ー甲斐健の旅日記ー

広隆寺/歴代の天皇の御衣をまとった聖徳太子が祀られる寺院

 広隆寺 (こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦(うずまさ)にある真言宗系単立寺院です。山号を蜂岡山と称します。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があります。帰化人系の氏族である秦氏(はたし)の氏寺で、京都最古の寺院といわれます。聖徳太子信仰の寺でもあります。

 秦氏は、中国から朝鮮を経由して渡来した漢民族系の帰化人といわれています。葛野郡(かどのぐん:現京都市右京区南部)に住みつき、養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった一族でした。『日本書紀』によると、推古天皇11年(603)、「私のところに尊い仏像があるが、だれかこれを拝み奉るものはいるか」と聖徳太子が臣下に問いかけると、秦河勝が手を挙げました。河勝はこの仏像を譲り受け、一寺を建立しました。これが広隆寺の前身である蜂岡寺(はちおかでら)です。一説には、聖徳太子が亡くなった推古天皇30年(622)に太子の供養のために建立されたともいわれます。いずれにしても秦氏が建立したのは間違いないようです。蜂岡寺の創建時の所在地は、現在の京都市北区平野神社の近くだったといいます。平安遷都と同時に現在地の太秦に移転されました。

 広隆寺は、創建以来二度の大火に見舞われています。一度目は、弘仁9年(818)でした。この時創建当時の建物はほぼ全焼したといいます。この大火から18年後、空海の弟子の道昌(どうしょう)が別当となり、堂塔や仏像の復興に尽力しました。それゆえ、道昌は広隆寺中興の祖と呼ばれています。二度目は、久安6年(1150)でした。この時も、比較的短期間で復興し、15年後の永万元年(1165)には、伽藍(がらん)の落慶供養が行われています。現存する講堂は、この時建立されたもの(かなり修繕、改造が行われていますが)といわれます。

 広隆寺には、有名な「弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつ はんかしいぞう)」が収蔵されています。この弥勒菩薩半跏思惟像は二体あり、一体は「泣き弥勒」ともいわれる「宝髻(ほうけい)の弥勒」です。百済からの貢献物といわれ、当時一般に用いられていたクスノキの一本造です(一説には日本で製作されたともいわれます)。髪を頭上で束ね、丸みをおびた顔に切れ長の目を伏し目がちにし、口元がギュッと引き締まっています。右手の人指し指と中指が、落ちる涙をそっと抑えるかのような姿なので、「泣きの弥勒」と呼ばれるそうです。もう一体が、あまりにも有名な「宝冠の弥勒」です。この弥勒像は、アカマツ材でできており、古代における日本には製作例がないため、外国から持ち込まれたものといわれます。作風は朝鮮半島の新羅風とされます。ただし、中をくりぬいた後の蓋板はクスノキで、これは朝鮮にはないことから、日本で製作されたとする説もあります。両目を静かに伏せて、おだやかな表情をしていますが、眉から鼻筋への線がくっきりとして理知的に見えます。口元には、わずかに笑みを浮かべているように見えます。胸と腰回りは細く頼りなげですが、下肢は豊かでしっかりとしています。ドイツの哲学者のカール・ヤスパースがこの像を見て、「これほど人間実存の本当の平和な姿を具現した芸術品を見たことは、未だかつてありませんでした。この仏像はわれわれ人間のもつ心の永遠の平和の理想を真にあますところなく最高度に表徴しているものです」といったといいます。秦河勝が蜂岡寺を創建する際に聖徳太子から賜られた仏像とは、この二体の弥勒像の一方かあるいは二体両方とする説が有力となっています。

 広隆寺の現在の本尊は、薬師如来です。平安遷都前後に、弥勒菩薩から薬師如来に変わったとされます。現在安置されている薬師如来立像(秘仏)は、弘仁9年(818)の火災の後に再興されたといいます。

