ー甲斐健の旅日記ー

西郷隆盛/西郷どん~ゆかりの地を訪ねる

 西郷隆盛といえば、明治維新を成し遂げた中心人物の一人として、今や「国民的英雄」となっています。明治10年(1877)に起きた西南戦争で新政府にたてついた薩摩士族のリーダーに祭り上げられたため、戦後の一時的は賊軍の将として処遇されたこともありました。しかし、その12年後(明治22年)、大日本帝国憲法の発布に伴う大赦により復権し、その名誉が回復されました。これには、西郷に好意を抱いていた明治天皇の意向や盟友だった勝海舟の働きかけがあったといわれます。西南戦争の遠因の一つとなった明治六年の政変の実態、西郷は本当に征韓論者だったのかという疑問等々については、「コラム:西郷隆盛は本当に征韓論者だったのか」を参照していただくとして、このページでは、鹿児島市内の西郷どん(せごどん)ゆかりの地を紹介していきたいと思います。

 鹿児島市内の名所をめぐるには、「まち巡りバス」または「シティビューバス」を利用するのが便利です。ここでは、「まち巡りバス」に乗って鹿児島市内の西郷どんゆかりの地をめぐっていきましょう。なお、「まち巡りバス」の一日乗車券は500円(2017年11月現在)、20分おきに鹿児島中央駅から発車しています(始発8:55、最終17:35)。

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 「まち巡りバス」に乗って、西郷どんゆかりの地を訪ね歩きます。

西郷隆盛銅像

 鹿児島中央駅から「まち巡りバス」に乗って二つ目のバス停「西郷銅像前」で下車します。バス停近くを南北に走る広い通り(国道10号線)の西側に西郷隆盛銅像があります(歩道橋の近くです)。この銅像は、西郷隆盛没後50周年を記念して昭和12年(1937)に製作されたものです。鹿児島出身の彫刻家で東京渋谷駅前にある「忠犬ハチ公」の制作者としても有名な安藤照氏が8年の歳月をかけて製作したという労作です。本体の高さ5.76m、土台を入れると6.97mあります。陸軍大将の制服を着て、城山をバックに仁王立ちする姿は圧巻です。愛犬を連れてウサギ狩りに出かける東京・上野の西郷さんとはだいぶん違う雰囲気です。

鶴丸城址

 西郷隆盛銅像から国道を北に400mほど歩いた左手に鶴丸城址があります。鶴丸城は、慶長7年(1602)、島津家久(忠恒:18代当主)によって築城されました。鶴が羽を広げるような形状をしていたため鶴丸城と呼ばれたといいます。天守閣を持たない城でした。そのわけは、幕府に恭順を示すためだったとも、守りよりも攻めを重視した思想が反映されたものだともいわれます。「外城(とじょう)制度」のもとに、領内に多くの軍事的拠点を作り上げていた島津氏ならではの城構えともいえます。現在遺構として残っているのは、大手門との間にかかる石橋、石垣、堀などです。また、2020年3月完成を目指して、大手門(御楼門)復元のプロジェクトが進められているそうです(2017年11月現在)。

私学校跡

 鶴丸城址から国道をさらに北へ150mほど進むと左手に私学校跡があります。明治六年の政変(1873)で下野した西郷隆盛は鹿児島に帰り、側近の桐野利秋、篠原国幹(くにもと)や鹿児島県令の大山綱良らとともに、私学校を設立しました。私学校は旧鶴丸城内につくられ、「幼年学校」「銃隊学校」「砲術学校」の三校で構成され、陸軍士官養成が目的だったと伝えられます。また、明治新政府に不満を持つ不平士族の暴発を防ぐためだったともいわれます。教務は、主に漢文の素読と軍事教練でした。生徒は城下の士族で、多いときは800人もいたといいます。また、市内に10、県内には136の分校がある大きな学校でした。明治10年(1877)1月29日、明治新政府が西郷暗殺の陰謀を企てているという情報を手にした私学校の生徒らが、鹿児島鎮台の弾薬庫襲撃を企て、これが西南戦争のひきがねになったといわれます(西郷暗殺の企ての真偽は不明のままです)。このとき西郷は私学校の生徒らに、

