ー甲斐健の旅日記ー

西郷隆盛は本当に征韓論者だったのか
~明治六年の政変の真相

 明治新政府ができて間もない明治6年(1873)10月、政権中枢の土台を揺るがすほどの政争が起きました。明治六年の政変です。定説では、──「征韓論」をめぐって政権内部がまっぷたつに割れた。「即時征韓」を唱えていた西郷隆盛(薩摩)、板垣退助、後藤象二郎(土佐)、江藤新平、副島種臣(佐賀)の5名の参議と、「征韓は時期尚早」と主張する三条実美(公卿:太政大臣)、岩倉具視(公卿:右大臣)、大久保利通(薩摩)、大隈重信(佐賀)、大木喬任(佐賀)の5名が激しく対立していた。結局、西郷ら即時征韓派が論争に敗れ、5名の参議が下野した。この事件は、その後に起きた不平士族の反乱である佐賀の乱や西南戦争の遠因となった。──と言われています。

 ところが近年になって、西郷がバリバリの征韓論者であることに疑問を呈する意見が数多く出ています。また、明治六年の政変は単なる政策論争ではなく、その奥にはドロドロとした権力闘争があったという指摘もあります。その後の日本の行く末を決定づける意味でも重要なターニングポイントとなった明治六年の政変の真相について、考えてみたいと思います。まずは、「明治六年の政変」前夜の状況について振り返ってみます。

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朝鮮問題

 明治新政府は、王政復古により新体制になったことを諸外国に通知していました。当然、隣国の朝鮮にも対馬藩を通して書面で伝えようとしました。しかし朝鮮側は、書中に「皇祖」、「皇室」の文字があるとして受け取りを拒否してきたのです。当時の朝鮮(李氏朝鮮)は中国(清)を宗主国としており、「皇」の字が使えるのは中国の皇帝のみだとして、日本側の「非礼」を非難したのです。廃藩置県により対馬藩がなくなった後は、明治政府が直接朝鮮に使者を送りました。明治3年(1870)正月、外務省権大録(部長級)の佐田伯茅(はくほう)と森山茂は公文書を携えて釜山に入りましたが、またしても朝鮮側に拒否されました。帰国した佐田は、「もはや武力によって強制的に(朝鮮を)開国させるしか手がない」として強硬な征韓論者となったといいます。その運動は、やがて全国の不平士族の共感を呼び支持を広げていきました。

 その後も何度か日本側から使節派遣を打診しましたが、朝鮮側は拒否し続け、日朝関係はどんどん悪化していきました。そしてついに、明治6年(1873)5月、朝鮮側は実力行使に出ます。日本から釜山の日本公館へ送る物資の搬入を妨害し、なおかつ、日本を「無法之国」と侮蔑する書を公館の門に張り付けるという行為に及びました。事ここに至っては見過ごすことはできないとして、外務省は太政大臣・三条実美に訴え、正院で事態収拾の方策を審議するよう求めました。朝鮮問題は明治政府の重要課題の一つになったのです。

日清修好条規の締結

 朝鮮国との交渉が暗礁に乗り上げていたころ、明治政府は清国とも修好条規を結ぶべく交渉していました。アヘン戦争でイギリスに敗れて不平等条約を押し付けられる以前の清(中国)ならば、宗主国としてのプライドにかけて、決して日本と対等な条約を結ぶことなどありえなかったでしょう。しかし、欧米列強の進出に苦しんでいた清国も、同じ東アジアの国であり、同様に不平等条約を押し付けられた日本との関係改善が重要だと感じたのでしょうか──明治4年7月に日清修好条規が調印されました。この条規は、「双方の領土への不可侵」を定めたもので、双方に領事をおき、制限的な領事裁判権をお互いに認めるなど、対等で平等なものでした。秦の始皇帝以来、東アジアの宗主国として君臨し続けてきた中国との対等で平等な条規の締結は、日本外交史上でも画期的な出来事だったといえます。しかし、この条規はなかなか批准(条約などの効力を発動させる手続き)されませんでした。日清の軍事同盟につながると警戒した欧米列強の横やりがあったためだといわれています。ところが、明治5年に発覚したマリア・ルス号事件をきっかけにして、批准作業は進むことになります。マリア・ルス号事件とは、ペルー船籍の船に多くの清国人が閉じ込められ奴隷的待遇を受けていたことが、イギリス船に助けられた清国人の証言によって明るみに出た事件です。明治政府は、副島種臣(そえじまたねおみ)外務卿(外務省長官)の決断でペルー船を拿捕して約230人の清国人を救出し、ペルー人船長も捕縛して裁判にかけました。この行動が、日・英・清三国の信頼関係を生み、日清修好条規の批准作業を推し進める力となりました。

