ー甲斐健の旅日記ー

園城寺(三井寺)/幾多の苦難を乗り越え、不死鳥のごとくよみがえった寺院

 三井寺(みいでら)は、滋賀県大津市に位置し、正式名称を「長等山園城寺」(ながらさん おんじょうじ)といいます。天台宗寺門派の総本山です。

 西暦672年、大海人皇子(天智天皇の弟、後の天武天皇)と大友皇子(天智天皇の子)が、皇位継承をめぐって争いました(壬申の乱:じんしんのらん)。この戦いで敗れた大友皇子の皇子であった大友与多王(よたのおおきみ)が、父の霊を弔うために寺を創建しました。そして、天武天皇から「園城」という寺号を与えられたことが、園城寺の始まりとされます。

 園城寺は通称三井寺と呼ばれています。この起源は、寺の境内に湧く霊泉が、天智、天武、持統の三代の天皇の産湯に使われたことから「御井」(みい)の寺と言われ、それが転じて三井寺となったといわれます(以降は三井寺と呼びます)。

   

 貞観元年(859)、その前年に唐への留学から帰国した智証大師円珍は、大友氏の氏寺だった三井寺に「唐院」を設置し、天台宗別院として再興することにしました。円珍はその後天台座主(てんだいざす)を務めることになり、三井寺は東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに数えられ大いに隆盛を誇ったといわれます。

 しかし、ここから三井寺の苦難の歴史が始まります。円珍の死後、比叡山は円珍の門流と、第三代天台座主の慈覚大師円仁の門流との間で激しい対立が起きてきました。そして、円珍の死後100年余り経った正暦四年(993)、円仁派の僧たちが円珍派の僧の住居を襲い打ち壊すという事件が起きました。そのため、円珍門下の僧たちは山を下り、三井寺に入ったのでした。この事件で両者の対立は決定的となり、双方とも僧兵を抱えることで武力抗争が頻発したといいます(延暦寺を「山門」と呼ぶのに対して三井寺は「寺門」と呼ばれました)。特に延暦寺側の攻撃は熾烈で、三井寺は数十回にわたって焼き討ち攻撃を受けたといわれます。

 延暦寺との対立に悩まされていた三井寺でしたが、朝廷、貴族や時の幕府とは良好な関係を保っていたようです。平安時代には、関白として権勢をきわめた藤原道長や白河上皇らが深く帰依(きえ)していたといわれます。また源氏をはじめ武家の信仰も集めました。さらに、南北朝の時代には、北朝、足利氏を支持し、以後室町幕府の保護を受けるようになったといいます。執拗に攻撃を加えてくる比叡山の勢力を牽制するという目的があったのかもしれません。

 しかし、豊智秀吉の時代になって、三井寺はまたも大きな苦難を背負い込んでしまいます。文禄4年(1595)、秀吉は突然、三井寺に闕所(けっしょ)の命を下します。闕所とは、境内にある堂宇(どうう)すべて、および所領を没収するという処罰です。延暦寺の西塔(さいとう)の釈迦堂は、この時解体された三井寺の金堂(こんどう)を移築したものです。晩年の秀吉(亡くなる三年前)が、なぜこのような決定を下したのかは、実はよくわかっていないようです。豊臣秀次事件に連座していた男を、三井寺の僧侶がかくまっていたためとか、秀吉が伏見向島(むかいじま)に移植しようとしていた桜の木を、僧侶が無断で切ってしまったからだとか、諸説あります。いずれにしても、三井寺にとっては最大のピンチでした。この危機を救ったのが、かつて三井寺の長吏(ちょうり)を勤めていた道澄(どうちょう)でした。彼は、まず三井寺本尊の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像をはじめ、不動明王像(黄不動尊)などを自分の手元に移して保管し、三井寺に属していた僧侶たちも一時的に引き取りました。そして、秀吉の正室北政所を味方につけ、三井寺を許してもらうよう請願しました。結局、この三年後の慶長3年(1598)、秀吉の亡くなる前日に、闕所は解除されたといいます。三井寺は、道澄の尽力によって復活を遂げたのでした。その後、北政所の寄進による金堂の再建をはじめ、多くの堂宇が再建され、三井寺はよみがえり、現在に至っています。

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 三井寺は、京阪電鉄石山坂本線の三井寺駅で降りて、西へ10分ほど歩いたところにあります。

 まずは、重厚な仁王門が迎えてくれます。天台宗常楽寺(滋賀県湖南市)の門を、慶長6年(1601)徳川家康が移築したものといわれます。門自体は、室町時代の宝徳3年(1451)の建立と推定されています。三間一戸入母屋造(いりもやづくり)檜皮葺(ひわだぶき)の楼門(二階建てだが、下層と上層の境に屋根の出を造らない門)です。

 仁王門を入ってすぐ右手に釈迦堂があります。秀吉の闕所が解除された後、御所の清涼殿を移築したものとされます。天正年間(1573~1583年)に造営された建物といわれます。もともとは食堂として使われたようですが、現在は清凉寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂なっています。一重 入母屋造 檜皮葺の建物です。正面の唐破風(からはふ)向拝(こうはい)は、江戸時代に付け加えられたものといわれます。

