ー甲斐健の旅日記ー

鞍馬寺/見どころ満載、義経ゆかりの寺院

 鞍馬寺(くらまでら)は、京都市左京区鞍馬本町にある寺院で、鞍馬弘教の総本山です。山号は鞍馬山と称します。開基は奈良唐招提寺の鑑真和上の高弟鑑禎(がんてい)です。本尊は寺では「尊天」と称し、毘沙門天千手観音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊です。鞍馬山は牛若丸(源義経)が修行をした地として有名で、能の『鞍馬天狗』でも知られます。

 寺伝(『鞍馬蓋寺縁起』:あんばがいじえんぎ)によれば、宝亀元年(770)に、鑑真の高弟鑑禎が霊夢に導かれ、毘沙門天をこの地に祀ったのが鞍馬寺の起源とされます。鑑禎は霊夢の中で、山城国の北方に霊山があると告げられます。霊山を訪ねて出かけた鑑禎は、ある山の上方に宝の鞍を乗せた白馬の姿を見ます。その山が鞍馬山でした。山に入った鑑禎は女形の鬼に襲われ殺されそうになりますが、あわやという時、枯れ木が倒れてきて鬼はつぶされてしまいました。翌朝になると、そこには毘沙門天の像があったので、鑑禎はこれを祀る一寺を建立したというわけです。

 『今昔物語集』や『扶桑略記(ふそうりゃっき)』によると、延暦15年(796)、藤原南家出身で造東寺長官を務めた藤原伊勢人(いせんど)は、ある夜見た霊夢のお告げに従い、白馬の後を追って鞍馬山に着くと、そこに毘沙門天を祀る小堂(鑑禎が建てたもの?)を見つけましたました。伊勢人は観音菩薩を信仰していたのですが、その晩の夢で一人の童子が現れ、「観音も毘沙門天も名前が違うだけで、実はもともと同じものなのだ」とささやきました。そこで伊勢人は、千手観音像を彫り毘沙門天と共に安置しました。これが鞍馬寺の創建とされます。

 寛平年間(889~897年)に、僧・峯延(ぶえん)が入寺した頃から、鞍馬寺は真言宗の寺になりましたが、12世紀には天台宗に改宗しています。寛治5年(1091)には白河上皇が参詣し、承徳3年(1099)には関白藤原師通が参詣するなど、平安時代後期には広く信仰を集めていたとみられています。その後、大治元年(1126年)の火災などで、伽藍(がらん)は度々焼失しました。特に、文化9年(1812)には一山炎上する大火災がありました。また、近代に入って昭和20年(1945)にも本殿などが焼失しています。このため、現在見る堂宇(どうう)はいずれも新しいものです。しかし、仏像などの文化財の多くは無事で、現存しているそうです。

 長らく天台宗の寺だった鞍馬寺は、昭和22年(1947)に鞍馬弘教を立教して、その総本山となりました。鞍馬弘教とは、神智学(しんちがく)の影響を強く受けた教えです。神智学とは、神秘主義、密教、秘教的な思想哲学体系とされ、全ての宗教、思想、哲学、科学、芸術などの根底にある一つの普遍的な真理を追求することを目指しているのだそうです。千手観音菩薩、毘沙門天、護法魔王尊の三尊を三身一体として本尊(鞍馬寺では「尊天」と呼んでいます)としています。「尊天」とは「すべての生命を生かし存在させる宇宙エネルギー」だとします。また、毘沙門天を「光」の象徴にして「太陽の精霊」、千手観音菩薩を「愛」の象徴にして「月輪の精霊」、護法魔王尊を「力」の象徴にして「大地(地球)の霊王」としています。また、鞍馬寺は、特に「尊天」のパワーが多い場所であるといわれます。「尊天」のひとり、「護法魔王尊」とは、650万年前、金星から地球に降り立ったもので、その体は通常の人間とは異なる元素から成り、その年齢は16歳のまま年をとることのない永遠の存在であるといいます。本殿金堂にある尊天像は秘仏です。そのため、その厨子(ずし)の前に「お前立」と称する身代わりの像が安置されています。お前立ちの魔王尊像は、背中に羽根をもち、長いひげをたくわえた仙人のような姿で鼻が高く、光背(こうはい)は木の葉でできています