 ちょうどそのころ、台湾との間に新たな問題が起こりました。嵐で遭難した琉球八重山の漁民54人が、漂着した台湾で原住民に殺害された事実が発覚したのです。明治6年3月、外務卿の副島種臣は、日清修好条規の批准書交換のため清国に渡っていましたが、この問題も交渉の場に取り上げ清国の責任を追及しました。すると清国側は、台湾は「化外の地(けがいのち)」であって清国の責任が及ばないと返答してきました。副島は、「ならば朝鮮はいかがか」と尋ねると、朝鮮とは宗属関係にあるが、朝鮮の外交上の自主性を損なうものではないとの返答が返ってきました。すなわち、日本が台湾や朝鮮に対してとる行動には一切干渉しないという言質を取ることに成功したわけです。日米修好条規の批准書交換とともに、副島外交は大成功をおさめ、同年7月27日意気揚々と帰国しました。

相次ぐ汚職事件

 明治維新を成し遂げたことによる気のゆるみからか、あるいは明治新政府の中で思いもよらぬ出世をした政府高官の慢心からか、大きな汚職事件が続発しています。まずは山城屋和助事件です。元長州藩奇兵隊士の野村三千三(みちぞう)は、維新後商人となり山城屋和助と名乗っていました。陸軍省大輔(たゆう:副長官)の山県有朋(やまがたありとも)が元奇兵隊長だったこともあり、そのつてで陸軍省の御用商人となり大儲けをしていました。生糸相場に目をつけた山城屋は、陸軍省から多額の資金を借りて投資しましたが、ヨーロッパで普仏戦争(フランスとプロイセン王国との戦い)が始まると生糸相場は暴落し、山城屋は大損をしてしまいました。あきらめきれない山城屋は、さらに多額の資金を陸軍省から借り出しましたが(総額64万9千円:陸軍省年間予算の約一割)、挽回することはできませんでした。やけになった山城屋は、パリに渡り商売そっちのけで豪遊に明け暮れたといいます。このことがフランス駐在の外務省職員から本国に報告され、新政府の知るところとなりました。司法卿(司法省長官)の江藤新平は、部下に指示し徹底捜査を命じました。尻に火が付いた山県は、山城屋に貸し付け金の即時返済を求めましたが、パリで豪遊してすってんてんになった山城屋に返すあてなどあるはずがありません。明治5年11月、山城屋は一切の証拠を湮滅し、陸軍省応接室で割腹して果てました。司法省はさらに山県を追求する姿勢をみせましたが、山県の軍政能力をかっていた西郷隆盛がかばってくれたこともあり、山県は陸軍大輔の職にとどまることができました。結局、陸軍省会計監督長の船越衛がその責任を負って辞職させられ、この事件は一応の決着をみました。

 次に発覚したのが、尾去沢銅山事件です。尾去沢銅山(秋田県鹿角郡)は、元南部藩の支配下にありましたが、村井茂兵衛という南部藩の商人が藩の借金の証人になったことから、採掘権を与えられていました。銅山は、村井の資本投入と才覚により利益を上げていました。その後、廃藩置県によって旧藩の債権・債務が明治新政府に引き継がれることになりました。その際、大蔵省は旧南部藩の書類の中から、同藩御用達・村井茂兵衛が5万5千円を「内借し奉る」と書かれた証文を見つけました。村井が藩から金を借りたという表現ですが、これは封建時代の慣例で、殿さまに金を貸すとは恐れ多いとして「貸」の代わりに「借」の文字を契約書に書き込んだとものでした。このような慣例は、南部藩に限らずどこの藩にもあったといいます。しかし、大蔵省は文字通りに解釈して、村井に即時全額返還するよう命じました。当時の大蔵省の最高責任者は、元長州藩士・井上馨大輔(たゆう:副長官)でした。銅山の採掘権だけは何としても死守したいと考えた村井は、仕方なく、5か年年賦で支払うので鉱山業を続けさせてほしいと嘆願しました。しかし、大蔵省はこれをすべて却下して、村井から尾去沢銅山の権利を取り上げてしまいました。その直後、尾去沢銅山は長州出身の政商・岡田平蔵に36,108円の安値で払い下げられました。支払い条件は、無利息の15か年年賦だということです。破格の好条件です。