 さらに先へ進むと、金堂(こんどう)があります。北政所が慶長4年(1599)に再建したと伝えられます。一重、入母屋造、檜皮葺の建物です。内部は外陣、中陣、内陣に別れ、 内陣以外の床は全て板敷ですが、 内陣は土間となっており、伝統的な天台系本堂の形式です。金堂には本尊の弥勒菩薩像が祀られています。この霊仏は、用明天皇(在位585~87年)の時に日本に伝わり、特に天智天皇が崇拝していたとされますが、秘仏中の秘仏であり、この尊像を拝したひとは誰もいないそうです(不思議な話です)。また、金堂前にある灯籠は、「堂前灯籠」といい、中大兄皇子(後の天智天皇)が乙巳(いっし)の変で蘇我氏を滅ぼしたその罪ほろぼしのために、自らの左薬指(無名指)を切り落とし、この灯籠の台座下に納めたと伝えられています。あるいは、恨みを残し無念の死を遂げた蘇我一族の怨霊を慰めるための儀式だったのかもしれません(想像ですが)。

 金堂の南東に、鐘楼があります。慶長7年(1602)に建立された、一重 、切妻造(きりつまづくり)檜皮葺の建物に吊るされているのは、三井の晩鐘と呼ばれる巨大な梵鐘です。慶長7年(1602)に造られたこの梵鐘は、「声の園城寺鐘」といわれ、「姿の平等院鐘」、「勢の東大寺鐘」と共に、日本三名鐘の一つといわれています。また、環境庁が定める「残したい日本の音風景100選」にも選ばれています。乳(ち)の数が、5段5列の4区画と、上帯の8個を合わせて108個となっています。108の煩悩にちなんだ数の乳を持つ最古の梵鐘といわれます。また、2つの撞座(つきざ)を結ぶ線と龍頭(りゅうず)の長円方向とが直交していますが、鐘の揺れる方向(鐘を撞く方向)と龍頭の長円方向が直交しているのは、奈良時代に造られた梵鐘の特徴だそうです(平安時代後期以降は、それらが平行になっている)。また、撞座の位置が低く、鐘の淵の部分の駒の爪は、外に張り出しています。

 金堂の裏にある閼伽井屋(あかいや)は、慶長5年(1600)北政所が建立した、向唐破風造(むこうからはふづくり)、檜皮葺の小堂です。堂内には、三井寺の名の起源となった霊泉が湧き出しています。

 金堂から西に坂を少し登ったところに弁慶鐘を安置するお堂があります。弁慶鐘は奈良時代の作といわれ、撞座は比較的高い位置にあり、駒の爪は外に張り出していないところが、三井の晩鐘との違いです。仕上がりは悪く、傷や欠損があり、俗に弁慶引摺(ひきずり)鐘とよばれています。延暦寺との争いの中で、弁慶が三井寺からこの鐘を奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。鐘にはその時のものと思われる傷痕が残っているのだそうです。

 このお堂からさらに坂を登ったところに、経蔵(きょうぞう)があります。室町時代に建立された禅宗寺院の国清寺(こくせいじ:毛利家ゆかりの寺、山口市にあった)の経蔵を、慶長7年(1602)に毛利輝元が移築したものです。一重、宝形造(ほうぎょうづくり)、檜皮葺で裳階(もこし)が施されています。内部に入ることが出来、一切経(いっさいきょう)を納めた巨大な八角輪蔵(りんぞう)を間近に見ることが出来ます。

 経蔵から南に歩くと、智証大師円珍が創設したとされる唐院があります。唐院には、三重塔、潅頂堂(かんじょうどう)、大師堂が建ち並んでいます。三重塔は、室町時代に建立された、大和の比蘇寺(ひそでら)の塔を、慶長5年(1600)に徳川家康が移築したものといわれます。一層目の須弥壇(しゅみだん)に、釈迦三尊像が安置されているそうです。

 潅頂堂(かんじょうどう)は、大師堂の拝殿の役割を持っています。そのほか、種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式である潅頂を行う場でもあります。桃山時代の建立で、一重、入母屋造、檜皮葺の建物です。この奥にあるのが大師堂です。貞観10年(868)に内裏の仁寿殿(じじゅうでん)下賜(かし)され、智証大師円珍が唐から持ち帰った経典や 法具を納め、 潅頂の道場としたのが始まりです。現在の建物は、慶長3年(1598)に建立されました。一重、宝形造、檜皮葺の建物です。内部には、二体の智証大師像(中尊大師・御骨大師)と黄不動尊立像の三体が安置されていますがいずれも秘仏で非公開です。

 多くの苦難を乗り越えてきた三井寺にも、今は穏やかな時が流れているように感じます。絶対絶命の危機を何度も乗り越えた寺門派の人々の信仰の強さと意志の固さに、敬服するとともに何故か清々しささえ感じます。



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