 鞍馬寺がある鞍馬山は、「天狗さんがいはるお山」として古くから都の人々に畏怖されてきました。昼なお暗く、ひんやりとする杉林に立つと、突然天狗が樹上から舞い降りてきそうで不気味でもあります。「鞍馬天狗」は大仏次郎が描いたヒーローですが、「本物」の天狗は山岳信仰と結びつき、修験者が守護神として祀ってきたそうです。鞍馬山の天狗は「僧正坊(そうじょうぼう)」と呼ばれ、日本各地に出没する天狗の総元締めといわれています。

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 鞍馬寺へは、出町柳駅から叡山電鉄に乗り、「鞍馬」で下車します。この叡山電鉄鞍馬線には、「パノラミック電車(愛称「きらら」)」が走っています。一時間に1本程度の間隔です。大きなガラス窓の電車で、車内から新緑や紅葉の山の風景を満喫できます。特に、「市原」と「二ノ瀬」間の「もみじのトンネル」は圧巻です。夜間のライトアップもあります。

 鞍馬駅を降りて、土産物屋が立ち並ぶ道を数分ほど歩くと仁王門が見えてきます。仁王門は、寿永年間(1182~1184年)に建立されたのですが、明治になって焼失し、現在見る建物は明治44年(1911)に再建されたものです。ただし、左側の扉一枚だけは寿永年間のものだといいます。三間一戸の和様楼門です。仁王門に安置される仁王像は、湛慶(たんけい:鎌倉時代の仏師、運慶の嫡男)作とされます。この地点がすでに標高250mです。ここから、ケーブルカーで多宝塔まで一気に登ることが出来ます。あるいは、清少納言が『枕草子』で、「近うて遠きもの、(中略)鞍馬のつづらをりといふ道」と書きあらわした、九十九折(つづらおり)の道と石段を30分ほどかけて登る手もあります。

 その九十九折の道を登っていくと、右手に「鬼一法眼社(きいちほうげんしゃ)」という小さな社があります。ここに祀られている鬼一法眼という武芸者は、牛若丸(源義経)に「六韜三略(りくとうさんりゃく)」の兵法を教えた達人といわれます。「六韜三略」とは、紀元前11世紀頃、中国の周の軍師だった太公望呂尚(りょしょう)が書いた中国の代表的な兵法書です。武道の上達を祈願する人々が多く立ち寄るそうです。さらに先へ進むと、「魔王の滝」があります。この崖の上には、鞍馬寺の本尊の一尊である護法魔王尊が祀られています。

 仁王門から九十九折の坂道を10分ほど歩いたところに由岐神社があります。天災や平将門の乱などで政情不安だった天慶3年(940)、朱雀天皇が御所に祀られていた由岐大祭神を鞍馬に遷すことを決めました。この遷座の行列は、道中にかがり火をたき、鴨川の葦で作った松明をもって、神道具を先頭に約1kmに及ぶものだったといいます。この模様を後世に伝えようと始まったのが、毎年10月22日に行われる「鞍馬の火祭」(京都三大奇祭の一つ)です。由岐神社は、天慶3年(940)、鞍馬寺が御所から鎮守社として勧請(かんじょう)したのが始まりとされます。矢を入れて背に追う靫(ゆぎ)を祀り、世の平穏を祈っています。由岐神社の祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと:大国主命、国譲りの神、出雲大社祭神)、少彦名命(すくなびこなのみこと:大国主命の命により国造りに参加した神)です。現在見る拝殿は、慶長12年(1607)に豊臣秀頼が再建したものです。拝殿の中央を通路にした割拝殿(わりはいでん)と呼ばれる形式のものです。この拝殿をくぐると、「願かけ杉」とよばれる樹齢600あるいは800年といわれる大杉が立っています。

