ー甲斐健の旅日記ー

萬福寺/日本の禅宗と江戸文化の発展に多大な貢献をした隠元禅師が開いた寺院

 京都府宇治市にある萬福寺(まんぷくじ)は、正式名を黄檗山萬福寺(おうばくざん まんぷくじ)といい、臨済宗、曹洞宗と並ぶ禅宗の一宗派黄檗宗(おうばくしゅう)の大本山です。開山は、中国の禅僧隠元禅師です。

 隠元は、中国福建省に生まれ(1592年)、29歳で福建省の黄檗山萬福寺で出家しました。その後いくつかの寺を渡り歩き、46歳にして、自分が出家した萬福寺の住職となり、寺の復興に尽力したといいます。承応3年(1654)、隠元63歳の時、先に日本に渡っていた明僧らの強い招請により、弟子20人を伴って日本に渡ってきました。長崎や摂津などで活動していましたが、来日から4年後に、江戸で第四代将軍徳川家綱に謁見する機会を得ました。すると家綱は、隠元を信頼し彼に帰依(きえ)するようになりました。そして、宇治に寺地を確保され、隠元のために寺院が建設されました。これを受けて隠元は、日本に骨をうずめる覚悟を決めたといわれます。新しい寺院は、寛文元年(1661)に開創され、伽藍(がらん)が整ったのは、延宝7年(1679)頃でした。寺名は、中国で住職をしていた寺の名そのままに、黄檗山萬福寺としました。隠元禅師の教えは多くの人に共鳴を与え、たくさんの帰依者が隠元のもとに集まりました。停滞していた日本の禅宗の隆興に多大な功績を残したとされ、日本禅宗中興の祖師とも呼ばれています。

 萬福寺の建物や仏像は、中国様式(明代末期)で造られており、寺院内で使われる言葉や儀礼作法も中国式といわれます。お経も、唐音とよばれる中国語を基本として読まれます。さらには、「梵唄(ぼんばい)」と呼ばれるものがあります。これは歌のようなお経で、4拍子のリズムを刻みながら節の付いたお経を詠んでいくというものです。法要ではこれに、鐘や太鼓などの鳴物を合わせて読経するそうです。萬福寺の公式ホームページで本物を聞くことが出来ます。

 黄檗宗は、もともと明代の臨済宗として日本に伝わりましたが、以上のように、鎌倉時代から続いてきた日本の臨済宗とは異なる部分が多いため、明治9年、一宗として独立し「黄檗宗」を公称するようになったといいます。ここに、禅宗三宗派がそろったことになります。

 また、隠元禅師が中国から持ち込んだ技術や文化は、美術、医術、建築、史学、文学など広範囲に及び、宗教界だけでなく、江戸時代の文化に大きな影響を与えたといわれます。隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹(タケノコ)、木魚なども隠元禅師が伝えたものだそうです。また、萬福寺の精進料理は普茶(ふちゃ)料理と呼ばれる中国風で、植物油を多く使い、大皿に盛って取り分けて食べるのが特徴だそうです。あらかじめ予約をすれば、食べることが出来ます。

このページの先頭に戻ります

 JR奈良線か京阪宇治線の黄檗駅で降りて、東に5分ほど歩くと、萬福寺に着きます。道路沿いに建つ総門は、いかにも中国風という感じです。寛文元年(1661年)の建立です。左右の屋根が低い牌楼(ぱいろう)式で、屋根にはインドの想像上の動物「摩伽羅」(まから:インド神話に登場する怪魚、水を操る力を持つという)が飾られています。

 総門をくぐって少し歩くと三門があります。延宝6年(1678)の建立で、三間三戸(門の正面の柱と柱の間が三つあり、すべて通路となっている)の二重門です。ちなみに日本の禅宗寺院は五間三戸が一般的です。三門に架かる額(「萬福寺」)は、隠元禅師の筆だそうです。三門をくぐると、東に向かって、天王殿(てんのうでん)、大雄宝殿(だいおうほうでん)、法堂(はっとう)が並び、それらが回廊で結ばれるという中国式伽藍(がらん)となっています。諸堂の正面左右に掛けられている対聯(ついれん:細長い書軸)も中国風です。また、境内の諸堂をつなぐ道は、砂地の中央にひし形の石を角を合わせて並べ、その両側に細長いかずら石を配置するデザインとなっています。中央のひし形の石を踏んで歩けるのは、住持と高僧および参拝者のみで、修行僧は両側のかずら石の上を歩くのだそうです。さて、三門からひし形の石を踏んで天王殿に向かいます。

 天王殿は、寛文8年(1668)の建立で、一重入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)で、寺院の玄関にあたる建物です。内部には、中国では弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身といわれる布袋尊(ほていそん)、四天王韋駄天(いだてん)が祀られています。    

 大雄宝殿は、寛文8年(1668年)の建立で、一重入母屋造、本瓦葺の建物です。大きくて堂々とした裳階(もこし)が施されています。日本の一般的な寺院の本堂仏殿にあたる建物です。日本では唯一最大のチーク材を使った建造物だそうです。内部には、萬福寺本尊の釈迦如来座像(脇侍に阿難尊者迦葉尊者)の他、十八羅漢像を安置しています。

 大雄宝殿の東に位置するのが法堂です。寛文2年(1662)の建立で、一重入母屋造、䙁瓦葺(さんがわらぶき)の建物です。法堂は僧侶が説法をする場所です。前面にある「卍くずし」の勾欄(こうらん:欄干)が中国風を醸し出しています。

 大雄宝殿の南にある斎堂(さいどう)は、僧侶が食事をするところです。堂の前に魚の形をした開梆(かいぱん)が吊るされています。これは、たたいて食事や法要の時を知らせるもので、現在も使われているそうです。また、これが木魚の原形となったといわれています。大雄宝殿の北側には祖師堂があります。ここには、インドから中国に禅の教えを伝えた中国禅宗の祖達磨大師像が祀られています。またその左右には、歴代住職の位牌が安置されています。

 三門の北には開山堂があります。(1675)の建立で、一重入母屋造、本瓦葺で裳階が施されています。内部には、開山の隠元禅師の木像が安置されています。開山堂の前面の勾欄も「卍くずし」となっており、中国風を醸し出しています。

 萬福寺は、中国風の趣が随所にみられ、日本古来の寺院とは違った雰囲気が感じられる興味深い寺院でした。



このページの先頭に戻ります

このページの先頭に戻ります


追加情報


このページの先頭に戻ります

popup image