 ところが、この事件はこれで終わりませんでした。明治6年8月、大蔵大輔を辞任した井上馨は、「岡田より貰い受けた」として尾去沢へ行き、「従四位、井上馨所有」の高札を尾去沢銅山に立てたのです。これを知った村井茂兵衛は、この一連の事件が井上ら長州勢の陰謀だとして、井上を司法裁判所に提訴しました。事の次第を聞いた司法卿兼参議の江藤新平は、部下に徹底調査を命じました。井上の容疑は濃厚でした。司法省は、井上を拘引して取り調べをしたいと正院に上申しました。これに対して、欧米諸国への外遊から帰国したばかりの木戸孝允が同郷の盟友・井上の救済のために奔走することになりました。何としても井上の「悪事」を暴こうとする司法卿・江藤と同郷の井上を救おうとする木戸との対立の構図ができてしまいました。

 もう一つ見逃せない事件が、小野組転籍事件です。小野家は、三井家と並び称された江戸時代以来の大商人です。明治維新後は、営業の拠点を京都から神戸や東京に移していました。そのため東京への本籍移転を京都府庁に願い出ていました。しかし京都府は、転籍申請を握りつぶしたばかりか小野家の代表者を捕らえ、転籍断念を強要するという行為に出ました。京都府庁が転籍を認めなかったのは、小野組から巻き上げていた公納金を徴収できなくなるからでした。さらには、小野組が東京に進出することは、関東に拠点を置く三井組にとって脅威であったため、「三井の番頭さん」と呼ばれた大蔵大輔・井上馨の横やりがあったともいわれます。ついに小野組は、司法裁判所に救済を求めました。

 明治6年6月、京都裁判所は京都府庁に対して、小野組の転籍申請を適切に処理するよう命じました。しかし府庁側はこれを無視し、小野組幹部を府庁に呼びつけて叱責したのです。裁判所は、府庁が判決を無視したことは違式罪(法律蹂躙の罪)に当たるとして、府知事の長谷信篤に金8円、参事の槇村正直に金6円の贖罪金(しょくざいきん)支払いを言い渡しました。しかし、府庁側はこれも拒否したので、司法省は知事と参事の逮捕を正院に申請しました。かくしてこの事件は、中央政府を巻き込んだ重大な政治問題に発展していったのです。この問題の本質は、裁判権と警察権を行政側から引きはがし独立させようとする司法省と、それを阻止し従来通りの既得権を守ろうとする官側の争いにありました。京都府政の実力者・槇村正直は長州藩出身であったため、同郷の木戸に助けを求めました。ここでまたしても、木戸対司法卿・江藤という対決の図式が出来上がってしまったのです。佐賀藩出身の江藤新平は、民権擁護を第一義とする政治家で、権力者の「悪事」に対しては決して許さずという姿勢だったので、木戸をはじめ長州閥の人々とは厳しく対立することになったのです。

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明治六年の政変のはじまり

 明治六年の政変は、明治新政府の中枢部で起きた政権抗争のすえに、西郷隆盛はじめ5人の参議が一斉に職を辞した事件です。定説によれば、その抗争の原因は征韓論をめぐる論争だといわれます。「即時征韓」を唱えた西郷ら5人の参議が、時期尚早と主張する大久保利通や岩倉具視らとの論争に敗れ下野したというのです。しかし、この定説には反対論も数多くあります。その真相を探るべく、まずは明治六年の政変の経緯について振り返ってみます。