「おはんら、何たることしでかしたか」

と叫んだといいます。結局私学校は、西南戦争で薩軍が敗北した後廃校となりました。

西郷隆盛終焉の地

 ちょっと歩きますが、私学校跡から国道を300mほど北上し、鹿児島本線の踏切を渡って(側道)左折し、線路を左手に見ながら細い道を250mほど歩くと右手に西郷隆盛終焉の地があります。西南戦争・田原坂(たばるざか)の戦いで敗れた西郷軍は、南九州を敗走して鹿児島に戻り、城山にたてこもります。明治10年(1877)9月24日未明、この城山を包囲した政府軍は一斉攻撃を開始しました。わずか300余りとなった西郷一行は岩崎谷を駆け下り、最後の抵抗を試みましたが力尽き、西郷も腰と太ももに銃弾を受けてしまいました。もはやこれまでと悟った西郷は「晋どん、もうここらでよか」と側近の別府晋介に介錯を頼み、この地で波乱の生涯の幕を閉じたのです。享年51歳(満49歳)でした。

 終焉の地にある記念碑の碑文には、「丁丑之役交戦数か月、薩軍日州長井村の重囲を破り、連戦数回鹿児島に帰り城山に拠る。時に9月1日、官軍従ってこれを囲む。これよりのち、激戦虚日なし。同24日の未明、官軍衆を悉くして迫る。翁すでに決するところあり。諸士を卒いて城山を下る。弾丸雨下半ば途に殪る。翁ついに岩崎谷口の砲塁を擁して自刃す。年51歳。桐野利秋、村田新八、桂久武、池上貞固、別府景長、辺見十郎太、その他悉くこれに倣う。今この碑の立つ所、これ、その終焉の地なり。いずくんぞこの旧跡をして煙滅せしむるに忍びんや。ここにおいて、有志相謀り石碑を建てもって永く記念となす。明治32年9月、これを建てる。」とあります。

西郷洞窟

 私学校跡近くのバス停「薩摩義士碑前」から「まち巡りバス」に乗り、次の「西郷洞窟前」で下車します。西郷隆盛終焉の地からは、線路沿いの坂道を西に600mほど登ったところにあります。結構急な坂道ですので、バスで行く方が賢明かもしれません。西郷洞窟は、政府軍に包囲された西郷一行が最後の5日間を過ごしたとされる洞窟です。奥行きが4m、間口が3m、入口の高さが2.5mあります。明治10年(1877)9月24日午前4時、城山を包囲した4万の政府軍による総攻撃が始まりました。死を決した西郷は、桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎らの仲間とともに、夜明けを待って洞窟を出て、岩崎谷を下っていきました。その時、流れ弾が西郷の腰と太ももに命中したのです。もはやこれまでと悟った西郷は、別府晋介の解釈により自刃して果てました。

城山公園

 「西郷洞窟前」でバスに乗車すると、次が「城山」です。城山は西南戦争最後の激戦地となった場所ですが、現在では遊歩道(薩摩義士碑から城山に上る約2㎞のコース)が整備されています。樹齢400年ともいわれるクスの大木をはじめ、シダ、サンゴ樹など600種以上の植物が自生していて、鹿児島市民の憩いの場ともなっています。標高107mの展望台からは、桜島や鹿児島市街の眺望が楽しめます。展望台の近くには西南戦争陸軍本営跡があります。戦後、この地に時報のための大砲が供えられたことから、「ドン広場」と呼ばれています。

南洲公園

 「城山」からバスに乗って三つ目の「南洲公園入口」で下車し、バスの進行方向とは逆(西)に150mほど歩いて長い石段を上ると、南洲公園に着きます。南洲公園内にある南洲墓地には、西郷隆盛をはじめ西南戦争で命を落とした志士たちの墓が並んでいます。桐野利秋、村田新八、別府晋介らの墓にもお参りすることができます。また、南洲墓地の入口には、明治10年(1877)5月に鹿児島県令となり、西南戦争の後処理に尽力した元土佐藩士・岩村通俊の記念碑が建っています(悪名高き高俊の兄です、兄・通俊の方は温和な性格だったようです)。岩村は、西郷以下戦死者の遺体を丁寧に埋葬し、自ら戦死者の墓碑を書いて立てたといいます。ここ南洲墓地には、当初西郷以下40名が葬られていました(他は鹿児島市内4か所に仮埋葬されていました)。その後明治12年(1879)には224名の遺骨がこの地に改葬され、さらに明治16年(1883)には、鹿児島県外で戦死した陸軍兵の遺骨も集められ、現在では2,023人が埋葬されています。そして大正11年(1922)には南洲神社として認定されることになりました。神社の拝殿の中には、西郷隆盛胸像があります。