 由岐神社の境内から少し登ったところに、「川上地蔵堂」があります。牛若丸(源義経)の守り本尊の地蔵尊が祀られていると伝えられます。牛若丸は、日々修行に行くとき、この地蔵堂に参拝していたといわれます。ここからさらに進むと、道の左手上方に「義経公供養塔」があります。ここは牛若丸(源義経)が7歳から約10年間住んでいた東光坊の跡です。牛若丸はここから、奥の院まで毎夜兵法の修行に通っていたと伝えられています。江戸時代には、かえりみられなくなり廃墟のようになっていましたが、昭和15年(1940)に整備され供養塔が建てられました。

 「義経公供養塔」から更に5分ほど歩くと、中門に着きます。中門は、もともと仁王門の脇にあったもので、勅使が通った門といわれています。中門から九十九折の参道を歩き、さらに石段を登っていくと、その途中の左手に寝殿、右手に転法論堂があります。寝殿は大正13年(1924)建立です。貞明皇后(ていめいこうごう:大正天皇の皇后)の鞍馬山行啓時の休息所だったといいます。また転法輪堂は、昭和44年(1969)の建立です。方四間(間は柱の間の数)、宝形造(ほうぎょうづくり)銅板葺(どうばんぶき)の建物です。内陣に丈六阿弥陀如来像が安置されています。この石段を登りきると、本殿金堂前の広場に出ます。ここで標高410mです。

 本殿金堂は、昭和20年(1945)に焼失し、昭和46年(1971)に再建されました。一重、入母屋造(いりもやづくり)、銅板葺の建物です。内々陣には、尊天(三本尊)が祀られています。中央に毘沙門天像、右手に千手観音菩薩像、左手に護法魔王尊像が安置され、その厨子の前に「お前立」と称する身代わりの像が安置されています。本尊の御開帳は60年毎の丙寅の年(次は2046年?)に限るそうです。

 本殿金堂の右側に、閼伽井(あかい)護法善神社があります。この神社のいわれは次のようなものです。寛平年間(889~897年)のことでした。修行中の峯延上人を雄の大蛇が襲いましたが、この大蛇は捕まってしまいました。しかし、雌の大蛇が魔王尊に供える水を永遠に絶やさないことを誓ったので、それを条件に命を助けられました。その後、2匹の大蛇は閼伽井護法善神としてここに祀られたといわれます。毎年6月20日に行われる『鞍馬山竹伐り会式(たけきりえしき)』は、この故事に因んでいて、水への感謝と吉事の招来を祈る儀式です。大惣法師(おおぞうほうし)仲間と呼ばれる僧兵の姿をした男たちが、大蛇に見立てた青竹を伐ります。二組に分かれて伐る速さを競い、その年の農作物の吉凶を占うのだそうです。

 本殿金堂の前、広場の南端に「翔雲台」があります。ここは、平安京を護るために本尊が降臨した場所とされています。中央にある板石は本殿金堂の後方より出土した経塚(きょうづか:経典などを土中に埋納した塚)の蓋石といわれます。 本殿金堂の後方から出土した経塚には平安時代から伝えられた200余点の遺物が納められており、これらは「鞍馬寺経塚遺物」として国宝に指定されているそうです。本殿金堂の左手に建つのが光明心殿です。ここには、護法魔王尊が祀られています。建物の手前にある、木の杭で囲まれている所が、初寅大祭等の護摩供養に使われる場所だそうです。

 本殿金堂の左手に、奥の院に通じる参道の入り口があります。最初の石段を登る途中の右手に鐘楼があります。寛文10年(1670)の銘がある梵鐘がかかっています。鐘の下の床には、共鳴させるためのツボが埋められています。なおこの鐘は、参拝者が自由に撞くことが出来ます。

 石段を登りきると、霊宝殿があります。1階は鞍馬山自然博物苑で、鞍馬山の動植物に関する展示があります。2階には、寺宝展示室と与謝野鉄幹・与謝野晶子の遺品(文箱、机、歌稿、書籍等)を展示した与謝野記念室があります(鞍馬弘教を開宗した信楽香雲は与謝野門下の歌人であったといいます)。3階は仏像奉安室で、国宝の木造毘沙門天立像、木造吉祥天立像、木造善膩師童子(ぜんにしどうじ)立像の三尊像をはじめとする文化財が展示されています。鞍馬寺の本尊はこの毘沙門天三尊像であったとする説や、同じく霊宝殿に安置されている平安時代後期の重要文化財である兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)の姿に近いものではなかったかとする説もあるそうです。平安時代中期以降の末法思想から生み出された経塚遺跡からの発掘品も見ることができます。