 明治新政府は、朝鮮国に何度も友好の使節を送りましたが、朝鮮側は使節に会うことすら拒否し続けていました。さらには、日本から釜山の公館に送る物資の搬送を妨害したり、日本を「無法之国」と侮蔑する書を公館の門に貼り付けるという極めて幼稚な嫌がらせを行うこともありました。事ここに至って、外務省は正院に事態収拾の方策を審議するよう、三条実美太政大臣に要請しました。そして明治6年(1873)8月3日、正院で朝鮮問題に関する閣議が開かれることになりました。出席者は三条のほかに、西郷(薩摩)、板垣、後藤(土佐)、江藤、大隈重信、大木喬任(佐賀)の6人の参議でした。この会議に先立ち、外務省から上申書が提出されました。そこには、朝鮮半島居留民を保護するために陸兵と軍艦を派遣し、それをバックに修好条規締結の談判を行うべしという主張が書かれていました。まず板垣が、この案に賛意を示しました。しかし西郷は、それでは相手を刺激し警戒させるだけだとし、非武装のもとで責任ある大官を派遣して平和裏に談判すべきだと反論しました。そして西郷自らが特使として訪朝することを提案しました。結局、同月17日の閣議で、西郷の朝鮮派遣が議決され、翌々日天皇の裁可が下されました。ただし、この時欧米各国を歴訪していた岩倉使節団の帰国後に彼ら(岩倉具視、大久保利通、木戸孝允)の意見を聞いて正式発表することになりました。

西郷=征韓論者(征韓論)の根拠

 以上の経緯からすると、西郷は征韓論者ではなく、むしろ過激な主張をする板垣らを抑えて平和裏に事を進めようとしていたように見えます。では、西郷=征韓論者という図式はどこから生まれたのでしょうか。──それは、閣議に先立って西郷が板垣に送った書簡の中にあるといいます。同年7月29日に西郷が板垣に送った書簡に、次のような一節がありました。

「軍を送れば、必ず朝鮮国は退去を要求するでしょう。そして、こちらは引かぬと答えれば戦端を開くことになってしまいます。そうなれば初めのお考えとは異なり戦争になってしまうのではないかと愚考します。それよりも使節を先に送るべきです。そうすれば朝鮮国は<暴挙>に出るでしょうから、そうなれば<討つべし(戦争)>の犬義名分を得ることができます。」

 すなわち、──外国と一戦交えるには大義名分が必要になる。そして、自分が丸腰で行けば朝鮮側は自分を殺すだろう(殺されなくとも、交渉がうまくいかなければその場で自刃する)。その時は、「使節虐殺」を理由に戦端を開けばよい。西郷は我が身を犠牲にして朝鮮を討つ大義名分をつくろうとした。──これが西郷=征韓論者(征韓論)の根拠です。もちろんこれには反論もあります。西郷は、過激な主張を繰り返す板垣を説得するための方便として、上記書簡を送ったのだと考えます。そして、あくまでも外交交渉によって朝鮮問題を解決することを望んでいたし、それを実現できるのは自分を置いていないという自負もあったのでしょう。それゆえ、自ら訪韓して朝鮮側と交渉することを望んだのだというのです(交渉説)。この問題はのちにまた考えることにして、政変の結末を見ることにしましょう。

明治六年の政変の結末

 岩倉使節団は、明治6年(1873)9月13日に帰国しました(これより先に大久保は同年5月、木戸は同年7月に帰国しています)。しかし、太政大臣・三条実美は一向に閣議を開こうとはしません。この間、岩倉具視は大久保利通に対して参議に就任するよう説得していました。西郷朝鮮派遣の決定を覆すためでした。また、参議の大隈と大木にも説得工作をし、彼らも西郷派遣反対に傾いていました。度重なる説得を受けた大久保は、西郷訪朝反対の意見を三条と岩倉が途中で覆さないことを条件に、参議就任を承諾しました。西郷訪朝反対の包囲網が形成されたとみた三条は、ついに閣議開催を決断しました。

