佐和山城址/豊臣政治の継承のために戦い敗れ去った石田三成の居城
はじめに
佐和山城(さわやまじょう)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江国坂田郡(現・滋賀県彦根市)にあった城です。関が原で徳川家康と天下をかけて戦い敗れ去った石田三成の居城だったことでも有名です。三成敗北後は、家康によって完膚なきまでに破却され、現在は当時の面影はなく、城跡に石碑が建つのみです。
佐和山城の歴史は、鎌倉時代にさかのぼります。近江国守護だった佐々木定綱の六男・佐保時綱が鎌倉初期にこの地に築いた砦が始まりとされます。以後佐々木家から分家した六角氏がこの地を治めていましたが、戦国時代後期には浅井氏が台頭し、佐和山城もその支配下になりました。天正元年(1573)7月、小谷城(おだにじょう)の戦いで浅井氏が滅亡すると、佐和山城には信長の家臣・丹羽長秀入りました。さらに何人かの武将が城主をつとめた(堀秀政・堀尾吉晴)のち、天正19年(1591)、石田三成が城代(城主代理)として入城しました。そしてその4年後の文禄4年、佐和山城主として佐和山19万4千石を拝領することとなりました。
関ケ原の戦いで石田三成率いる西軍が大敗した翌日、家康は小早川秀秋・脇坂・朽木・赤座・小川の「西軍裏切り組」を先鋒とした大軍をもって佐和山城に攻め込みました。佐和山城では、三成の父・正継と兄・正澄がこれを迎え撃つべく城内の防備を固めていましたが、多勢に無勢──奮戦むなしく落城し、正継・正澄親子は自害して果てました。佐和山城はその後、関ケ原の戦いで武功のあった井伊直政に与えられましたが、その2年後、家康の命で新たに彦根城を築城することとなり、佐和山城は破却されることとなります。佐和山城は、天守などの建物のみならず石垣までも完膚なきまでに壊され、現在城跡には石碑がポツンと建つだけです。
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訪ね歩く
佐和山城址に至る佐和山登山口は、JR琵琶湖線・彦根駅東口から、線路沿いに北へ20分ほど(約1.1km)歩いたところにあります。龍潭寺(りょうたんじ)境内から登っていきます。龍潭寺の入り口付近に観光案内の詰め所がありますが、土・日・祝日のみの営業です
佐和山城登山口の入り口にある龍潭寺は、静岡県浜松市にある龍潭寺の分寺で、徳川幕府を支えた譜代大名の筆頭格・井伊家(彦根藩)の菩提寺(ぼだいじ)です。創設は慶長5年(1600)で、臨済宗妙心寺派の禅寺です。境内には石田三成の銅像があります。また、江戸時代初期の作庭といわれる二つの庭が一般に公開されています。一つは方丈(ほうじょう)の南にある枯山水(かれさんすい)の「ふだらくの庭」(観音菩薩の住む補陀落山〈ふだらくさん〉とその一帯を表現している)。もう一つは、書院の東にある池泉式庭園(ちせんしきていえん)です。柱や鴨居(かもい)を額縁に見立てて室内から観賞できる「額縁庭園」です。時間があれば、ぜひ立ち寄りたいお寺です。
龍潭寺山門をくぐり、本堂を左手に見ながら、狭く急な登山道を登っていきます。雨が降ると滑って登るのに苦労するかなと心配になるほど急な坂道です。30~40分ほど登ると、本丸跡につきます。ここには「佐和山城址」と刻印された石碑と説明板が立っているだけですが、関が原で武運つたなく敗れた石田三成の無念さ、さらには、家康軍の猛攻にさらされ城と運命を共にした三成の父・正継、兄・正澄の最後に思いを馳せ、しばし浸ってみるのもいかがでしょうか。また、この高台からは、伊吹山や琵琶湖そして彦根市街の絶景が一望できます。
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写真集
(クリックすると写真が拡大されます)▲石田三成屋敷跡 佐和山城登山口に至る道の左手に、石田三成屋敷跡の石碑が建っています |
▲龍潭寺(りょうたんじ)入口 |
▲石田三成座像 |
▲龍潭寺(りょうたんじ)山門 |
▲佐和山城址に至る山道 |
▲佐和山城本丸跡 |
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