 南洲墓地の南側には、西南戦争後に勝海舟が亡き友・西郷のために詠んだという歌碑があります。

 ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし 君かな

私学校生徒らの暴走を止めることができず、ついには彼らとともに戦うことを決意し滅びていった西郷の心境を慮った勝海舟の無念さがにじみ出ている歌です。この歌碑の隣には、昭和14年(1939)東京市から寄贈された常夜燈が建っています。西郷と勝の会談によって江戸無血開城が成り、100万の江戸市民を兵火から救った功績への感謝のしるしとして東京市が建立したものです。歌碑、常夜燈ともに花崗岩でできています。また、墓地の西隣には、西郷南洲顕彰館(昭和52年建立)があります。西郷隆盛直筆の墨蹟や西郷関連資料が展示されています。また西郷隆盛の生涯ジオラマや西南戦争関連の映像ライブラリィを見ることもできます。ただし、館内は写真撮影禁止です。

西郷隆盛誕生地

 最後に、西郷ファンならどうしても訪ねておきたいのが西郷隆盛誕生地でしょう。「まち巡りバス」ですと鹿児島市内を一周して鹿児島中央駅に戻る一つ手前の「維新ふるさと館前」が最寄りの停留所です。鹿児島中央駅から歩くとすれば、駅前の広い通り(ナポリ通)を直進して5~600mほど行ったところの高麗橋交差点を左折し、橋を渡ってすぐのT字路を左に曲がると右手に西郷隆盛誕生地があります。明治維新実現の最大の功労者の一人であり国民的英雄となった西郷隆盛は、文政10年(1827)、小姓与(こしょうあずかり:下級藩士)の吉兵衛の長男として、下鍛冶屋町(現・鹿児島市鍛冶屋町)のこの地に生まれました。当時、この一帯には下級武士が多く住んでおり、西郷の盟友・大久保利通、のちに陸軍大将となった大山巌、東郷平八郎も近所に住んでいました。13歳の時、けんかの仲裁に入った西郷は腕を斬られ、以来腕が十分に動かせなくなったといいます。そのため、武芸で身を立てるのをあきらめ、学問に身を入れるようになりました。西郷にとって大きな転機となったのは、安政元年(1854)、第28代当主・島津斉彬に認められ、薩摩藩の江戸藩邸で「御庭方役」に抜擢されたことでした。当代随一と言われた名君・斉彬から直接教えを受けたことや、情報収集のために多くの著名人と知り合いになれたことが、のちの西郷の活躍に大いに役立ったと思われます。その後二度の遠島処分に遭うなど紆余曲折はありましたが、明治維新推進の中心人物として、新たな歴史を切り開く大仕事を成し遂げました。

 西郷隆盛誕生地は、現在は閑静な住宅地の中の公園になっています。大きな楠木に囲まれて、「西郷隆盛君誕生の地」と書かれた石碑があります。また、隆盛の弟の従道(つぐみち)の誕生の碑もあります。誕生地の南側、甲突(こうつき)川沿いに「維新ふるさとの道」という公園があります。島津日新公いろは歌47首の原文とその意訳が紹介されている「いろは歌の広場」や鍛冶屋町で生活していた下級武士の邸を再現した「武家屋敷」を見ることができます。また公園内にある維新ふるさと館では、維新を支えた英雄、西郷や大久保利通に関する様々な展示物や、映像を楽しむことができます。なお、維新ふるさとの道の西を走る電車通りには大久保利通の銅像が立っています。没後100年を記念して昭和54年(1979)に中村晋也(彫刻家)氏によって制作されました。本体高さ4.3mの巨大な像です。

 鹿児島市内を歩いていると、いたるところに「西郷どん」ゆかりの地があります。西郷が鹿児島市民にいかに慕われているかがわかります。稀代の英雄であるとともに、その人間的魅力が多くの人をひきつけてやまない、すごい人だったんですね。



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