 同年10月14日、朝鮮問題を議題とする閣議が開かれました。出席者は、太政大臣・三条実美、右大臣・岩倉具視、参議・西郷、板垣、大隈、後藤、大木、江藤、大久保、副島(副島種臣は大久保とともに参議に就任した)の10名で、参議・木戸孝允は病気のため欠席しました。閣議で西郷は、自身が使節となって朝鮮と交渉することは、すでに天皇の裁可を得ていることであり直ちに実行すべきだと主張しました。それに対して大久保は、「もし使節に危害が加えられ、それがもとで開戦ともなれば、財政的負担が重くのしかかり維新の改革も一時的に頓挫することになる。よって、使節派遣は延期して朝鮮問題はしばらく保留にすべきだ」と主張しました。西郷に同調したのが、板垣、後藤、江藤、副島で、三条、岩倉、大久保、大隈、大木が反対に回り、5対5で賛否が分かれ議論は白熱したといいます。結局、この日は結論が出ず、翌日再開することになりました。

 翌日の閣議には西郷は欠席しました。そして、これまでの経過を記した『始末書』を三条に提出して、もし自分の意見が通らなければ、すべての役職を辞任して鹿児島に帰ると伝えたといいます(ただし、この『始末書』については、複数の異なる内容のものが残されているだけでなく、提出日も10月15日または17日あるいは両方などとあいまいな点が多くあります)。この日の閣議でも、賛否双方の意見がぶつかり合いました。特に、海外情勢にも詳しくディベート能力にたけた江藤新平が、西郷訪朝に賛成する立場から岩倉や大久保の主張をことごとく退けていったといいます。しかし、双方譲らずなかなか結論が出ませんでした。その時突然、三条が西郷訪朝賛成を言い出しました。西郷が職をかけてでも訪朝を望むのであれば、やらせてみようではないか、と。三条は、西郷が職を辞して鹿児島に帰った後に、不平士族を中心にした反乱が起こること危惧したのだと思われます。これで局面ががらりと変わってしまい、大久保以外のメンバーがすべて賛成に回り、朝鮮使節派遣は予定通り行われることと決しました。あとは三条太政大臣が天皇の裁可を得るだけという運びとなったのです。

 しかし、大久保もこれでひきさがるような男ではありませんでした。閣議の翌々日(17日)、大久保は三条と岩倉を訪問し、鋭い口調で彼らの変節をなじるとともに、参議辞任と位階の返上を申し出ました。すると、大久保の剣幕に驚いた岩倉も、右大臣の辞意を表明したのです。全責任を押し付けられた形の三条は狼狽します。閣議決定の天皇への奏上を1日遅らせ、岩倉を訪ねてこれまで通りの協力を求めました。しかし岩倉はこれを拒否しました。すっかり憔悴しきって家に戻った三条は、その夜、心労のあまりに卒倒し人事不正に陥ってしまいました。三条が太政大臣としての政務を遂行することが不能となったのを見て、策士・大久保が、子分となった伊藤(俊輔)を使って策動します。三条の代わりに岩倉を太政大臣代理とし、閣議決定を天皇に上奏する際に、西郷訪朝の危険性(使節が殺されるかもしれない、そうなれば戦争が始まる)を岩倉に説明させ、閣議決定不裁可の方向に誘導しようとしたのです。明治天皇は西郷を大変お気に入りだったので、西郷が危険にさらされることを容易に認めないだろうという読みがあったと思われます。大久保の思惑通り、同月20日、天皇は三条邸見舞いの後に岩倉邸を訪ね、岩倉を太政大臣代理に任命しました。

 15日の閣議決定が天皇に上奏されずに一週間が過ぎた22日、西郷、板垣、江藤、副島の4参議が岩倉邸を訪ね抗議しました。その席で岩倉は、大久保から授かった秘策──天皇に上奏する際、西郷訪朝に反対という自分の意見も併せて申し上げる──を暴露しました。これを許せば太政大臣(代理)の恣意的な思惑で閣議決定がゆがめられることになります。こんな暴挙は容認できないとして、西郷は即座に辞意を表明しました。西郷が征韓論者であったか否かは別にして、西郷が下野したのは征韓論の論争に敗れたからではなく、ルール無視で閣議決定を覆そうとしている右大臣・岩倉の暴挙に対する抗議の意思表示だったのです。しかし翌日、岩倉太政大臣代理は閣議の議決内容と訪朝を延期すべしという自分の意見を併せて天皇に上奏しました。そして翌24日、大久保、岩倉の思惑通り天皇は西郷の朝鮮使節派遣を不裁可としました。閣議決定が不裁可となったということは、天皇による不信任が正院のメンバーに下されたことになり、全員総辞職を余儀なくされました。ところが、天皇の不裁可の翌日には、あたかもこの状況を予期していたかのごとくに新体制が発表され、三条太政大臣、岩倉右大臣、大久保、木戸、大隈、大木参議の辞表は撤回され、政変で功績のあった伊藤などが新たに参議に就任しました。一方、西郷、板垣、後藤、江藤、副島の5参議の辞表は受理されました。さらに、大久保は内務卿となり、太政大臣や右大臣を超える絶対的な権限を手にしました。「大久保内閣」の誕生です。