 霊宝殿の前に冬柏(とうはく)亭があります。冬柏亭は昭和5年(1930)に建てられた、かつて東京荻窪にあった与謝野晶子の書斎です。晶子の没後、昭和18年(1943)に門下生である岩野喜久代氏宅(大磯)に移されましたが、岩野氏と鞍馬寺管長の信楽香雲とは同門の縁(晶子の短歌の弟子)があったことから、昭和51年(1976)に岩野氏の好意により、ここに移築されたといいます。「冬柏」の名は、明治33年(1900)創刊し昭和2年(1927)に終刊となった機関誌『明星』(与謝野鉄幹が主宰となり創刊した文芸機関誌)が、昭和5年(1930)に復刊した時の名である『冬柏』に因んだといいます。

 冬柏亭の右側に奥の院に向かう石段があります。3分ほど歩くと道の右手に「息つぎの水」と名付けられた場所があります。牛若丸(源義経)が彼の住居である東光坊から奥の院へ毎夜剣術修行に通っていたとき、喉の乾きを潤したと伝えられている泉です。

 「息つぎの水」から山道を道なりに10分ほど歩くと「源義経公背比石」と彫られた石碑のある場所に着きます。柵の中に石が置かれています。この石は牛若丸が16歳の時、藤原氏を頼って奥州に旅立つ時に背比べをしたと伝えられている石で、牛若丸の背はこの石と同じ高さだったといいます。 この石の高さは決して高くはないので、牛若丸は案外小柄だったということになります。この場所で標高485mになります。

 「背比べ石」から歩いて5分ほどの場所に僧正ヶ谷不動堂があります。昭和15年(1940)の建立です。宝形造本瓦葺(ほんがわらぶき)で、正面に向拝(こうはい)が施されています。堂内に安置されている不動明王は最澄(伝教大師)が天台宗開宗の悲願のために刻んだものと伝えられます。また、謡曲「鞍馬天狗」によると、牛若丸が鞍馬天狗より兵法を学んだのもこの辺りであるといいます。この付近の参道には、「木の根道」と呼ばれている場所があります。この辺りは岩盤が地表近くまで迫っているので、木の根が地中深く入り込むことが出来ず、根が地表に露出した状態になっている場所が多いといいます。

 不動堂のすぐ近くに、義経堂があります。源義経公を護法魔王尊の脇侍「遮那王尊」として祀っています。奥州で亡くなった義経の魂が、幼少期を過ごしたこの地に戻り、今も生き続けているという願いが込められています。義経が剣術の稽古に明け暮れた僧正ヶ谷を見下ろす位置に、堂は建っています。

 僧正ヶ谷不動堂から12分ほど歩くと奥の院魔王殿に着きます。昭和20年(1945)に焼失し、昭和25年(1950)に再建されました。手前に拝殿、奥に本殿があります。本殿は、一間四方、宝形造、杮葺き(こけらぶき)に銅板を張った建物です。「650万年前に金星から地球に降り立った」という護法魔王尊(サナート・クラマ)を祀っています。魔王尊は、鞍馬寺の護法神であり、永遠に16歳の若さを保ち続け、地球進化を司り、人類がやがて水星に移住する時まで守護し誘導する存在であるともいいます。ここの標高は435mです。

 奥の院魔王殿の前から下り坂の山道を15分ほど歩いて下りると西門に着きます。ここから貴船神社は近いので、奥の院から鞍馬寺の方へ引き返す人は少なく、この「西門」をぬけて貴船神社に参拝する人が多いようです。

 僧正が谷で、前にも後ろにも参拝客の姿が見えず、杉木立の中で一人になると、本当に天狗が舞い降りてくるかのような不気味さを感じました。後に平家との争いで、「戦術の達人」とうたわれた牛若丸も、この山の霊気を感じながら剣術の稽古をしていたのかもしれません。鞍馬寺は見どころも多く、普段運動不足の身には少しきついのですが、ハイキングコースとしても十分楽しめると思います。



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