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 広隆寺へは、京都駅からですと、京都バス71,72系統に乗り、「太秦広隆寺前」で降りるとすぐです。

 元禄15年(1702)建立の楼門をくぐって境内に入ります。まず左手に建つのが薬師堂です。木造薬師如来立像(平安時代前期、像高101.3cm)が安置されています。通常の薬師如来像と異なり、女神の吉祥天(きっしょうてん)像のような像容に造られた吉祥薬師像です。参道を少し進むと左手に地蔵堂があります。「腹帯地蔵」と呼ばれる木造地蔵菩薩坐像が安置されています。平安時代後期の作とされ、像高275.8cmです。

 地蔵堂の向かいに建つのが講堂です。永万元年(1165)の再建とされます。朱塗りで「赤堂」とも呼ばれています。正面5間(間は柱の間の数)、側面4間、寄棟造(よせむねづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。京都市内に残る数少ない平安建築の遺構とされます。堂内は敷き瓦を敷いた土間となっており、天井を貼らない化粧屋根となっています。内陣中央には、阿弥陀如来坐像、向かって右に地蔵菩薩坐像、左に虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)座像が安置されています。阿弥陀如来坐像は、承和7年(840)に没した淳和上皇の追善供養のために、女御(にょうご)の永原御息所(ながはらの みやすどころ)の発願により造立されたといいます。入堂はできず、堂外からの拝観となります。また、講堂の裏手に鐘楼があります。

 さらに進むと正面に上宮王院太子殿(じょうぐうおういん たいしでん)があります。広隆寺の本堂に当たる堂です。享保15年(1730)の建立とされます。入母屋造(いりもやづくり)檜皮葺(ひわだぶき)の宮殿風建築です。堂内には本尊として聖徳太子立像が安置されています。秘仏で、毎年11月22日(太子の命日)に開扉されます。像高は148cmです。聖徳太子が秦河勝に仏像を賜った33歳時の像とされます。広隆寺には、大永6年(1526)に即位した第105代後奈良天皇以来、歴代天皇が即位大礼に着用した黄櫨染(こうろぜん:淡く赤みがかった茶色)の御束帯が贈られることになっていて、現在大師像は、今上天皇の御衣を着ているそうです。

 上宮王院太子殿から西に進んだ境内のはずれに桂宮院(けいぐういん)があります。建長3年(1251)に中観上人が聖徳太子を祀るために再興したとされます。単層檜皮葺で、八柱づくりの八角円堂です。法隆寺東院の夢殿の八角円堂を模したものとされます。かつては、堂内の八角形漆塗り春日厨子(ずし)内に聖徳太子半跏像が安置されていましたが、現在は、霊宝殿に移されています。桂宮院が公開されるのは、4,5,10,11月の日曜・祝日となっていましたが、2015年の4月の日曜日に訪ねたところ、残念ながら拝観不可でした。前もって確認した方がよいかもしれません。

 境内北には、仏像を中心として広隆寺の文化財を収蔵展示する霊宝館があります。新霊宝館は、昭和57年に建設されました。弥勒菩薩半跏思惟像二体、不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう:天平時代作)、十一面千手観音像(平安時代作)、十二神将像、阿弥陀如来坐像、聖徳太子半跏像などを間近に見ることが出来ます。

 「聖徳太子は実在したのか?」などという野暮な疑問は歴史家の方々にお任せすることにして、少なくともそのモデルとなった人は確実に存在していたのでしょう。「和をもって貴しとなす」という条文を、『十七条憲法』の第一条にもってきたことにより、日本人が伝統的にもっていたとされる「和」の心の重要性を説き、「冠位十二階」の制により、世襲ではなく実力によって出世できる道を拓いた「聖徳太子」は稀代の政治家であり、その後の日本の礎をつくった人物といっても過言ではないかもしれません。天皇になることがかなわなかった聖徳太子は、今ここ広隆寺で、歴代の天皇の御衣をまとって祀られています。



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