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 大久保や岩倉らが執拗に西郷訪朝を阻止しようとしたのは、いったいなぜだったのでしょうか。表向きの理由は、──もし朝鮮と戦争になれば戦費が莫大なものとなる。それよりも今は、国内の体制整備を優先させるべきだ──というものでした。しかし、翌々年(明治8年)に起きた江華島事件を見ると、この理由が本意だったかどうか疑問になります。江華島事件とは、日朝交渉が一向に進まないことにしびれを切らした明治政府が、朝鮮政府の了解を得ずに軍艦「雲揚」を派遣して江華島沖(朝鮮領海内)で勝手に測量行為を行ったこところ、朝鮮側が砲台から発砲し日本側もこれに応戦したという事件です。他国の領海内で勝手に測量を始めるということは、挑発行為と言われても仕方がありません。下手をすれば全面戦争に発展したかもしれません──結果は運よく交渉が進み、日朝修好条規締結に至りました──。つまりこの時の「大久保政権」は、西郷訪朝よりもさらに過激な手段を使って、朝鮮を交渉の席に引きずり出そうとしていたわけです。

 それでは、大久保らが西郷以下5人の参議を失脚させようとした本当の狙いは何だったのでしょうか。それは正院内での政権抗争だったと考えます。具体的に言えば、大久保派と反大久保派との争いです。大久保にしてみれば、欧米視察(岩倉使節団)から戻ってきてみると、薩長土肥から1名づつ選ばれていた参議の構成が、著しくバランスを欠いているのに愕然としたのでしょう。後藤(土佐)、江藤、大木(佐賀)が新たに加わり、薩:長:土:肥の比率が1:1:2:3になっていたのです。留守政府の筆頭参議だった西郷が、出自など気にもせず行政能力のある人物を採用した結果だったのですが、大久保にしてみれば、幕末に多くの同志が血を流して戦っていたころ、日和見を決めてさしたる貢献もしなかった土佐、佐賀(肥前)両藩出身者が優遇されていることに我慢がならなかったのかもしれません。特に、フランス民法(ナポレオン法典)を手本にして「民権」を重視した新民法編纂に力を注いでいた江藤新平に対しては、敵意すら感じていたと思われます。なぜなら、大久保の理想とする国のかたちはドイツ帝国を建国したビスマルク宰相の治世だったからです。宰相ビスマルクの権力は絶対的なもので、議会は審議するだけで決定権はすべてビルマルク宰相の手にゆだねられていたといいます。小さな国の集合体であった帝国を統治するためには、宰相独裁の政治体制もやむをえなかったのかもしれません。岩倉使節団の一員として明治6年3月にビスマルクの邸に招待された大久保は、日本が手本とする国のかたちはドイツ帝国にあると確信したのでしょう。──日本にはあまり時間がない。富国強兵・殖産興業を強力に推し進めて欧米列強に追いつき不平等条約を改正するためには、ドイツのような強力なリーダーシップで改革を推し進めていく必要がある。民主主義だなどと叫んでみても、封建時代に「お上」のいいなりで暮らしてきた人々に、民権だ自立だなんてわかるはずもない。その意識が育まれるには途方もない時間がかかるだろう。そんな余裕はない。ここは、少々強引にでもドイツ式で行くしかない。──これが大久保の偽らざる心境だったのだと思われます。

