層に勢至菩薩、脇壇に法然上人涅槃(ねはん)像が安置されています。また、廟前には熊谷直実と平敦盛の供養塔二基が建てられています。

 極楽橋のあるあたりから、東に長い石段を登ると、幕末の会津藩士の戦死者たちを祀る会津墓地があります。またその近くには、江戸時代初期に二代将軍徳川秀忠の菩提を弔うために建立された三重の塔があります。

 金戒光明寺は、法然が浄土宗を開き、庶民のための仏教を広く普及させた始まりの地とされます。日本仏教の歴史において、大きなターニングポイントを担った地であるともいえます。ただし、浄土宗の聖地としては、知恩院もその役割を果たしたといわれます。どちらが本家本元なのか、今となっては知る由もないのでしょうか。



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