 その大久保にとって、目の上のたんこぶだったのが、フランスのナポレオン法典を手本として、民権の擁護や議会制民主主義を声高に主張する江藤新平でした。しかも江藤は、海外の制度にも造詣が深く弁もたつ男でした。大久保がビスマルク型政治を推進するためには、江藤が最も邪魔な存在だったと考えても不思議ではありません。何としても、江藤をはじめとする反大久保派をこの際一掃しなければと、大久保は考えたに違いありません。さらにタイミングの良いことに、このころ江藤司法卿に汚職の追及を受けていた長州藩出身の井上馨や槇村正直を救済するために、同藩出身の木戸孝允や伊藤俊輔が奔走して江藤司法卿と対立していました。その彼らが“敵の敵は味方”とばかりに大久保と協力したのです。結果、江藤司法卿の失脚によって、窮地に立たされていた井上馨も槇村正直も救われました。

 結局、明治六年の政変は、──ビスマルク型独裁政治かフランス型民権重視の政治かの選択という──その後の日本の国のかたちを決める分水嶺となったといえます。そして、完全勝利した大久保は、内務卿となって絶対的権力を握り、ビスマルク型独裁政治を押し進めていったのです。

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征韓説と交渉説

 最後に、西郷が訪朝を決意した本当の目的が何だったのかを考えてみます。

 西郷が自ら訪朝することを決断したのは、定説では明治6年6月だったといわれます。この前月に朝鮮政府による釜山の日本公館への「いやがらせ」行為(物資搬入の妨害行為と日本を侮辱する貼り紙事件)がありましたが、それを受けて開かれた閣議で西郷が提案したことになっています。朝鮮側の非礼行為に素早く対応して、朝鮮征討のために自ら立ち上がったという図式は、まさに「征韓論者・西郷隆盛」の面目躍如たるものがあります。しかし、この「6月説」は根拠があいまいだともいわれます。断定するに足る資料が残っていないからです。実際西郷は、この年の5月から6月にかけて肥満症に伴う血行障害で苦しんでいました。6月初旬には、西郷の病状を心配した明治天皇の計らいで、大侍医の岩佐医師やドイツから招かれたホフマン医師の診療を受けているほどです。このころ西郷は、三条太政大臣や欧米視察から一足先に帰国した大久保利通に辞意を漏らしていたともいわれています(勝海舟の日記より)。果たして、このような状態で自身の朝鮮派遣を提案できるものでしょうか。とても無理な話ではないかと思われます。もう一点注目すべきは、西郷が同年7月21日に弟の従道(つぐみち:陸軍大輔)に送った書簡です。この手紙で西郷は、台湾出兵に積極的な姿勢を見せ、兵を送るなら別府晋介に鹿児島の一大隊を率いさせて連れて行ってほしいと頼んでいます。別府晋介と言えば西郷の片腕の一人で、西南戦争において西郷自刃の瞬間まで傍に仕え、西郷の首を介錯した人物です。別府は、この前年9月に釜山に渡り、朝鮮動静を探ってきたばかりでした。もしこの時、西郷が訪朝を決意していたとするならば、いの一番に別府を同行させようと考えたはずです。別府の台湾派遣を弟に依頼することは考えにくいと思われます。すなわち、西郷が自ら訪朝することを決意したのは、この7月21日以降で、訪朝の決意を記した板垣への書簡を送った7月29日までの間ということになります。この一週間余りの間に、西郷の身に何があったというのでしょうか。

 7月27日、副島使節団が清国との交渉を終えて帰国しました。「明治六年の政変前夜(2)~日清修好条規の締結」でも述べたように、副島使節団の成果は歴史的なものでした。中華思想の基に東アジアの宗主国として「君臨」してきた中国(清国)と、歴史上はじめて対等で平等な条規を批准することに成功させたからです。またもう一つの成果は、台湾問題や朝鮮問題に対して清国は不干渉の態度を貫くことを約束させたことです。これによって、日本の国書に「皇祖」「皇室」の文字があり中国皇帝に対して「非礼」であるので受け取りを拒否するという朝鮮側の主張は根拠を失うことになったのです。何よりも、日本は中国と対等に付き合える国になったのですから、朝鮮政府がそれを拒否する理由はないわけです。副島使節団の交渉結果を知った西郷は、朝鮮問題が大きく前進するチャンスだと思い、訪朝の決意を固めたのではないでしょうか。実際、7月29日付の(西郷の)板垣宛書簡からは、「さて朝鮮の一条、副島氏も帰国して、その後ご決議はあったのでしょうか。」とか「副島君のごとき立派な使節はできなくても、・・・」のように、副島使節団の成果に大いに関心を抱いている様子が見て取れます。つまり西郷は、日本と清国が修好条規を結んだという事実を突きつければ、朝鮮政府も日本との交渉に応じざるを得なくなると確信し、自ら訪朝して朝鮮問題を解決しようと決断したと考えます。いわゆる交渉説です。これも捨てがたい説となります。 

 ただし、征韓説・交渉説、両者共通の弱点もあります。最初に西郷訪韓が閣議で議決された8月17日以降、西郷は弟の従道の別邸に「潜居」して、活動らしい活動は何もしていないということです。もし西郷が征韓を目的に訪朝しようと考えていたなら、事前に陸軍卿の山県や海軍大輔の勝海舟と相談して事前準備をしておくべきでしょう。しかし、そうした動きは全くありませんでした。西郷は陸軍大将でもありましたので、朝鮮と戦火を交えるつもりなら戦争準備を指示するのが当然で、それを全くしないのは無責任と言わざるを得ません。この時の西郷の行動は不自然極まりないものでした。一方で、平和交渉をするつもりならば、朝鮮側との予備折衝や随員の選任および打ち合わせを綿密に行う必要があったと思われますが、そのような動きも全く見られません。いったい西郷の訪朝の真の目的は何だったのでしょうか。──そこで提起されたのが「西郷死拠説」でした。

西郷死拠説

 西郷は死ぬために訪朝しようとしたというのです。──しかし、犬死はできない。しからば朝鮮に渡って虐殺される。または朝鮮側の「非礼」に抗議してその場で自刃する。さすれば、朝鮮征討の大義名分ができる。どうせ死ぬなら、お国のために死にたい。──それが西郷の真意だったというのです。多くの人が、西郷には自殺願望があったと主張しています。安政の大獄で徳川幕府から指名手配された尊王攘夷派の僧・月照を護るため、西郷は月照とともに京都から薩摩へ逃げかえりました。月照は、西郷が主君・斉彬の死に際して殉死しようとしたのを説得して止めてくれた恩人でした。しかし薩摩藩は、月照を追放し暗殺しようとしました。逃げ切れないと悟った西郷と月照は、薩摩の錦江湾(きんこうわん)に身を投げて心中をはかりました。体の弱かった月照は亡くなりましたが、西郷は奇跡的に息を吹き返したのです。これ以降、西郷は武士としての名誉ある死処を得て、そこで人生を全うするという考えにとりつかれていたというのです。明治6年の5~6月ごろに大きな病に苦しんでいたことも、西郷の「自殺願望」を大きくした一因だったかもしれません。そこに朝鮮問題が起こりました。西郷にとっては千載一遇のチャンスだったのかもしれません。──これでやっと死に処を見つけた。お国のお役に立って死んで行ける。──そう西郷は心の中で叫んだのかもしれません。それにしても、もしこれが真実だったとしたら、あまりにも悲しい結末ではないでしょうか。

西郷訪朝の目的は謎のままか

 西郷訪朝の目的について、「征韓説」、「交渉説」、「西郷死拠説」のどの説も決め手を欠き、それぞれの立場からの主張が入り乱れなかなか結論が出ないというのが実情のようです。しかし、定説通りに「征韓説」が絶対に正しいと言い切ることも難しい状況だと思います。今後新たな史料が発見されて、この議論が前に進んでいくことを期待します。

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この記事は、以下の文献を参考にして作成しました。

  • 川道麟太郎著『西郷「征韓論」の真相』(勉誠出版)
  • 小川原正道著『西南戦争』(中公新書)
  • 勇知之著『西南戦争』(七草社)
  • 塩野七生著『男の肖像(西郷隆盛)』(文春文庫)
  • 毛利敏彦著『江藤新平』(中公新書)
  • 杉谷昭著『江藤新平』(吉川弘文館)
  • 鈴木鶴子著『江藤新平と明治維新』(毎日新聞社)
  • 井沢元彦著『逆説の日本史22』第3章~第5章(小学館)

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